『新ゴーマニズム宣言』担当編集者 「寺澤広蔵氏『陳述書』」を嗤う
前回(3/13)結審した「名誉毀損裁判」において、まるでイタチの最後っ屁のようにかけ込みで提出された「陳述書」がありました。日付は何と前日(!)の3月12日。ゴ−宣担当編集者、寺澤広蔵氏の陳述です。
これ、スゴイっす。よくもまぁって感じです、一言で言うと。こんな「楽しい陳述書」を「楽しむ会」だけが独占しているのはある種犯罪的です(笑)。よってここに紹介し、皆様と共に嗤ってしまおうという算段であります。小学館の「著作権意識」、ひいては直接のゴ−宣担当編集者の意識、その一端が垣間見られることでしょう。
では始めます。
(引用[ ]、要約は《 》で表記)
◆ [「新ゴーマニズム宣言」は大体次のような流れで掲載されて]いるのだそうです。
《発売日の8日前が締め切り、その10日位前にテーマを決める。各回のテーマは小林と編集部で相談して最終的に決定。小林提案のこともあれば、編集部でアイデアを出すこともある。》
そうなんだ…。
私「ゴ−宣」って、全て小林自身のアイデアだとばかり思ってました。だって小林自身がそう言うように、ゴ−宣って「意見主張漫画」なんですよね。だったら、それは著者自身の意見主張が描かれているもんだと普通誰もが思うのではないでしょうか。なぁ〜んだ、SAPIO編集部の「意見主張漫画」でもあるわけだ、回によっては。小林信奉者の皆さん、どの回がセンセイの主張でどの回が編集部の意見かなんて分かったもんじゃありませんよ。盲目的に「小林センセイのありがたいお言葉」なんて、バカ丸出しで御拝聴しない方がよろしいかと。余計なお世話ですか?(笑)
で、肝心の新ゴ−宣「55章」ですけど、
《本件漫画(55章)は、平成9年10月、『脱ゴ−マニズム宣言』が発売されているのを発見した小林、私(寺澤)双方が、どう対処すべきかを小林とSAPIO編集部で相談して掲載を決定》したんだそうです。
その時の小林の直接の提案は、[(小林)漫画を無断で多数転載していることから、従軍慰安婦問題について仕掛けられた論争には、対抗する必要がある、併せて、前例のない漫画の無断複製についても批判したい]というもの。対して寺澤氏は、当時の感慨を陳述書の中でこう述べます。
[私も、経験上かつてない多数の漫画の無断複製が堂々と行なわれていることに驚いておりました。すぐに他にこんな例があるのか調べましたが、これほどのものは全く無く、簡単に無断複製されて印税もなく大量に配布されるということを放置してしまったら、漫画家の執筆意欲にも影響しかねないことであって、看過できないことと考えておりました。/したがって、本誌としても、本件漫画を是非描くべきだということで、小林氏と意見が一致した次第です。]
『教科書が教えない小林よしのり』は、この時既に発行されています。よって[経験上]云々は、明らかに嘘。小林の担当編集者がこの本を知らないわけはありません。(『教科書が〜』の発行は1997年11月。寺澤氏の小学館入社が96年4月、同年7月よりSAPIO編集部。97年8月より小林を担当。以上全て「陳述書」より)
子飼いの漫画家を守るためには嘘も辞さない、立派な職業倫理です。しかし、これについてはそう批判はすまい。同じ立場なら、私もきっとこう陳述したでしょうからね。考えてみれば、寺澤氏もかわいそうな被害者ではあります。会社命令で小林(ゴ−宣)担当なんかにならなければ、こんな嘘をつく必要もなかった。ですが、後段の「認識」にまで同情はできませんな。
「こんな例があるのか」はすぐに調べても(笑)、この時点で「著作権法」については何等調べもしなかったらしい。ったく、お気楽なものです。「無断複製、無断複製」ってアンタなぁ、これデッドコピーのケースかよっ。言うに事欠いて[印税もなく]ってきたもんだ。夢でも見てんのか!タコ。しかしまぁ、[印税もなく]ってのは言うも言ったりって感じですね。「著作権の制限事項」って、一から丁寧に教えてあげたくなっちゃいます。まぁ彼は、全部知った上でこんなことのたまってるわけですけど。
◆ [掲載にいたる経緯]として、寺澤氏はこう言います。《漫画家は、苦しんでアイデアをひねり出し、コンテにしてラフな絵を描き、さらに多数のアシスタントを使って一本の漫画を描いている。漫画家のかく汗は大変なものであり、たかが漫画としか評価できない人たちには分からない苦労がある。私は、その苦しむ漫画家を目の当たりにして知っている。ところが『脱ゴ−宣』は、こうした漫画家の汗の結晶をいともたやすく簡単にコピーして張り付け、本にしてしまっている。それも一枚や二枚ではない。私は、このような漫画の無断複製が、上杉氏の言うような理屈で許されるとは到底思えなかった。》
さあ、どこから突っ込みますか(笑)。
相も変わらず、「漫画家苦労論」です。だからどうしたっ! それって一体「文筆家とどう違うの?」、こう問うて、こんな論点は一発で雲散霧消です。今現在、マンガを[たかが漫画としか評価]しない者など恐らくどこにもいはしないでしょう。マンガは今や、世界に冠たるこの国の「文化」です。「BSマンガ夜話」がこんなにも長くシリーズ化していることを見たって、出版業界を実質支えているのはマンガであることを見たって、そんなことは自明です。先ず「結論ありき」、そこから遡行して、上杉の行為は「漫画を冒涜するもの」。これを導く為だけに「漫画家苦労論」を語ってくる寺澤氏でありました。著作権裁判時の小林主張と全く同じです。
しつこいようですが、それって、例えば小説家の苦労とどう違うの?
