2004年6月28日掲載
鈴村明(教育問題研究者)
0、民間教育臨調の教育基本法「改正」論
「日本の教育改革」有識者懇談会(以下、民間教育臨調)が、2004年6月16日に『なぜいま教育基本法改正か』という論文集を発刊した(PHP研究所)。内容としては、「新しい歴史教科書をつくる会」の高橋史朗副会長(明星大学教授、民間教育臨調の運営委員長)が、「第1部 教育基本法がもたらしたもの」(第1章から第3章まで)の全体を担当し、「第2部 教育の危機を救う4つの視点」を、民間教育臨調の4つの部会の部会長が執筆している論文集である。 高橋史朗氏は、第1章「教育の危機の実態」で、子ども・親・教員・教育行政に対するバッシングを全面展開し、第2章「教育基本法の思想的総括」で、民間教育臨調が描きだす教育政策をすすめる上で、現行教育基本法のどこが邪魔になっているのかを論じ、第3章「いま、なぜ教育基本法の改正なのか」で、教育の危機の根本原因を現行・教育基本法に徹底的になすりつけた上で、「第3の教育改革をめざす教育基本法改正」論を強調している。 この間、〈教育基本法のような法律のない先進諸国でも、日本と同じ様な教育の危機がうまれているではないか〉というまともな指摘も登場しており、いじめや学級崩壊、不登校や学力問題などの教育荒廃の原因を現行・教育基本法の存在に求める議論に根拠がないことも明かになりつつある。こうした状況に危機感を感じているが故に、民間教育臨調と高橋史朗「つくる会」副会長は、今回の論文集で、教育基本法「改正」という「『根本療法』なくして教育荒廃の解決は不可能」(84頁)という論点を強引に組み立てなおし、それを強調しているのである。しかし、高橋史朗氏らが論じている議論は、あまりにも粗雑なもので、説得力のある議論とは到底いえない。
1、戦後教育の出発点と「教育勅語の否定」
高橋史朗氏は、「戦後60年この方、わが国では満足な道徳教育が行われたためしがない」(38頁)と不満点を書き、そうした状況をかえるために「文部科学省が道徳教育の副教材として全国の小中学校に配布した『心のノート』も、多くの学校でたなざらしのまま、ほとんど活用されていないのが現状」にあると書き、『心のノート』を活用していない現場教師を、今回の本でも批判している。 同氏は、このような道徳軽視の「背後にあるのは、『道徳』というとすぐに、教育勅語を連想し、道徳=教育勅語=悪と短絡的に決めつけ」ているからだとする(40頁)。そして、そうした「決めつけ」について、「教育基本法は教育勅語を否定して制定されたという考えに基づいているのであるが、端的にいってこれは歴史事実の誤認である」という持論を強調する(40頁)。 こうした高橋史朗氏の考えは、『心のノート』作成で中心的な役割を果たした押谷由夫氏(元・文科省教科調査官・昭和女子大学教授)の主張とも共通している。例えば、押谷氏は次のように書く。 「教育基本法は教育勅語を否定し、それに代わるものであるという捉え方が強く流布され、人格の完成をめざした道徳教育重視の側面はほとんど理解されなかった」(押谷『「道徳の時間」成立過程に関する研究』29頁) つまり、『心のノート』を編集担当した押谷氏も、<「教育基本法は教育勅語を否定し、それに代わるものであるという捉え方」は誤りで、教育基本法は、教育勅語のよき側面を引き継いでいる>という立場をとっているのである。
しかし、文部省調査普及局が編集した『日本における教育改革の進展(文部時報、臨時特集号)』(1951年)には、次にように書かれている(7頁)。 「教育基本法は、・・全く新しい形式と手続きにおいて、教育勅語に代って日本教育の根源を明示する地位を持つに至った。そして、この事実を国家的に確認し、疑いの余地を残させないために、さらに1948年6月、衆参両議院において『教育勅語等の効力排除(失効確認)に関する決議』が決定された。政府は、この決議に基き、学校等に死蔵されていた教育勅語の返還措置をとり、この教育勅語に関する問題は、教育上、こうして完全に終結するに至ったのである」
高橋史朗氏の議論も、『心のノート』を編集担当した押谷氏の議論も、「教育基本法は教育勅語を否定していない」というものだが、実は、文部省が作成した公式文書の中に、「教育基本法は、教育勅語に代って日本教育の根源を明示する地位を持つに至った」とはっきり書かれていたのである。
