2005年3月13日掲載
――「偏見と独善」に満ちた反動思想と極端な「時代錯誤」性
2005年3月10日 鈴村明
今年は、教科書採択の重要な年であり、リベンジに挑む「つくる会」への批判を強めていくことが求められています。
「つくる会」新会長の八木秀次氏(高崎経済大学助教授)は「平成13年の採択で敗北したのは、(中略)少数派による『「新しい歴史教科書」は戦争賛美の教科書だ』という根拠のない批判と脅迫に全国の教育委員が怯えた結果だ」と総括しながら、今年の「つくる会」運動に、その教訓を生かそうとしています(『史』誌05年1月号)。しかし、扶桑社版の歴史・公民教科書が「戦争する国」づくりのための教科書であることは明らかであり、市民の側の批判は、歴史学や教育学などをはじめとした学問的な「根拠」に基づくものであり、八木氏が言うような「根拠のない批判」なのではありません。
そうした観点をふまえつつ、以下、「つくる会」新会長の反動思想が、いかに時代錯誤のものであるのか、その点について幾つか紹介しておこうと思います。
1、「つくる会」新会長の教科書批判と「修身教育の復活」論
八木氏は「現在、子ども達が使用している・・歴史教科書には『戦え』『抵抗しろ』『訴えろ』『立ち上がれ』というメッセージが溢れ、公民教科書では具体的な“闘争目標”が与えられています」と現行の教科書を批判し攻撃しています(前掲『史』誌)。
八木氏は、歴史教科書に「『立ち上がる農民=戦国の世』(戦国時代)、『たたかう一向一揆=信長・秀吉の天下統一』(安土桃山時代)、『百姓一揆のたかまり=生活を切り開く民衆の抵抗』(江戸時代)」などの表題名があることをとらえ、現行の歴史教科書を、子ども達に「戦え」「抵抗しろ」「訴えろ」「立ち上がれ」と煽動する教科書であるかのように極端に歪めて描き、批判しています(『ボイス』05年1月号、及び前掲『史』誌)。しかし、八木氏が『ボイス』誌上の論考で現行版であるかのように取り上げている中学歴史教科書は、実は、今使われているものではなく、すでに過去の資料となった教科書に過ぎません(1996年度の検定教科書)。そして、同じ出版社が刊行した現行版の歴史教科書(01年検定済み、02年度より使用されている教科書)には、八木氏が取り上げているような「立ち上がる農民=戦国の世」「たたかう一向一揆=信長・秀吉の天下統一」などの記述は全く登場せず、現行版の表題は、「下克上の世」「信長・秀吉の政治」等の平易なものに変わっているのです。このように八木氏は、二重のゴマカシをしながら、現行の歴史教科書を攻撃しているわけです。
なお、八木氏が過去の歴史教科書からとりあげた記述をみても、それらは、いずれも歴史的事実(民衆史、社会史)に関する客観的な記述なのであり、子ども達を煽動するためのものでないことはあまりにも明らかです。
八木氏は、神武天皇(建国神話上の人物)の染色体をもっていることが天皇であることの意味であり、「神武天皇の血筋は男系の継承でなければ途絶えてしまう」と強調しています。そして、万世一系の重みを考えれば女性天皇容認論は排すべきと強調し、天皇が「女系に移った途端に天皇の歴史的正統性はなくなり、日本人は精神的な支柱を失う」という危機感まで語っているような人物です(田原総一郎責任編集『徹底討論!皇室は必要か』、八木著『「女性天皇容認」論を排す』、『ダカーポ』誌556号の特集「これからの皇室どうなるのか」など)。
さらに八木氏は、林房雄『大東亜戦争肯定論』を「近代史を知るためのベストワン」の書物と賛美しているような、驚くべき歴史観の持ち主なのです(『諸君』02年3月号)。そして「つくる会」歴史教科書も、こうした考えを土台にしてつくられたものなのです。
