学校の外から

補論:自民党森派の教育基本法「改正」論と『心のノート』

2004年10月14日掲載

(1)森喜朗氏(清和会会長)の教育基本法「改正」論の特徴

中山成彬(なりあき)文部科学大臣の教育観のバックには、森喜朗清和会会長の教育観があるので、森氏の議論をとりあげておく。

自民党の各派閥の教育基本法「改正」に向けての考えをつぶさに調べていくと、いくつかの相違点があることが明かになる。例えば、教育基本法「改正」動向の最大の震源地をつくってきた中曽根元首相の「改正」論と、森元首相の「改正」論とを比較しても、若干の相違点がみられる。その相違点は、教育基本法第1条の「人格の完成」論をめぐるものといえる。  

中曽根氏の場合は、次のように論じているように、教育基本法の原則に民主的人格の形成を読み取り、そうした教育基本法の民主的性格を焦点にしながら、同法を批判、攻撃している点に特徴がある。「この教育基本法は、米国の調査団の意見を聞いたうえで作られたため、まるで蒸留水のようで、日本特有の味がしないのはお気づきのとおりです。権利、個性、人格、自由、民主的といった言葉は豊富に出てきますが、肝心の義務や責任、あるいは日本の伝統や文化、歴史、国や公の考え方、道徳や家庭の重要性を踏まえた記述がまったくありません」(中曽根康弘『日本の総理学』PHP新書、67、8頁。2004年9月)。

森氏の場合も、「教育基本法の理念に欠けていたものは、『国家』『文化』『家族』『自然の尊重』であり、その理念で過度に強調されていたものは、『個人』と『普遍的人類』であった」としているので、中曽根氏の議論とほぼ同じである(『人づくりは国の根幹です!』47頁)。しかし、森氏の場合、教育基本法の起草と制定直後の時点では「教育勅語が直ちに破棄されたわけではない」とし、この基本法には〈日本特有の味〉につながる面があると考えており、「人格の完成」に注目する。つまり、自民党森派(清和会)は、「人間の内面育成の問題については教育勅語に委ねるべきものと考えられて(教育基本法は)制定されていた」とみなすのである(『人づくりは国の根幹です!』76頁)。実際、森氏は次のように書く。教育基本法の「起草者たちは、教育勅語と教育基本法との両輪で戦後教育をスタートさせようと企図した」が、「占領軍の圧力によって、衆参両院それぞれで教育勅語の排除決議・失効決議が行われ、教育勅語は日本から完全に姿を消すことになり、ここに道徳教育の理念を欠く教育基本法は完成をみたのである」(『人づくりは国の根幹です!』27頁)このように森氏は、教育基本法を起草した人々の「人格の完成」論の中に、国体護侍の「人格ノ完成」論(#)を読み取りたいために、そうした読み取りを不可能にした「教育勅語の排除・失効決議」がたいへん気にくわないのである(#:1945年12月に密かに考案された「京都勅語草案」では、「人格ノ完成」を教育の目的にしている。この点については、佐藤学「教育基本法成立の歴史的意味」『教育学年報10号』世織書房を参照)  

森氏は、教育勅語的な理念を指針とした「道徳教育を通じて初めて人格は完成し、崇高な尊厳が身に備わる」と主張し、そうした「道徳が心に宿らないままの幼稚で低俗な『個性』も一個の『人格』であるかのように子供たちを遇した結果、教師を教師と思わない、また親を頭から見くびる子供たちを大量につくり出してしま」い、「その結果、今日のような教育荒廃がもたらされた」と論じるのである(『人づくりは国の根幹です!』29頁)。実際、森氏は、次のように強調する。「教育基本法は・・『個人の尊厳』を言い、教育の目的として『人格の完成』をかかげている。しかし、本来、道徳教育のないところに『個人の尊厳』も『人格の完成』もあろうはずがないことは自明である」(『人づくりは国の根幹です!』29頁)。実は、これらの森氏の記述、とくに教育基本法制定過程論は、同氏独自のものではなく、「つくる会」理事の八木秀次氏(高崎経済大学助教授)の論文「教育基本法-その知られざる原点」からの〈引き写し〉である。例えば、八木氏は「現行の教育基本法は『個人の尊厳』をいい、教育の目的として『人格の完成』を掲げている。しかし道徳教育なきところに『人格の完成』も『個人の尊厳』もないはずである」と書いており(『教育は何をめざすべきか=新・教育基本法私案』PHP研究所、85頁)、この記述は、森氏のものとそっくりである。もちろん、単なる〈引き写し〉ではない。森氏は「『人格の完成』――それが教育の目的であった。現行の教育基本法が第1条に掲げる目的を『あった』と過去形で述べなければならないのは、この目的が十全に達成されているとはとても言えないからだ」とする。そして森氏は教育荒廃を論じながら、「『人格の完成』を目指したはずの教育が、なぜ、これほどまでに『未完成の人格』を量産することになってしまったのか」を大きな問題とし、その最大の原因を、現行の教育基本法における「道徳教育の理念の欠落」にもとめるのである。だからこそ、森氏らは、教育勅語に相当する「道徳教育の理念」が位置づいた新しい教育基本法に改定してこそ、同氏らが期待する「人格の完成」が十全に達成されると考えるのである。  

