2012年7月10日掲載
知らなかった家保さんお父さんのこと
松岡 勲
家保さんが亡くなって、もう1ヶ月半あまりがたった。ほんとうに早いものだ。家保さんのお見舞いに4月末に長谷川さん、志摩さん、増田さんとで行ったとき、お姉さんから聞いた話が忘れられない。家保さんのお父さんは(パプア)ニューギニア戦線の生き残りで、大変悲惨な経験をされ、帰国されてから、その辛さからお酒に逃れられたとのことだったが、戦後、お父さんはお酒を飲むと「戦友が出撃し、・・亡くなった・・」などの話よく泣きながらされたとのことだった。私の父は中国の湖北省で戦死しているが、私の原体験である父の戦死と靖国訴訟に関する文章の校正を校正セミプロ級の家保さんによくお願いしたことがあった。その時、めったに感想を言わない彼が「良い文章だ。」と言ってくれた。お姉さんの話を聞いたとき、彼とは6歳も歳が離れているにも関わらず、僕の戦争体験と彼の戦後体験(僕の場合も父の戦死に関わっての戦後の生育史なのだが)とがクロスしていたのだと気がついた。家保さんのお父さんがニューギニア戦線でどのような体験をされたのか、その体験をどのように彼は聞き、また受け取って育ったのか、彼が生きているうちに聞いておけばよかったとつくづく思った。遅まきながら、近々、家保さんのお姉さんにその話をおうかがいするため、三田まで行く予定になっている。
(ということで、6月末にお姉さんにお会いした。)戦時中、お父さんはマラリアに罹患され、帰国途中に病院船が米軍に撃沈され、沢山の人が溺れ死んだが、お父さんは必死で泳いで救助され、九死に一生を得られた。戦後は、職場でよく衝突し、職を転々とされとのことだった。最後はお母さんが保健婦で生活を支えられた。そのお父さんを家保さんは「大変好きやったし、尊敬していた。」とお姉さんはおっしゃっていた。また、家保さんのお酒が、人をなごませ、楽しくさせるお酒だったのは、「多分お父さんの悲しい酒、荒れた酒を見ていたから、そうなりたくなかったのでしょう。」ともいわれた。しみじみと家保さんの生前の人柄を思い出した日だった。
家保流をつらぬく
末廣 淑子
家保さんとは、30年ほど前、S小学校に前後して転勤してきて出会った。S小は陸の孤島ともいえる立地にあり、ほどなく、通勤は家保号のお世話になることが多くなった。ドアを開けると、猫の香りがただよう車であった。道路がかなり浸水した大雨警報の日、このまま沈んでしまうのではという私の不安をよそに、家保さんは「まあ、どうにかなるでしょう」と。車はものすごい水煙を上げながら無事(?)到着、という事もあった。自分の気持ちと違うことに対してはとても頑固で、「ウゥ~」と言いながら、妥協しないのが家保流。飲み会・旅行・組合など多くの時間を一緒に過ごし、となりのトトロの様にいつも近くに居てくれる存在でした。病室に駆けつけた友人に、さいごまで、必死で目を開けて答えていた姿が、忘れられません。
家保さんを偲んで
志摩 覚
家保さんの存在が、ぐっと身近になったのは、彼の勤務校に僕が赴任し、中年を迎えた同僚として一緒に仕事をしだしてからであろうか。職会等での彼の長~い弁舌を聞き何と熱い心の男なんだろうと感心しました。あの年月、原担・しょう担の相棒としても子どもとの日々の葛藤と高揚感があった。いろいろ支えてくれました。まだ同じ感性で協働できる仲間ができたことがなんと心強く嬉しかったことか。運動会の組み立てや民舞を実演指導しての青息吐息、二人でのスキー行、酒席での数々の武勇伝 ?を聞かされての抱腹絶倒・・・・・。
アルコール変調後の磊落さの一方、僕の娘3人の成長や健康を気遣ってくれるなど、細やかな心遣いができる人でもありました。生けるものへの優しさが彼の基調であったろうと思います。
家保さんの悠揚な風格と人間味が滲み出た笑顔は、これからも周りの人を幸せにしていってくれるでしょう。
寄り添うことを教えてくれたひと
長谷川 洋子
家保さんの思い出は、組合より学校や日常生活の方がはるかに多い。私が初任から3年目を迎える春、三箇牧小学校に着任され、そこが準僻地校だったため、ずいぶん長く一緒に働くことができた。鮮やかに甦る情景は、私が小学校教諭の免許を取るため、真夏の昼下がり、プールで息継ぎの練習をしていた時の事だ。運動神経皆無な私に、家保さんは何度もブレスを教えてくれたが、なかなか出来ない。運動神経の良い彼にとって、これだけ教えてもできないという事があり得ないらしく、教える事に飽きて深いプールと浅いプールの間の銀柵を綱渡りする練習に移ってしまった。それから数十分、銀柵綱渡り、横であえぎながら泳ぐ人という、今の学校ではあり得ない光景が続いた。見かねて指導者バッジを持っている教員が来て教えてくれて、私は数分でブレスができるようになった。
この時のことは、家保さんの生き方を象徴しているような気がしてならない。彼は能力が高すぎて、もしかして教員向きではなかったかもしれない。でも、彼がそばに寄り添ってくれることで、子ども達も大人もどれだけ心が自由になれた事だろう。教えること以前に寄り添うことの大事さを彼は教えてくれた。彼に私がそうできたかと言えば、本当に申し訳ない気がする。一年程前、彼はクロスワード作りに没頭していた。キーワードを解くと「ネコハトモダチ」だった。日頃語らぬ彼の心の声を聞いた気がして、寂しく、申し訳なく思った。今でもそれは変わらない。