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『君が代』強制大阪府条例はいらん!全国集会に参加して

2011年10月16日掲載

真理と正義

 9月20日、久しぶりにデモに出かけた。教育塔前での『君が代処分条例』反対の集会と府庁を包囲するデモ。台風が残した小雨のなかで、200人のデモは、力強くシュプレヒコールをあげた。
 そして、9月24日、『君が代』強制大阪府条例はいらん!全国集会。全国から760人の人々が集まった。
 今、ここで何かしなければ、歴史のなかで「君はその時何をしていた?」と問われる事態が進んでいる。橋下大阪府知事と維新の会が、今、出してきている『教育基本条例案』『職員基本条例案』だ。「君が代を立って歌え」「歌わなければ、職務命令に3回違反すれば免職とする」「公務員に(不起立の)自由なんてない。」と言っている。立つのが「ルール」であり、立たないなら処分だと力づくで立たせようとしている。そして、その力=権力に屈しない教師は辞めさせるという。どんな抵抗も圧しつぶして、国家の教育に、そして橋下の命令に忠実に従う教師にさせようとしている。これが、橋下の『組織マネジメントの徹底』ということの中味だ。それは、教育労働者に『奴隷の思想』を強いるものだ。こんなことを許せば、教育はどうなるのか。子ども達の未来は、どうなっていくのか。そもそも、『日の丸』とは何であり、『君が代』とは何なのか?それは戦前、戦時下、天皇制教育のもと、子ども達を、そして国民を朝鮮・中国・アジアへの侵略と戦争にかりたてた旗であり、歌であった。『日の丸』と『君が代』は、侵略戦争の血にまみれた不正義の旗であり、歌である。不正義の存するところには、どんな教育もない。「教育は、・・真理と正義」(教育基本法、1947年)に立って初めて教育たりうる。


『奴隷の思想』

 『ボクラ少国民』などの著書で戦争中の教育の犯罪性を鋭くついてきた山中恒氏は、『戦中教育の裏窓』(1979年、朝日新聞社)で次のように書いている。戦時下に粉骨砕身、少国民の錬成にうちこんだ教師に対して、「まちがったことであろうとなんであろうと一生懸命、誠心誠意やったことであれば、許されるなどというばかげた道理はないのである。国の命令でありさえすれば、まちがっていようが、ひたすら忠実に命令に従うことを至上とするのは奴隷の思想である。」
(154ページ)
「日の丸・君が代は、国旗・国歌と法律で決まっている。」「学習指導要領で卒業式・入学式で日の丸掲揚、君が代斉唱が決まっている。」・・・これが、今も、文部科学省・教育委員会、そして、校長の言い分である。また、橋下大阪府知事は、『組織マネジメントの徹底』と言って、教育労働者に処分=首切りの網をかけてまで、従わせようとしている。しかし、法律や条例で決まれば、それが正義か?それで歴史の審判にたえられるか?教育がなりたつか?何が正しくて、何がまちがっているか考える、それを出発点として自ら考えることなしに、教育なんてありえないだろう。「法律で決まっているから」、従わざるをえないとか、子ども達に何でもおしつけるとか、それは、子ども達の未来に責任をもつ教育労働者の立場と行動ではないだろう。「ひたすら忠実に命令に従う」、それでは、教育労働者が、ご主人様の命令にひたすら従う『奴隷』になりさがることになってしまう。橋下の『奴隷』となって、教育の場を「2万%強制」の場とするわけにはいかない。

歴史の曲がり角

 歴史の曲がり角にさしかかっている。 
 9月24日の集会では、高橋哲哉氏も野田正彰氏もファシズムを呼びこむ社会になっていると警鐘を鳴らした。社会が危機に立っていると指摘した。ヒトラーは『国家社会主義』を語って、民主主義の中から選挙で当選し、民主主義を破壊し、ユダヤ人を虐殺し戦争に突き進んだ。
 橋下のやり方もそうだ。弱いものをたたいて自分を強く見せかける。文化と知性にコンプレックスと拒絶感をもち、児童文学館をつぶした。『不幸な』人々への憎悪をあらわにし、弁護士資格をとった自分は勝者だと、自己顕示欲そのもので教育を破壊するスタンドプレーをくりかえす。(野田正彰氏の話から)
 民主主義を語って、民意を語らって、「今、日本の政治に必要なのは独裁」と言う橋下大阪府知事。そして、まさに府知事の独裁権力が大阪の教育を支配しようとしている。教育基本法のいう「教育の不当な支配」どころではない。橋下の命令のままに、教育の現場を支配しようとしている。
 今、この橋下の『教育基本条例案』『職員基本条例案』を許して、教育はありえない。橋下の『奴隷』や『ロボット』として、子ども達の前に立つわけには、いかない。「こういう言い方は少々乱暴だが、ふだんはどうでもいいのだ。人間には良心がある。自浄作用が働く。肝心なときに、つまり時代が人間の良心を押し殺し、人権をふみにじる社会になったとき、人々に光を与えない教育など、なんの値うちもないのだ。」(長浜功氏『教育の戦争責任』38ページ)
 今、そういう時代に入っている。歴史の曲がり角にさしかかっている。「人々に光を与え」る教育、「人々に光を与え」る教育労働者の行動が必要なときだ。「先生は、その時何をしていた」と子ども達に問われる、そういう恐ろしい『暗闇』の時代を橋下は強いようとしている。教育労働者の反撃の闘いをつくりだしていこう。
(山田)