一方、八木氏の言う「公民教科書では具体的な“闘争目標”が与えられている」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。八木氏には『反人権宣言』という著作があり(ちくま新書)、「反人権教育こそ子どもを救う」「暴走する人権に鉄槌を」というテーマでの対談もあり、これらをヒントにすると、八木氏がいう「具体的な闘争目標」が何であるかはっきりします。八木氏は、対談「反人権教育こそ子どもを救う」の中で「いま教えるべきは『人権』という闘争のイデオロギーではなく、文字通り『身を修める』という意味での『修身』の内容である」「時代錯誤と進歩派や左翼から言われてもいっこうにかまわない。ためらわずに、そうすべきときがきている」としているからです(木村貴志編『大人の責任』PHP研究所186頁)。つまり、八木氏は、「新しい人権」などの記述によって「闘争目標が与えられている」とねじまげながら、現行の『公民教科書』を攻撃しているわけです。そして、八木氏は、実際に修身教科書を独自に編集し、刊行しているように、極めて復古的な人物なのです(八木秀次監修『親子で読みたい精撰尋常小学修身書-明治・大正・昭和-』小学館文庫)。
#:アメリカ版修身教科書と八木氏編集の『修身書』、そして『心のノート』;『心のノート』作成で中心的な役割を担った押谷由夫氏(元文科省教科調査官、昭和女子大学教授)は、アメリカのベネット氏(レーガン時代の教育長官)が退職後に作成した『道徳読本』が90年代中盤の同国で250万部の大ベストセラーになったことをふまえ、初年度に1200万部配布された『心のノート』について「大、大、大ベストセラー」と書いています(『道徳教育』誌02年9月号)。実は、八木秀次監修の『尋常小学修身書』は、そのベネット氏による「現代アメリカ版修身教科書」を参考にして作成されたものであり、八木氏本人による解説文にその経緯が書かれています。そして、押谷由夫氏は、近年、八木秀次氏によるものをはじめ、何種類か修身教科書が復刻されていることをとりあげ、その動向にたいへん注目しているのです(押谷「『道徳の時間』特設批判論の再検討・下」、昭和女子大学近代文化研究所『学苑』765号)。
2、反動的な改憲学者=八木秀次「つくる会」会長
八木秀次氏は、憲法学と政治思想史を専攻する大学の助教授ですが、命がけで憲法改悪をすすめようとしている最も右翼的な論客として論戦布告している人物です。
例えば、八木氏は、『発言者』という雑誌で「日本国憲法の思想」という連載をしていますが、この連載の最終回のテーマは、「われわれの愛する歴史と伝統の国を骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないか」というもので、たいへん露骨な改憲論になっています(『発言者』誌05年2月号)。八木氏は、彼ら保守主義者が「愛する日本」、その国柄である「歴史と伝統」を否定した日本国憲法に強い憤りの感情を込めながら、反動的な改憲論を論じている人物なのであり、「日本」を否定した戦後憲法を改定し、「日本という国柄」を明確にした憲法にすべき、と主張しているのです。そうした改憲方向を『自由民主』誌上(04年5月号)の「提言=日本国憲法には、『日本』が足りない」で示していた八木氏は、その後、自民党が「国柄」重視の改憲試案(「論点整理」04年6月10日)をだしたことに対して「とても嬉しい気分」と語っているわけです(「正論」編集部編『憲法の論点』産経新聞社、378頁)。
八木氏が強調するのは、天皇の元首化、国防義務の明確化、幸福追求権(第13条)や男女平等を示した第24条の改定です(八木著『日本国憲法とは何か』PHP新書)。とくに、八木氏は憲法24条を「家族解体条項」と攻撃し(『ボイス』02年10月号)、この条項成立に深く関与したベアテ・シロタ・ゴードンさんへの批判も展開しているのです(共著『日本国憲法論』嵯峨野書院)。
