学校の外から

性格心理学会報告
~心理学から見た『心のノート』~

2003年10月26日掲載

阿久沢悦子

9月25日に同志社大学で、性格心理学会が開かれ、「心理学から見た『心のノート』」という分科会がもたれました。参加傍聴しましたので、要旨を報告します。
以下、敬称略。

茨城大学の伊藤哲司(社会心理学)
 
 心のノートは内容に相当問題がある。ノートの特徴は「子ども一人一人が自ら学習するための冊子」「子どもの心の記録となる冊子」「学校と家庭の『心のかけはし』となる冊子」。これまで数冊の批判本も出されている。その中身としては「戦前の修身に心理主義が加わった」「国家による個人のソフトな管理」「愛国心の強要」などだ。教師たちに「心のノート」について聴くと「ある日突然やってきたもの」「個々には正しいことあるべきことが書かれており、批判しずらい」「つまみ食い的にはけっこう使える」「子どもたちは案外真剣に書き込んでいる」などの受け止め方があった。一方、ゼミの大学生たちは「前向きな姿勢」「自己を見つめさまざまなことを考える助けになる」という肯定的な評価の一方、「さむけに似た感覚を覚え、素直に受け入れられない」「しらけた気分。心、心の連呼がさむざむしい」「愛国心はいことだが、国に強制されたくない」という意見があった。個人的には「批判精神」の育成という視点が欠如していることが最も気になる。「国家への畏敬の念」の暗黙の押しつけが感じられる。そもそも「発達=経験」で培われる人間の社会的次元は言語化、カリキュラム化が可能だが、「生成=体験」で培われる生命的次元は言語化できないものだ。「心のノート」は生命的次元の問題を扱おうとしているところに根本的な勘違いがある。私としては「心のノート」は許容できないが、配られてしまった以上、「新・活用法」で位相をずらして考えてみたい。「国家」の意図を読み解くテキストとして、あるいは一見よいことの真意を疑う素材として、学校現場で使ってみてはどうだろうか。「心のノート」のむなしさは、「文部官僚のための心のノート」を試しに作ってみることで、はっきりするのではないか。



渡辺芳之・帯広畜産大
 
 心のノートという教育手法を心理学者としてどう見るか? というテーマで考えてみた。心のノートが目指すのは短期的には「少年犯罪増加」「学級崩壊」への対応であり、その原因は青少年の「心のすさみ」にあるという問題意識の解決にある。「行動の原因」である「心」への教育的アプローチが必要と、作られた「心のノート」だが、内容は古典的道徳にすぎず、「心」ブームを利用した道徳教育の新しい形である。
 「心のノート」は近代100年の教育心理学の歩みを否定するものだ。心理学者の多くが共有する見方は「行動上の問題は個人と環境の複雑な相互作用の結果であり、心だけを取り上げても解決しない。むしろシステム全体の改良が必要だ」「行動上の問題はケース単位での解決が重要で、一般化はできない。むしろ一般化された道徳論、精神論、徳目列挙の効き目はない」というものだ。「心のノート」が、青少年の問題行動の解決に役立つ、有効だと思う心理学者は「いないはず」である。しかし、これが「しんりがくしゃ かわいはやお」の名前で行われていることに問題がある。文科省は「心のノート」を「心理学の仕事」として推進しており、道徳の時間を「こころの教育、こころの時間」と呼び変えている学校もある。「心のノート」をめぐり教育学、社会学者らから「行動上の問題を個人に還元し、社会への視点を欠落させる心理主義」への批判が出ているが、心理学というのはまさに100年をかけ、心理主義を克服しようとしてきたはずである。心理学者個人が、「心のノート」に対して、明確な態度をとる必要がある。私は「これは間違っている」と今ここではっきり言いました。
 一方、批判者側にも心理学に対する過大評価がある。私は「心のノート」ごときでは子どもは変わらないだろうと思っている。批判者の意見に「心のノートの色づかいは、色彩心理学で子どもを説得する」と書かれていたが、心理学にそんなことができるわけがない。それではオカルトである。
 心理学界内で見ると、基礎と臨床が対立しつつも相互依存しているいびつな構造がある。基礎は「臨床のやっていることは科学ではない」といいながらも、大学のポストと学生の確保のために臨床に依存している。無原則な野合の結果が、心のノートとなって「基礎」側につきつけられている。

