2003年9月20日掲載
ベルナール
1965年(昭和40) 1月11日、中央教育審議会第19特別委員会は「期待される人間像」中間草案全文を発表しました。
「期待される人間像」は、「もはや戦後ではない」と言われてから十年後の日本で、「豊かな」大衆社会化を前にして希薄化していく国家的中心の再構築を企図して策定されたのです。委員会の座長は、悪名高い座談会「世界史的立場と日本」の参画した、高坂正顕です。
西田門下の高坂正顕、高山岩男、西谷啓治、鈴木成高の四人は、戦時中『中央公論』誌で三回にわたり座談会を開き、その「世界史の哲学」の立場から、「大東亜戦争」の意義付けを与えようとしました。
その座談会は『世界史的立場と日本』(1943)として出版され、学徒出陣で戦争に駆り立てられた青年たちは、これらの座談会で表明された「大東亜戦争」の意義付けを信じ、戦塵に散りました。
この四人はいずれも戦後追放処分にあいましたが、高坂は、その著作で披瀝していた神懸りの国粋主義と天皇崇拝を希釈し、戦後も自民党の政治家たちの指南役として、また象徴天皇制の代表的イデオローグとして、日本の「すぐれた国民性」などという、哲学者らしからぬ幼稚なナルシシズムを臆面もなく鼓吹し、戦前のナショナリズムを密輸し続けて来たわけです。
【世界史的立場と日本】(高坂正顕など)
http://www.bekkoame.ne.jp/~n-iyanag/articles/orientalism/page3.html
以下に、「期待される人間像」なるマニフェストがいかなる精神によって裏打ちされているかがわかる。
「第二部 日本人にとくに期待されるもの」(第4章 国民として) をご紹介致しましょう。
1 正しい愛国心をもつこと
今日世界において、国家を構成せず国家に所属しないいかなる個人もなく、民族もない。
国家は世界において最も有機的であり、強力な集団である。個人の幸福も安全も国家によるところがきわめて大きい。
世界人類の発展に寄与する道も国家を通じて開かれているのが普通である。
国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。
正しい愛国心は人類愛に通ずる。
真の愛国心は、自国の価値といっそう高めようとする心がけであり、その努力である。
自国の存在に無関心であり、その価値の向上に努めず、ましてその価値を無視しょうとすることは、自国を憎むことともなろう。
われわれは正しい愛国心をもたなければならない。
2 象徴に敬愛の念をもつこと
日本の歴史をふりかえるならば、天皇は日本国および日本国民統合の象徴として、ゆるがぬものをもっていたことが知られる。
日本国憲法はそのことを「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」という表現で明確に規定したのである。
もともと象徴とは象徴されるものが実体としてあってはじめて象徴としての意味をもつ。
そしてこの際、象徴としての天皇の実体をなすものは、日本国及び日本国民の統合ということである。
しかも象徴するものは象徴されるものを表現する。
もしそうであるならば、日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、理論上当然である。
天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる。
けだし日本国の象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるからである。
このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいているきたところに、日本国の独自の姿がある。
3 すぐれた国民性を伸ばすこと
世界史上、およそ人類文化に重要な貢献をしたほどの国民は、それぞれに独自な風格をそなえていた。
それは、今日の世界を導きつつある諸国民についても同様である。
すぐれた国民性と呼ばれるものは、それらの国民のもつ風格にほかならない。
明治以降の日本人が、近代史上において重要な役割を演ずることができたのは、かられが近代日本の建設の気力と意欲にあふれ、日本の歴史と伝統によって培われた国民性を発揮したからである。
このようなたくましさとともに、日本の美しい伝統としては、自然と人間に対するこまやかな愛情や寛容の精神をあげることができる。 われわれは、このこまやかな愛情に、さらに広さと深さを与え、寛容の精神の根底に確固たる自主性をもつことによって、たくましく、美しく、おおらかな風格ある日本人となることができるのである。
また、これまで日本人のすぐれた国民性として、勤勉努力の性格、高い知能水準、すぐれた技能的素質などが指摘されたきた。
われわれは、これらの特色を再認識し、さらに発展させることによって、狭い国土、貧弱な資源、増大する人口という恵まれない条件のもとにおいても、世界の人々とともに、平和と繁栄の道を歩むことができるであろう。
現代は価値体系の変動があり、価値観の混乱があるといわれる。
しかし、人間に期待される諸徳性という観点からすれば、現象形態はさまざまに変化するにしても、その本質的な面においては一貫するものが認められるであろう。
それをよりいっそう明らかにし、あるいはよりいっそう深めることによって人間をいっそう人間らしい人間にすることが、いわゆる人道主義のねらいである。
そしてまた人間歴史の進むべき方向であろう。
人間として尊敬に値する人は、職業、地位などの区別を超えて共通のものをもつものである。
この「期待される人間像」は、戦前の教育勅語と『心のノート』を繋ぐ重要な輪として、看過できない役割を果たしています。
【教育勅語から「心のノート」へ】
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Japanmilitarism/kokoro_no_note.htm
『心のノート』の作成協力者会議のメンバーであった尾田幸雄氏は、『教職研修』の2002月8月特大号 (特集は「21世紀の礎となる道徳教育・心の教育の充実を」) の「豊かな心を持ち、たくましく生きる日本人の育成」という記事のなかで、以下のように述べています。
わが国がようやく近代国家の体制を整えたのは、明治22年の憲法制定であり、国民道徳の基礎がおかれたのは翌23年の教育勅語の発布である。わが国の心の教育の歴史はここにはじます。
子供たちの教育に必要なのは、事実と論証による筋道の通った洞察力を涵養し、思考力を磨くことです。
子供たちが、社会的操作の対象になるのではなく、みずからの頭で考え、決断し、行動できる自立した人間になって欲しいと思うのは誰
しも願うことですが、ものごとを曖昧模糊たる心理的要因に還元する「心のノート」の発想は、子供たちの知的将来に暗雲を投げかけるものでしょう。
『心のノート』の構想者たちが念頭においている「心の教育」という名の内面管理の精神的来歴は、もはや自明と言うべきであり、子供たちの心の国家管理には、警鐘を鳴らすべきでしょう。