憲法学者の八木氏は、憲法の平和原則を擁護する憲法学者を全面批判する「憲法改正を阻止する人々」などの論考を書き(『発言者』誌上)、その中で9条の理念をくり返し攻撃している人物です。八木氏のところ(研究室?)には、驚くなかれ、地元の自衛隊幹部がゼミの学生に体験入隊を勧誘するために訪問しており、八木助教授は、それに心よく対応しているのです(共著『歴史と文化が日本をただす』モラロジー研究所)。
戦後日本の中学校や高校では、日本国憲法は、明治憲法と対比されながらその進歩的原則が教えられています。しかし、明治憲法を礼賛する憲法学者の八木秀次氏にとって、そうした授業の展開や教科書の記述が許せないのです。実際、八木氏は、国会の憲法調査会の参考人として意見表明した際にも(02年7月4日)、今の学校で、「日本国憲法善玉論」を押し出すために「明治憲法悪玉論」が意図的に展開されていると批判しているのです。
3、「戦争する国」の人づくりと教基法「改悪」論
八木氏は、教育基本法改悪論でも教育勅語を礼賛しながら、「教育勅語そのものの復活は難しいだろうが、そこに書かれていることは普遍的なことなので、新たな形でその精神を復活させることは必要」と論じています(『自由民主』04年12月号における八木氏の「提言=求められる教育基本法の大胆な改正」)。そして教育勅語の「一旦緩急あれは義勇公に奉し」という箇所の「本来の趣旨は、『国民皆兵』を原則とする近代国民国家の国民としての国防の義務、国家への忠誠義務を述べたもの」にすぎない、という驚くべき解釈をしているのです。
また、八木氏は、教育基本法制定過程に関する問題でも、教育勅語を否定した国会決議を占領軍の圧力で上げさせられたものと批判し、この決議によって「道徳教育の理念なき教育基本法」体制になってしまったと論じています。しかし、教育勅語排除失効決議が採択される時点で、当時の文部大臣は、「教育勅語は新憲法の精神と合致いたし難いもの」で「教育勅語は明治憲法と運命を共にすべきもの」と説明しています。さらに、これらの決議の中で、新しい国民道徳を振興していくためにも教育基本法をねづかせていく方向性が確認されていたのです。
また、八木氏は、2003年の中教審答申にたいへん不満なようで、この答申を「一歩前進三歩後退」と評価し(「中教審答申の危うさ」『明日への選択』03年5月号)、「教育基本法改正に仕込まれた革命思想」という論文も書いています(『正論』03年9月号)。八木氏は、「新しい公共」という考え(契約国家観)がたいへん気に食わないようで、中教審答申には「国家というものが祖先から受継いで来たものだという認識はまったくない」と批判し、次のように述べています。
「『愛国心』とか国家意識というのは、ことと次第によっては、国家のために自分の命を投げ出すという覚悟が求められます。しかし、契約国家観というのは、自分たちの必要や都合によって国家という機構を作ったということですから、自らを犠牲にするという精神は出てこない。契約国家観では『愛国心』は育てられないのです」(前掲『明日への選択』誌)
八木氏は、答申程度の改定では「国家のために自分の命を投げ出すという覚悟」が育成できない、と批判しているのであり、同氏は、国家のために「自らを犠牲にするという精神」を育成できるような教育基本法改正にすべき、というたいへん危険な考えを語っているのです。
4、子どもの権利条約やジェンダーフリーへのバッシングを繰り返す人物
