結審は越冬!私は酒漬け?

―名誉毀損裁判 第8回口頭弁論報告―

上杉 聰


 10月23日の口頭弁論は、私も出廷できましたのでご報告します。傍聴席には「楽しむ会」が3人、小林氏の側と目される人物が2人。それと「あれはカナモリじゃないの?」と噂される女性が一人。いずれにしても、ちょっとサビシイ…。でも、長期の裁判とはこんなものです。

 開廷のため起立した瞬間、「おやっ?」と思わされたのが、裁判長が交代していたこと。その直前に高橋さんとお茶を飲んでいて、「近く任期で裁判長がかわるかも…」と聞かされた話が早くも現実のものへ。私は内心、「前の裁判長だったら勝訴間違いなかったのに…」と、少し残念な気持ちでした。しかし、高橋さんは、判決文を書く主任裁判官(向かって右側の人)は変わっていないので、心配無用とのこと。

 法廷が始まると、高橋弁護士は、準備書面・第5(なんと39ページにもおよぶ大作)を陳述しました。これは、被告(小林・小学館)側の前回の準備書面を余すところなく論破したもので、素人目にも、反論はちょっと困難そう…。

 さらに別に、図像学の若桑みどりさん(千葉大名誉教授)の意見書を証拠申請しました。これは、小林氏が読者の心証を自分の方に引きつけるため、いかにマンガの描き方を工夫しているかを論証したもので、論敵をおとしめるための顔の描き方、体型の描き方などの手法を具体的に分析したもの。私もその論理のスゴさに正直うなりました(若桑図像学おそるべし!)。

 若桑さんは、ただいま絵画の資料調査ためローマへ出張中。そんな忙しいときにイタリアから図像学の専門家として意見書を送ってくださいました。感謝感激です。

 ついでに私も、小林氏に醜く描かれて、いかに被害を受けたか、また小林氏の暴力的なマンガ表現がいかに強い言論抑圧になっているかを説明した陳述書を提出しました。

 今回のもうひとつの圧巻は、高橋弁護士が作成した証拠でした。同じセリフに対して、醜く描かれた私の顔を付けたコマと、美しく描かれた小林氏の顔を付けたコマとを比較したらどうなるかを示す実験マンガで、顔を入れ替えることでセリフがまったく違った印象になることを証明したもので、裁判後に喫茶店で「楽しむ会」のみなさんとシゲシゲ眺めて大笑い。小林マンガのトリックを暴露する材料がまた一つ増えました。

 これは、「絵が文字を変える」という意味では、著作権裁判の勝利を決定的にした、例の「左翼がきらいになった」というセリフが、様々な絵を付け替えることで、それぞれが違ったニュアンスになることを証明した証拠と同じ性格のものですが、醜く描かれた私のセリフと、小林氏のすっきりした美しい顔を付け替えると、語る言葉がまったく違って読めることを明瞭にして、実にオドロキました。

 これらは、なるべく早く、画像データも含めてHPに掲載したいと思っています。 今回の力作ぞろいの準備書面や証拠を作成してくださった高橋さんおよび土屋法律事務所に対して、ただただ頭が下がる思いです(安い弁護料でゴメンナサイ)。

 ところで新裁判長は、裁判の書面や証拠類についてはまだほとんど読み込んでいない様子で、彼は双方の弁護士から対等な時間を取ってレクチャーを受ける特別の口頭弁論期日を入れたいとのこと(こうした措置は異例で、書証が多いこの裁判の大変さを物語っています)。

 新裁判長は、その口頭弁論で結審にしたい様子だったので、小学館側の弁護士が、「ちょっと待ってください。さらに反論したい」と主張。いっぽう小林氏側の弁護士はすでに戦意喪失しているのか、小学館の食い下がりを横目で眺めているだけ。他の裁判でも負け続けらしい小学館の担当弁護士としては、ここはメンツをかけて頑張りたいという意気込みやよし。

 そこで、裁判長は、次回第9回を、自分へのレクチャー法廷(弁護士以外入れない)とし、次々回(第10回)を来年1月15日午前10時と決め、小学館の反論は11月中に提出するよう指示して閉廷しました。年内には結審も、と思っていた進行状況は、裁判長の交代でアフガン戦争より早く越冬することに決まりました。でも、この様子では、1〜3月にはやはり結審したい様子です。

 閉廷後の喫茶店での雑談は、追いつめられた小林氏のゆくえについてひとしきり。「新しい歴史教科書をつくる会」の大惨敗で、小林氏と組んで活動してきたJC(日本青年会議所)の「教科書採択を考える会」が解散、小林氏は放り出されるはめに。いっぽうの「つくる会」は、先月下旬に開いた総会で藤岡信勝新体制(彼は副会長に返り咲いた)を確立しました。藤岡氏と小林氏とは、ご承知のように犬猿の仲です。