2、立派な徳を備えた日本人の育成
高橋史朗氏は、今回の論文の中で、東大の苅谷剛彦教授の論文を紹介しつつ、「人格」の意味にかかわって次のように論じている。 「パーソナリティーとは、個人が内面に本来もっている特性であって、これをいかに開花させていくかという考えがベースになっている。一方、アメリカの社会学者の研究によれば、キャラクターは、プロテスタンティズムと深く関係するものであり、労働、勤労を通じて自分を鍛えていく結果磨かれたものが『人格』で、さまざまな苦労、人との切磋琢磨の末、立派な徳をもつに至った人のことを『人格者』といっているのだという」(89,90頁) 「キャラクター」とは、通常、日本で理解されているような「性格」という意味でなく、苅谷教授の論文にもあるように英米では「徳を備えた人格」(品性、徳性、道徳的人格)のことを意味している。 こうした議論を紹介した上で、高橋史朗氏は、「教育基本法第1条(教育の目的)の『教育は、人格の完成をめざし』の『人格』は、①のキャラクター系列の概念なのか、②のパーソナリティー系列の概念なのかでまったく意味が異なってくる」(90頁)とし、次のように書く。
「戦前の日本の教育は①を重視し、戦後の日本の教育は②を重視したといえるが、これらが両極端に走り戦時中は極端な国家主義、戦後は極端な個人主義に陥ってしまった」、「わが国の戦後教育の個性尊重という考え方が日本人の本来の物の考え方を誤解し、パーソナリティー系列の議論に偏ってしまったために、(中略)、『自由』と『自立』の意味を履き違え、今日の教育荒廃を招来したといっても過言ではない」(90、91頁)
高橋史朗氏の議論を整理すると次のようになる。
◇ 戦前教育(教育勅語)における「人格」
⇔キャラクター系列の概念を重視(修身科)
→「極端な国家主義」
◇ 戦後教育(教育基本法)における「人格」
⇔パーソナリティー系列の議論に偏重(道徳軽視)
→「極端な個人主義」→「教育荒廃の招来」
高橋史朗氏の「教育基本法」論は、〈教育勅語を否定していない教育基本法〉論なので、同氏は、<「人格の完成」には教育勅語的な意味あい、つまり、キャラクター系列の概念が含まれていたのに、それを軽視した>と考えるのである。結局、高橋史朗氏が言いたいことは、<戦後教育では、戦前教育で重視された「徳を備えた人格」(立派な日本人)を育ててこなかったので教育荒廃が生じた>というものである。そして、<今後は、教育基本法を「改正」し、徳育(キャラクター系列の鍛えられた個人の育成)を抜本的に強化していかなければならない>というものだ。 カタカナ用語を持ち出しながら議論しているが、これは大変姑息な手法である。なぜなら、現行の教育基本法には、正式の英文があり、高橋史朗氏は、それを意図的に隠しているからだ。 現行の教育基本法の「人格の完成」は、ザ・フル・デヴェロップメント・オブ・パーソナリティー(the full development of personality)と翻訳されている。つまり、教育基本法第1条(教育の目的)の「教育は、人格の完成をめざし」の「人格」は、明確に「パーソナリティー系列の概念」であり、「個人が内面に本来もっている特性」を意味し、「人格の完成」とは〈人格の十全なる開花〉を意味している。実際、教育基本法制定当時の文部省訓令(第4号)では、「人格の完成とは、個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめることである」と定義づけていた(1947年5月3日)。つまり、教育基本法は、国家が期待するような道徳の担い手を育成することを「教育の目的」にしておらず、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」(前文)という"憲法理念にもとづいた人間教育"をベースにして制定された教育の根本法である。 近年、現行法の「人格の完成」を〈徳を備えた立派な人格の完成〉と恣意的に解釈しながら、『心のノート』の押しつけなど、国家公認道徳を注入する人格干渉教育を合理化しようとする議論が強まっているが、高橋史朗氏の議論は、その典型である。 ここで、高橋史朗氏の論じている「キャラクター系列の鍛えられた個人」論をとりあげたのには理由がある。