皆さん、以下大笑いの準備はよろしいでしょうか?
[ところで、当社では、予てより、著作権問題には厳しく対処しており、他人、他社の著作物の著作権侵害には非常に神経を使い、私達は絶対に著作権侵害をしてはならないと指導されています。社員教育も行なわれ、著作権問題に詳しい専門家の先生から指導を受けています。]
あのぅ…、寺澤さん。あなたが担当する当の小林さんって、過去相当数「著作権侵害」に該当する行為を行ってきたって、一部ではもう有名な事実なんですけど。例えばyahooの某トピでは、こちらもまた「著作権の専門家」(自称なんですけど、笑)が、「103章の侵害行為」を相当数列挙してましたよ。その103章の担当だってあなたでしょ?
そのトピでは、小林さんがよくやる手法、「新聞紙面の張り付け」(コラージュ)も何と「同一性保持権侵害」(!)なんですって(笑)。だからお気をつけあれ。あなたは「担当」なんだから、もっとよく目を光らせてなきゃダメっすよ。これじゃあ「社員教育」や「指導」が泣くっす。
◆ [われわれの受けた指導では「主従の関係は、だいたい7対3であり、3を越えたら絶対だめだ」(著作権侵害になる)と教えられています。編集者の感覚からすれば、これは至極常識的な判断ではないかと思います。]
「フジタ事件」の被告がよくもまぁ。
だから、「あの敗訴を契機としてこういう認識になったのだ」と、仮に(好意的に)解釈するにしても、真実あの敗訴から学べば「もしかしたら『脱ゴ−宣』は適法引用であるかもしれない」程度の認識には至る筈です。要するに、全て「後付け」の理屈。その証拠に、相変わらず、[この基準からすれば、「脱ゴーマニズム宣言」の、漫画引用部分の見開き頁などを見ると明らかにこの基準を越えておりました]、なんて言っている。「主従関係」を「頁」だけで観念するなんてこと自体が、「フジタ事件」から何一つ学んでいないことの証左です。
ここでまた「フジタ事件」の解説などくどくど繰り返しはしませんが、大抵の著作権法解説書にはこの事件の判例研究(評釈)は載っているのですから、寺澤氏よ、もう一度勉強し直して下さい。
◆ さてと、小学館では、《著作権侵害を厳禁するに当たり、著作権侵害は泥棒と同じだと表現され、注意を促されている》のだそうです(笑)。[私は、著作権の違法な侵害をしたと批判する場合に、「ドロボー」と非難することは自然なことであると思います。]
だから、この理屈でいけば小林だって「ドロボー」だろうが。許可が貰えなければ「模写で複製」か?(103章)。笑わせるな。それを発行したSAPIOをも「ドロボ−」、必然的に小学館もまた「ドロボ−」。指導を受けているという[著作権問題に詳しい専門家の先生]とやらに聞いてみろよ。「転載願いが拒否されたので『模写』して載っけたんですけど、これって全然問題無いですよね?」。「アンタそりゃ『ドロボ−』だよ」って答えなかったら、その指導契約関係は解消した方がいいな。
[著作権侵害をドロボ−と言わずしてなんというのでしょうか。]寺澤さんさぁ、そりゃ「海賊盤」ならドロボ−でしょうよ。「挿し絵」として利用したり、無断で「表紙」に使ったようなケースだったらドロボ−との非難もいいよ。でもさぁ、『脱ゴ−宣』一目見れば誰だって「批判の為の『引用』」だとの認識位は持てるぞ。(法的な決着・是非は別にしてもね。)ましてやあなたの会社は「フジタ事件」の被告だよ。小学館は、あのケースにおいてさえ「これは『引用』である」って抗弁したんだよ。『脱ゴ−宣』は十分議論の余地があるケースであること、その一点だけで明白じゃないか。それをいきなり「ドロボ−」ってさぁ。まぁそう認識することは自由だし、己への「批判書」なわけだから小林が立腹するのも分かる。だからこそ、先ず議論すべきだったのだ。先ず「結論ありき」で、絶版要求、拒否なら提訴、こんな無茶苦茶な話がどこにある。