 「つくる会」としては、歴史教科書に「アメノウズメの命」のシーンを、小林氏が強引に書き込んだことに対して、中心メンバーたちが、これを採択戦に負けた一つの理由として不満タラタラらしく、4年後の再検定申請の段階では削除するよう画策しているとのこと。その伏線として、先の9月の総会で教科書の改訂権限を「つくる会」から扶桑社にあずける形に決定し、すでに執筆から小林氏を外す体制を確立したといいます。

 JCにつづいて「つくる会」からも完全に切られてしまうと、最近めっきり売り上げの落ち込んでいる小林氏としては、またつらい立場に…。またまた、新天地を求めて変身を準備しているかもしれません。

 ところで、最高裁に移った著作権裁判の方、裁判所からは「審理中」とだけあって、まだ何の音沙汰もありません。高橋弁護士によると、時間がかかるのは、最高裁が高裁判決を再検討している証拠とのこと、「果報は寝て待て」と私は決め込んでいます。

 私の近況を、『歴史読本』12月号に書きました。同誌の許可を得て、以下に転載させていただきます。ご笑覧ください。

 

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 「歴史」と「物語」

上杉 聰

 

 私の中学校時代に歴史を教えてくださったその恩師は、若山牧水のファンであった。「しら鳥は かなしからずや 海の青 海の青にも 染まずただよふ」の短歌に、自分で勝手にメロデイーを付け、私たち生徒によく歌わせていた……音楽の授業でもないのに。当時はそんなことも許されたもので、あの頃をなつかしく想う。 その先生の「歴史認識」は、今の私からしてみれば、決して「正しい」ものではなかったように思う。だが、随所に散りばめられた「私見」の一言が、齢50を過ぎた今も、私の脳裏に鮮明によみがえる。「小学校や中学校の先生というものはよいものだ」「うらやましいものだ」と思う。柔らかい中学生の心に忍び込むことができたのだから…。

 「新しい歴史教科書をつくる会」が、1996年の末に、「歴史は物語」をスローガンに登場したとき、私はそれと真っ向から対立することになった。そこには「歴史はフィクション」との主張が含まれていたからである。「従軍慰安婦」の被害を否定し、アジアへの日本軍の加害をうやむにするものを、歴史として認めることはできなかった。 その論争は高じて、ついに今年「つくる会」教科書が検定を通った前後に、私は同じ考えの人たちと短期間に2冊の本を出し、講演要請があれば全国各地に出向いた。最も忙しい時期は、それが月20件にも達した。週2日間の授業をこなしてのことだから、さすがに疲れた。

 幸い、「つくる会」の教科書の採択は、0・1パーセント以下という状態に終わった。しかし、4年後の「リベンジ」に向けて今も活動をつづけている。ただ、当面はあわてなくてよい。酒の美味しい秋を、「のんべ」の私は、いま静かに楽しんでいる。 こんなゆっくりした時期だから書けるのだが、私は教科書問題で講演するたびに、ずっと心の奥底に痛みを感じていた。それは、高校時代、それまでの中学校の歴史の授業と違い、年表を丸暗記するような毎日に、ほとほといや気がさしていたからである。こうした歴史教育で良いのか、という思いがあった。 大学を哲学科で卒業してからしばらくたって部落史の研究を始めたが、私は学校の先生方との付き合いを重ねるにしたがって、部落史における「物語」の必要性を、やはり強く感じてきた。そうして私は、すくなくとも部落史の分野で、無味乾燥な歴史観を払拭すべく、努力してきたつもりである。

 ただ、「つくる会」の諸氏との違いの第一は、歴史というものが「客観的な歴史事実」に基礎を置く以上、その物語が「フィクション」などであっては絶対にならないということである。第二は、その物語が「単線」であってはならないということである。 「歴史的事実」とは、そもそも複眼でしか見えない「多面体」であることが、意外と知られていないように思える。一つの史料にもひとりの研究者には見えない箇所が必ずある。一つの出来事にも、そこに参加した人の数だけ「事実」がある。つまり、客観的な歴史とは「複合した物語りの数々」なのである。「つくる会」教科書のように、ひとり国家だけが物語を持っているようなものでは決してない。教科書とは、「客観的な歴史事実」から、「自分なりの物語」を子どもたちそれぞれが紡ぎ出す場所となるべきだろう。間違っても、一つの物語を押しつけるようなものであってはならない。 私のかつての先生は、授業の合間の合唱指導を通じて、多くの生徒に刺激を与えたに違いない。しかし、そこから何を学んだかは、生徒ひとりひとり違うことだろう。「合唱の授業」というひとつの「客観的な歴史的事実」も、生徒にとってまた多様なものである。

 私は、といえば、のちに「しら玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」の短歌が、あの牧水のものであることに、「合唱」の授業のせいで、いたく興味を引かれることになった。授業という、ひとつの「歴史的事実」は、秋の夜長の酒を楽しむ「のんべ」なりの物語を、またひとつ紡がせてくれたことになろうか…。 (『歴史読本』2001年12月号)