『心のノート』編集委員の柴原弘志文科省教科調査官が、最近の論文で"アメリカのキャラクター・エデュケーション(人格教育)に学び、日本も品性や道徳性の育成を重視すべき"とくりかえし強調しているからである。つまり、『心のノート』による道徳教育は、「人間教育」をベースにした現行教育基本法の「教育の目的」論(パーソナリティーの全面開花論)に代って、"徳を備えた人格=「キャラクター系列の鍛えられた個人」論"を採用してすすめられているものなのである。
教育基本法「改正」を打ち出した中教審答申では、「心豊かでたくましい日本人の育成」がかかげられ、愛国心や公共の精神、道徳心や自律心の涵養が強調されているが、これは、「個人が内面に本来もっている特性」の開花を基本とする〈人間教育〉から、国が求める徳を備えた〈若き国民づくり〉への方向転換を意味している。こうした中で考えれば、高橋史朗氏の「キャラクター系列の鍛えられた個人」育成論が、教育基本法「改正」論をおしすすめるための議論であることが明らかになる。 なお、現在アメリカにおいてブッシュ大統領が推進している道徳教育が 、「キャラクター・エデュケーション」(人格教育)であることも押さえておきたい。国策として人格教育を推進しているブッシュ大統領が描いている〈立派な徳を備えた最高の人格者〉とは、超大国アメリカの正義を担うアメリカ軍人のことである。つまり、ブッシュ大統領にとって、アブグレイブ収容所におけるような「虐待」などの事態が、〈立派な人格者〉たちの指揮する米軍の中にあってはならず、だからこそ、同大統領は、この収容所の存在と歴史を抹殺するため必死になったのである。
こうしたアメリカの人格教育(キャラクター・エデュケーション)に注目しているのが、京都で問題になっている「モラロジー研究所」と統一教会系の団体「世界平和教授アカデミー」である。特に後者の団体は、"日本の教育危機打開のために、アメリカで高揚している〈人格教育運動〉を日本でもとりいれよ"、と強く主張している(拙論「『心のノート』と民間教育臨調」、『戦争責任研究』第44号)。高橋史朗氏は、こうした動向を念頭におきながら発言しているのである。
3、指導要領道徳編の作成にかかわった2人の教育学者の論文
民間教育臨調の『なぜいま教育基本法改正か』(PHP研究所)には、学習指導要領道徳編の作成にかかわった2人の教育学者が執筆した論文も掲載されている。 民間教育臨調の第1部会(教育理念部会)部会長の金井肇氏(元文部省視学官、元大妻女子大学教授)の論文「伝統文化の尊重と愛国心」と、第2部会(学校教育部会)部会長の村田昇氏(滋賀大学名誉教授。元小学校学習指導要領道徳編作成協力者会議委員)の論文「宗教的情操の涵養と道徳教育の重視」である。 すでに、拙論「『心のノート』と民間教育臨調」(『戦争責任研究』第44号)において、「『期待する人間像』を礼賛する金井肇氏」と「『畏敬の念』教育を推進する村田昇氏」について論じているので、ここでは、2、3の指摘にとどめておく。 この2人は、指導要領道徳編の作成にかかわった経歴がある人物であり、『心のノート』の作成、編集にあたって、いわば〈ご意見番〉的な位置にいた教育学者である。『心のノート』は、「愛国心」と「畏敬の念」の学習ノートである点が問題視されているが、今回の本では、金井肇氏が「愛国心教育」論を、村田昇氏が「畏敬の念」教育論を論じている。
■〈戦争する国〉の道徳ーー金井肇氏の考える「愛国心教育」
金井氏は、今回の論文の中で、「愛国心教育」に対して「『戦争の準備』だなどとする」批判があり、「『「心」と戦争』という書名の本まででている」と書いている(127頁)。金井氏は、こうした批判(高橋哲哉著『「心」と戦争』晶文社)に対して、「戦争など今日のわが国で起こすわけがないではないか。そのような条件は皆無ではないか。戦争に結び付けるのは根拠のない空想に基づく観念論でしかない」としている(127頁)。しかし、有事法制が成立し、自衛隊の海外派兵や多国籍軍への参加が現実化しているなど、今日、日本が〈戦争する国〉になりつつあることは明白である。戦争に向かう「条件が皆無」などとする金井氏の議論の方こそ、「根拠のない空想に基づく観念論でしかない」。しかも、金井氏らの民間教育臨調は、教育基本法を改悪し、〈戦争する国〉の担い手づくりを志向しているではないか。例えば、金井氏は、「精神的な気高さを大切にして生きる人々」として「モラロジー協議会のような人々」をあげ、賞賛しているが(金井著『こうすれば心が育つ』小学館、33頁)、モラロジー協議会は、最近、「戦前の特攻隊員は、純粋な心の持ち主だった」と論じる工藤雪枝氏(国際ジャーナリスト)の講演記録を、冊子『国を愛するとは』にして普及しているではないか。戦争の際に求められる自己犠牲的精神を金井氏は重視し、「自己犠牲的な心の美しさ」を教えるべき、と繰り返し強調しているではないか。日本の道徳教育学者の中で、金井氏の論じている道徳教育論がもっとも戦争道徳に近いものなのである。
