読者から

続・日本ユング派・河合隼雄批判への感想

2006年2月5日掲載

新田晴男

 ヴィッパ-マン『議論された過去-ナチズムに関する事実と論争』(2005 林功三・柴田敬二訳 未來社)を読んでいたところでしたので、林さんの原稿が偶然の出会いとも思われず、興味深く読ませていただきました。
 とくに、「その後の日本ユング派」の箇所に登場する人物名(上田正昭・梅原猛等々)に、嫌な時代になっているななどと思いました。
 彼(河合隼雄)の主張の背景に、非常に確固とした伝統的な教育観(戦前回帰的な)があることを、一体どれだけの方が知っているのでしょうか。
 助言者委員、それになるということは、それを使って教えられる生徒たちがいるわけで、そこまで考えて名前を引き受けているのでしょうか。
 残念ながら、悲しいことに、教育現場(教職員)攻撃には必要以上のエネルギ-を割くマスメディアも、彼と彼の周辺の人々には全く批判の目を向けません。
 知ってか、知らずかとも思いますが、林さんが書かれているように「『心のノ-ト』が何であるか余りく知らないまま・・・・」という状況には、不安を感ずることも多々あります。
 河合さんが、雑誌やTV等に対談者として登場しているため、学生の中には、村上春樹ファンなどがおり、その対談を読んだ学生が「河合さんは誰とでも対談し、非常にスム-ズに進むので、本当に知識の広い方だ」と話しておりました。
 彼の能弁さと肝心な時に限って発せられるレトリック(心理主義的操作に基づく)には、対談相手も分かってるのだろうかなどとは思うのですが、視聴者や読者は雰囲気さえよければそれで良いのでしょう。
 理想とか理念などが、相対化されすぎた現状では、そのような受け止め方もあるのだろうかなどと私は推測しますが、良く考えてみると、誰とも対話できるということは、誰とも話しを合わせられるというだけのことで、何の不思議もなく、ある意味、思想というものから遠く離れた方であり、だからこそスム-ズに話しが進むのではと思うのですが、どうも、それではいかんのでしょうかとつぶやきたくなることもあります。
 しかし、マスメディアが「報道するだけで批判のスタンスを持たない」現在、このような場所(『心のノ-トガラガラポン』)で、林さんのような方々が、日本国内の相対的に弱い批判ではなしに、ドイツでのユング批判(強い)の流れについて、語られることは、本当に有益だし、目の覚める思いが致します。(ドイツ人がどう思っていたのかと言うような意味でですが)。
 林さんの論文には、続に続く、続々はあるのかとつい期待してしまう、身勝手な私ですが、この内容については、確実に私に繋がる人々には、必ず知らせて、前回に引き続き読んでいただけるように致します。
 ミッチャ-リヒのユング批判については、私には詳細に触れる能力はありませんが、占領軍の政治教育テ-ゼの「集団責任論」の箇所が印象的で、もしかしたら戦後日本の「一億総懺悔論」の背景にも、占領軍の意図があったのか(積極的には否定しなかった)などと、通説に対する再検討を迫る議論になるのではと考えると、私にとっても、重要な論文のひとつになるように思います。
※もちろん、「一億総懺悔論」は、誰もが懺悔しなかったという意味で、現実に実施され、幻想ではなかったのだと逆説的に有効だったという意味で、私は受け止めておりますが。

 以上、簡単ですが、続・日本ユング派河合隼雄批判を書かれた林さんに対して感謝致します。また、ガラガラポンの編集の方々の奮闘を見守っている者が、和歌山には確実に一人いるということをお知り置き下さい。有難うございました。
(付記)林さんが、1928年(昭和3)年生まれと知りました。あの戦争をどのように経験されたのか、体験されたのか、それに基づいてこのような形で私たちに、積極的なメッセ-ジとも言うべき論文を与えていただけているのではないかと推測し、感謝すべき事柄だと考えております。編集部の方々からも宜しくお伝えしていただきたく、付記致します。