寺澤氏は続けて、[ドロボ−との表現がきついか、あるいは著作権侵害の疑いがあるというのに比べて、穏当さを欠かないかという議論があるのかもしれませんが、著作権侵害を漫画で「ドロボ−」と端的に表現することは簡潔で要を得ています]と述べます。
ここでは見事に「漫画特別論」に逃げ込むわけです。ここでの寺澤論を忖度すれば、もし「文章」であれば、[ドロボ−との表現]はきつく[著作権侵害の疑いがあるというのに比べて、穏当さを欠かないかという議論]に異論は無いということでしょう。でも、これは「漫画なんだから」、[「ドロボ−」と端的に表現することは簡潔で要を得て]いると結論づけるわけです。幼稚な詐術です。
「名誉毀損」の構成要件において、漫画と文章とで「差異」がある筈もありませんから、「漫画だから」云々など何の言い訳にもならないでしょう。「マンガなんだから許してぇ、大目に見てぇ」、それこそが「たかがマンガ」と観念するマンガ差別論者のそれであると私は思うのです。
あなた方は都合の悪い時だけ「サブカル」に逃げているだけです。他の漫画家をも冒涜する態度です、それは。
お解りかな?
◆ 「肖像権」については、何とこんなこと言ってます。[完成された本件漫画の原画では、上杉氏については特徴を捉えて描かれていることは確認しましたが、特に悪意をもって描かれているとは思いませんでした。/むしろ愛嬌が感じられ、ドロボーの格好をした絵など愛らしくさえ感じられます。]
こうやって数々の「肖像権侵害」(人格権侵害)が共同で行われてきたわけですね。呆れた出版社じゃないですか。
私怨、感情にまかせて描き殴る「漫画家」と、それを愛嬌ある絵と持ち上げる「編集者」。共謀共同正犯じゃ、お前ら!(笑)
《全くの私人の顔を描いたり、いわゆるパブリシティ権を有する人物の漫画をパブリシティ利用の目的で描くのとはわけが違う。ちょうど新聞で事件の報道をする際、著名人や事件の渦中の人物の顔写真を掲載するのと同一であると理解している。よって当編集部は、肖像権侵害の問題はないと判断しており、現にこれまで問題になったことはない。》
あ〜あ…、「顔写真」と一緒だってさ。ここまで地に落ちた漫画家がかつていただろうか。
確か、「ワシの似顔絵は批評だ」って、そう言ってたんじゃなかったっけかなぁ…(笑)。わかった、わかったよ、「顔写真」と一緒ネ、はいはい。
◆ 「欄外記述」について。
欄外の[記述部分ですが、編集部としては小林氏の指摘は尤もな意見であり、上杉氏がこうした意見に対してなぜ目くじらを立てて躍起になられるのか理解できません。]
過去膨大な裁判例において、こんな幼稚な、そして「情緒的」な陳述の例はあったのだろうか? 訴えられてる側が、「何でそんなに怒るの?」ってアンタ。だったら小林も、下手くそな漫画カットを複製されたくらいで[なぜ目くじらを立てて躍起になられるのか理解できません]よアチキは。あまりにアホらしくて論評する気にもならん。
小学館自身は訴訟に加わりもしなかったくせに、「不正競争」について寺澤氏はこんなことを言う。
《しかもあろうことか、背表紙には「ゴーマニズム宣言」と小林著作の表題そのものを書き、赤字で「小林よしのり」と表現し、あたかも小林著作のようにして購入者を誘引している。》
コレ本気だとしたらちょっと頭弱いですよね。まさかとは思いますが、小林の担当なんかやってるとそうなっちゃうのかも。
『脱ゴー宣』手に取って「わ〜いセンセイの新作だぁ」なんて思う奴がいるなら、その程度の読者にしか支えられていない己を恨みなさい。己を嗤いなさい。それしか言葉が無い…。
【結論】
この編集者にして、この漫画家あり。(逆もまた真)
以上 2002/3/20
事務局 横山好雄