■「畏敬の念」教育を強調--村田昇氏
村田昇氏は、今回の論文の中で「日本の心」論を展開し、次のように書く。 「日本人は、古来、大自然の中に神秘さを感得し、自然を崇拝し、とりわけ山を祖霊の宿る神聖な場とみなし、森羅万象のすべて、海や川、土の中にも何か大いなるもの、聖なるものが秘められていると感じ、それに対して畏敬の念を抱いてきた」と(142、143頁)。 さらに村田氏は、鎌田東二著『神道とは何か』(PHP新書)から、「『大自然や先祖の営み、悠久の歴史や生命に対し、畏怖畏敬の念、尊敬や尊崇な念をもつ』ことが『神道の心』」という箇所を引用しているが(村田論文の143頁)、こうした「神道の心」と、『心のノート』(中学校版)における「悠久の時間」と「大自然」への畏敬の念を重視するページとは、みごとに一致している。
「自然崇拝、祖先崇拝、天皇崇拝」の3つの要素をもつ「神道」のイメージを取り入れることで、『心のノート』は、"象徴天皇制"と矛盾しないように巧(うま)く作られている。そして、『心のノート』は、--鎌田氏の言葉を借りれば--「大いなるものに手を合わせ畏怖畏敬の念を抱いて、己の小ささを自覚して慎ましやかに生きる」道を子どもたちに用意しているのである。
また、村田氏は、「(指導要領道徳編にある)『感謝』が単に、お世話になった人に対してだけでなく、いわば生かされて生きていることを感得し、それに対する感謝の念から、そのご恩に応えることを目指すものであるかぎり、これも宗教的情操に深くかかわる」(149頁)としている。つまり、『心のノート』が重視する〈報恩=感謝の念〉は、「宗教的情操の涵養」とつながっているのである。 おわりに--教基法「改正」と「教師の意識改革」
高橋史朗氏は、今回の論文集の中で、文科省が5年おきに実施している「道徳教育推進状況調査結果」にふれ、道徳で「最も教えられていないのが、『愛国心』と『文化と伝統の尊重』であることが明かになった」等とし、「教師の意識が愛国心などの内容的価値に否定的である」点を問題にしている(77頁)。そして、「法」をかえるだけではなく、「教師の意識的改革が必要不可欠」であると強調する(77頁)。そして、そうした「『下からの教育改革』と教育基本法を変えるという『上からの教育改革』がうまくドッキングすることによって初めて、今日の教育の危機、荒廃を乗り越えることができる」等と同氏は、強調する(77頁)。 『心のノート』などを活用し、「愛国心」をはじめとする国家公認道徳を子どもたちの心に注入する教師になるように「意識改革」をすすめるとともに、「愛国心」を盛り込んだ「教育基本法の改正が漢方薬のようにじわりじわり教育の『現実』に浸透し、『現実』を根本的に変える原動力となる」(78頁)と指摘している(※)。 こうした戦略に基づき、民主教育への攻撃が展開されている中で、教育基本法の「改正」(=改悪)を断じて許さない大規模なたたかいをすすめるとともに、学校現場に対して、『心のノート』を使うよう意識改革を求める攻撃にも、抗うことが強く求められているのである。
教育基本法の理念と原則は、子どもの権利条約の精神でより豊かに捉えられ、教育の歪みを写し出す鏡としての役割、そして教育をめぐる困難を読み解き、打開する方向を照らし出す指針としての役割を果たしている。21世紀の教育の未来を指し示す羅針盤である教育基本法を活かす「ことによって初めて、今日の教育の危機、荒廃を乗り越えることができる」のである。教育基本法を「改正」してはならない。
※:教育基本法の「改正」で、教育振興基本計画を根拠づける条文が入ることが考えられているが、この点は、極めて危険である。そうした条文が入ると、文科省が新しく決める教育方針が、その都度、〈大本営発表の方針〉として学校現場に「一気」に徹底されることになるからである(2004・6・21)。