荒木育友(三重短期大学)

「心のノート」は心理学なのか、疑問がある。ここには「ユング心理主義」しかない。道徳性心理学の視点は「心のノート」に取り入れられていない。ニーチェの葛藤手法もなければ、バルデューの批判的社会認識もない。「心のノート」にあるのはお説教のみだ。

 大阪府吹田市教委が出している道徳副読本「いきいき」と比較してみたい。「いきいき」も書き込み式で、カラー版。見た目は「心のノート」とそっくりだが、全く内容が違う。「バリアフリーを実現するには」「暮らしやすい街づくり」などの項目では、吹田という街の特徴をとらえ、自分たちが参加して具体的に社会を変えていくアプローチをとっている。書き込み式だが、ここには安易な正解はない。引用されたテキストの作者名が全部載っているのも、責任の所在をはっきりさせていてよい。「心のノート」はこうした地域独自の教材開発を疎外し、いいテキストが使われなくなる恐れもある。
 もう一つ、「行動」と「知識」を結びつけるのは「心」だとする、「知」と「行動」の2元的捉え方は正しいだろうか。最近でも「成績がよい子だったのに、人を殺した」「茶髪なのに、ボランティア」などの新聞記事を散見するが、「成績とボランティアや犯罪」は関連づけられるものだろうか。かつて「体罰」が問題視された時、「わかっているけれどやらない子どもは気合が足りないから喝を入れる」という論理が通っていた。今は「気合」が「心」となり、子どものやる気を引き出す方法がソフトになっただけだ。「わかっているけどやらない」子どもの行動を引き出すために、教師が腐心するという構造はこの十数年変わっていない。今考えるべきは、本当に子どもは「わかっている」のか、ということじゃないのか。社会の中の困難について、「わかる」ということ「知る」ということをもっと充実させる道徳教育が必要だ。
 心のノートは愛国心の育成という文科省が意図した点では有効ではないと思うが、決まった答えを書く、建前と本音を使い分ける、そんな子どもを育てるのには有効だと思う。


荒川歩・同志社大学
 
 「心のノート」というネーミングに異議がある。ここには「ノート」の自由度がない。むしろ「ワークブック」である。ここには、単一の正解があり、それを書くことが求められている。また一面的な評価軸で多様性を排除していることも問題。多様性を確保せよ、と訴えてきた心理学からこのようなものが生まれるのはなぜ?という思いがある。このノートは表面的に装う、いい子を作るが、心と行動に乖離が起きることになるだろう。スポーツのルールを法の大原則に敷衍したり、うそをつくなとの項目から秘密を持つなと展開するなど、過度な一般化、論理の飛躍が目立つ。国家主義が前提。生命的次元を言語で教えようとする、つまりスローガンでなんとなくわかったつもりになる、そんな問題点も感じる。
 


(傍聴者のまとめ・私見)

 フロアからは「こんなノートができていることを初めて知った。ゆゆしき問題だ」という意見もあった。心理学者の間では、まだ「心のノート」の存在が知られていない。知れば知るほど、まじめな研究者、特に基礎心理学の学者らからは、「こんなの心理学じゃない」という声が聞こえてくる。それならば渡辺氏の言うように、心理学者の側からも、「心のノート」に対して声を挙げてほしいし、なんらかの声明を出して欲しいところだ。
 一方、このHPにも以前、「心理学」「心理主義」に対する全否定的な投稿があったが、それは行き過ぎではないか? ケースによっては、カウンセリングは有効。「心理学」への全否定は、社会科学が人文科学に優位する、といった発想に似たものを感じる。もっと丁寧に腑分けする必要がある。
 「色彩心理学で子どもの心を操るというのはオカルト」には笑った。たしかに、批判者の側にも心理学に対する過大評価があるように思う。河合隼雄は、あくまで徒花であり、心理学総体と見誤ってはいけないのだ。