このように森氏の「人格の完成」論は、「神の国」発言をし、教育勅語を賛美する人物による「人格の完成」論であり、民主的な主権者の育成を否定・抑制する「人格の完成」論なのである。かつて東京大学の総長を務めた矢内原忠雄が指摘しているように、教育基本法は、前文で明示する「『個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間を育成』すること以外に、道徳教育の目的をもとめることはできない」という戦後教育の理念と原則を明らかにした教育の根本法であり(「文教政策」『朝日新聞』1956年11月16日付)、教育勅語を賛美する森氏らにとって、こうした戦後の民主道徳の理念が気にくわないのである。 

今日、与党協議会の「中間報告」には、「教育の目的」と別に「教育の目標」という一条項があり、その中に「道徳心の涵養」が入っている。従って、この「中間報告」は、森氏らが期待するような新しい教育基本法へと方向づけたものになっているのである。


(2)『心のノート』は、森内閣時にその作成が計画された道徳教材

『心のノート』の本格的な編集作業は、森内閣の下で開始されている。実際に、『心のノート』編集委員の柴原弘志文科省教科調査官は、<2000年12月に、この教材の編集のために全国から教員に集まってもらった>と語っている(『中学教育』誌、2004年2月号)。つまり、『心のノート』は、1998年の中教審「心の教育」答申などに基づいたものだが、同時に教育改革国民会議(森首相の私的諮問機関)の最終報告(2000年12月)をうけて作られた道徳教材なのである。  

当時、森首相は、ホワイトボードを使った板書もしながら、道徳教育・心の教育の重要性を全国民向けに「講義」し、その「講義」ビデオを首相官邸のホームページにはりつけ、誰でもみられるようにしていた(2000年8月16日、「総理のひとこと/教育について」)。当時の森首相がそうした措置をとってまで強調したポイントは、「全人教育を目指して、心の教育の充実を図る必要がある」という点であり、「奉仕の精神、日本の文化や伝統を尊重し、国や地域を愛する気持ちを育み、子どもたちが創造性豊かな『立派な人間』として成長する」ことを全ての大人(全国民)が望んでいるという"独断"であった。教育基本法がまだ制定されていない戦後直後の段階で、当時の前田文相が「奉公心を発揮して、国家社会に対する純真なる奉仕をまっとうするよう」「立派な人格」へと子どもを導く「教育者の任務」について訓示しているが、森氏の教育観は、こうした奉仕の精神にみちた〈立派な人格形成〉論とかわりないものである。  

臨時教育審議会が大きな問題になった1980年代、森氏は文部大臣を務めており、同氏は「今、文部省が徳体知といっておりますが、僕が文部大臣のときうるさくいって変えたんですよ」と自慢している(日本青年会議所編『幸福大国へのカウントダウン』1989年、273頁)。知徳体――こうした表現じたいふるめかしいが――森氏は、知育優先、知育偏重論を文部省に圧力をかけて徳育優先に変えさせていたのである。そして森氏は、首相時代の「講義」で教育について「政治的な介入を避けるということで政治が余り触れないということが、一つの今までの議論の中のどうも制限(制約)になっている」と論じながら、教育の世界に政治が介入していくことを合理化し、"徳育(心の教育)を最優先すべき"という持論を押しつけていたのである。そうした森首相(当時)の文教政策への「政治的な介入」と「心の教育の充実」論を受ける形で、『心のノート』の作成配布が計画されるのである。森氏が望んでいる人間像は、奉仕の精神にみち、伝統文化を尊重し、郷土愛や愛国心をもった「立派な人間」であるが、これらは『心のノート』がめざす人間像と重なっている。  

また、当時、文部(科学)大臣は、森派の町村信孝衆議院議員だったが、同氏は「豊かな心、道徳心を育む」という点について次のように書いている。「戦後、最もなおざりにされてきたのは道徳教育です。道徳の時間は生徒にとって最もつまらない、無意味な時間として扱われているのが現状なのです。そこで、①全小中学生に『心のノート』を配布する、②ボランティア等体験活動を生かした道徳教育を推進する〔③④は略〕」(『人づくりは国の根幹です!』246頁)  

このように、『心のノート』は、国策としての「心の教育の充実」論を強調する2000年当時の森首相や町村文部科学大臣らの意向をうけて作られた教材なのである。そして森首相が「神の国」発言をした際に「首相の言いたいことには基本的には賛成する」とコメントしていた臨床心理学者の河合隼雄氏が(『朝日』2000年5月19日朝刊)、『心のノート』作成協力者会議の座長に就任し、この教材の開発に深く関与していく、という経過だったのである。  

なお、町村氏は、文部科学大臣のときに「思いやりの心や正義感を育てるために『心のノート』(仮称)の作成・配布を考えている」と説明している。とすると、「豊かな心」の持ち主である町村外務大臣が発言することは、当然、道徳教材『心のノート』の基本を満たしたものということになる。例えば、「正義感」という点でいえば、イラクへのアメリカの軍事行動を日本政府が評価し賛同したのもブッシュ大統領のイラク戦争開始の判断が、『心のノート』中学校版に書かれているように、イラクの「不正や不公平を憎み、それを断固として許さない」ものだったから、ということになるのである。このように「心豊かな」町村外相の言動を分析していくと、『心のノート』の問題点もみえてくる関係にあることも指摘しておきたい(2004年10月5日)。