八木氏は、子どもの権利条約への批判・攻撃を繰り返している人物です(八木著『論戦布告』、月刊『発言者』誌上など)。八木氏は、子どもを個人として尊重することは、日本人が帰属している共同体やそれを生み出した歴史や伝統、そこに存在する慣習や道徳と対立することになり、共同体、歴史や伝統、日本の慣習や道徳を破壊することになる、としています。このように八木氏は、子どもの権利条約を「国柄」を崩壊させる条約であるかのように攻撃しています。しかし同条約には、この条約を批准した国に対し、「自国の文化や伝統を破壊すべき」と求めるような条項などないのです。また、八木氏は、〈子どもの権利尊重や自主性の尊重は、子どもの我がまま勝手な要求をそのまま受け入れて、教育の世界を「学級崩壊」や「学校崩壊」などの無規範状態に変容させてしまう〉と攻撃しています。しかし、教育の世界において、子どもの権利や自主性の尊重と、教師の子どもへの応答や働きかけを両立させようと努力しているのが、現代の流れなのです。八木氏は、〈教育や躾には強制力が伴い、子どもを型にあてはめることが本質〉と考え、〈子どもの権利尊重は、子どもに型をはめる強制力を大人から奪うものである〉と強調していますが、こうした考え方こそ、子どもの権利条約時代に逆行する典型的なものだといえるのです。
八木氏が攻撃している対象は、「憲法、教育基本法、子どもの権利条約」にとどまりません。同氏は、とくにジェンダーフリーやフェミニズムに対して、「狂気の思想」「妖怪」「現代の悪魔の思想」という悪罵の言葉を選んで攻撃しています(共著『新・国民の油断』PHP研究所、及び千葉展正著『男と女の戦争=反フェミニズム入門』への八木氏の推薦文など)。しかし、現代の男女平等思想は、果たして「悪魔の思想」なのでしょうか?こうした攻撃をすればするほど、「つくる会」の八木会長がいかに時代錯誤の考えの持ち主であるのかが証明されていくだけだと思います。
5、特攻隊員を日本の英雄と思い、誇りに感じる人づくり
八木秀次氏は、「反戦映画に仕立てられた『ホタル』」(『諸君』01年9月号)という論考で「特攻隊の歴史は切なくも哀しい我が民族の悲劇である。彼らの苦悩、迷い、緊張、死への怖れ、家族や祖国へのひた向きな思い、覚悟、ある種の清涼感、そして何よりもその崇高さ。これらすべてを現代人や反日外国人に理解しやすい解釈を施すことなく、そのまま映画に描けないものか」と書いています。また、八木氏は、『わしズム』誌上の連載「平均的日本人」の中でも「特攻という青春」をテーマとしてとりあげています(第7号)。八木氏は、長谷川三千子氏(埼玉大学教授)の文章を引用しながら、次のように書いています。
「語弊を恐れずに言えば、私も長谷川氏同様、彼らの『青春』を羨ましく思う。自分が『死ぬ』ということの意味、すなわち『生きる』とは本当はどういうことなのかを真剣に考え続け、迷いを残しながらも、その使命感ゆえに散っていった。こんな若い年齢で、これほどの精神性の高さを、それもごく普通の日本人が持ちえた時代があったのだ。人は、それを悲劇というかもしれない。しかしその悲劇が私たちの国の文字通りの“英雄”をつくったこともまた事実である。私はこのような“英雄”たちと同じ日本人に生まれたことを心から誇りに思う・・」
特攻隊員の「精神性の高さ」を羨ましく思い、その悲劇を英霊とえがき、特攻隊員ら英雄たちと同じ日本民族の一員として生まれたことを心から誇りに思っている――。そうした特攻隊員たちの青春を羨望しているのが、「つくる会」の八木秀次会長なのです。八木氏は、「日本が消滅しようとしている」という危機感を繰り返し語っていますが、同氏が考える〈日本なるもの〉は、特攻隊員のような「精神性の高さ」を「ごく普通の日本人が持ちえた時代」状況を指しています。平均的な日本人が日本国家のために進んで死ぬことができるような国民精神の確立と再生――。「つくる会」の八木会長が期待し、描く日本の姿は、そうした〈国民精神〉で満ちた「戦争する国」にほかならないのです。
「つくる会」の歴史・公民教科書は、戦争賛美・歴史歪曲・改憲先取りの教科書です。日本中のすべての地域で「つくる会」教科書を採択させてはなりません。