「名誉毀損」裁判 被告・小学館反論の「ポイント」
準備書面4(平13年8月21日付)
1 名誉毀損について
・原告は、(注/準備書面4において)「読者が事実であると信じない場合にも名誉毀損があり得る」と言うのであるが、事実を摘示して人の名誉に関することを述べた場合、その事実を信じなければ、社会的評価の低下はあり得ない。言われた当人の個人的な感情は別だろうが、名誉毀損が社会的評価を保護するものであることは、原告指摘のとおりである。
◆ 公正な論評について
・事実を摘示した上で、社会的評価を低下させる意見を述べた場合、読者が意見の前提となる「描かれたこと」を真実であると信じなければ、社会的評価の低下はあり得ない。意見の前提たる事実が、虚偽の信用できない事実であると読者において認識できる以上、その社会的評価には影響しないからである。
・事実を摘示して、これに基づいて評価を述べ、その結果社会的評価に影響するとすれば、この場合名誉毀損の問題が生起する。このような場合には、評価の根拠となった事実が主要な点で真実であるか、真実であると信ずることについて相当な理由があることを明らかにすれば不法行為責任を問われることはない。なお、公共性・公益目的に関する要件が必要であることは言うまでもない。
◆ 反論
・ところで従来原告は、名誉毀損による不法行為を主張するに当たっては、事実を摘示しての名誉毀損のみを主張していた。そこで当被告は、準備書面2において、本件漫画で摘示した事実は、原告の無断複製であるところ、これは真実であることを主張した。
・以下、再論する。
被告小林が描いた「ドロボ−」等は、原告が著作権侵害をしたという主張であり、そのような評価や意見を述べているのである。従って、その評価や意見の根拠となる事実が真実であれば、公正な論評として不法行為責任は生じない。
小林がこうした評価をした基礎となる事実、即ち、原告の小林漫画の無断複製は事実である。
◆ 本件漫画の表現が、穏当を欠くとの主張について
原告は、「被告小林は、それだけでなく『ドロボ−』と罵倒しているのであって、ここに至っては到底冷静な議論とか言論とは言えない。意見表明をするのは自由であるが、『ドロボ−』と連呼、罵倒することは、正当な言論の枠を超えている」と主張する。
・その趣旨は、正当な言論の応酬を超えているから、読者において「原告が違法な著作権侵害をした」との印象を受けるということにあると思われる。しかしドロボ−との記載を、原告と被告小林の論争において、言論の応酬として不相当であるということは出来ない。
・なお原告が、本件漫画以外の別の漫画等に関して議論している点は、本件不法行為の主張とは直接関係がないと思う。
◆ 反論
・「ドロボ−」が文字通りの窃盗ではなく、著作権侵害を指していることは明らかであり、
読者にそのような印象を与えることは原告自らも認めている。本件漫画は、原告の言論活動の手法に対して、著作権侵害であると繰り返し批判しているのであり、原告が実際に窃盗していると述べているのではないし、私生活上の行為等について批判し、人身攻撃をしているのではない。
・本件漫画において、原告の行為が著作権侵害であると批判することが主題の一つであり、被告小林が「ドロボ−」と繰り返し書いたとしても、著作権侵害の意味である以上、本件漫画の目的から相当な範囲内であるというべきである。特に、原告と被告小林は、従軍慰安婦問題に関連して鋭く意見が対立しており、その間において激しい言論を応酬し合うことは当然に許される。
・原告自らが被告小林の漫画を無断複製して原告著書を発売したことにより、著作権問題まで含めた論争を巻き起こしたことに鑑みると、上記表現を特に正当な言論の枠を超えた罵倒ということは出来ない。
2 原告の言う肖像権侵害、あるいは人格権侵害について
◆ 原告の主張の不自然・不当なこと
・原告は、写真等の肖像を使用すれば、それだけで直ちに違法性を帯び、本人の承諾か原告の言う三要件なくして、違法性が阻却されないと主張する。原告の主張によれば、政治家であっても有名人であっても、その人たちの活動や意見を掲載する時に、写真を掲げるとそれだけで違法性があり、掲載が許されるのは違法性阻却事由があるからだという議論になる。
・写真掲載だけでまず違法性があるとするところで、余りにも不自然ではないかと思う。普通の新聞や雑誌の写真掲載は、まず違法性を帯有しているということになってしまい、あるいは政治家や有名人は別だという議論なら、それなら肖像権一般を観念するのは論理が一貫しない。
◆ 表現の自由の優越性
・そもそも原告の主張のとおり、肖像を利用することだけで原則として肖像権侵害となるとの理解は、不当に表現の自由を制約する考え方ではないだろうか。確かに近年、新しい人権としてプライバシ−や肖像に関する権利が、包括的自由権である憲法13条を根拠に主張されるようになっている。しかし、こうした必要性が過度に強調されると、包括的自由権はその具体的な内容が曖昧になりがちであり、曖昧なままで他の伝統的な人権との衝突も当然生じ得る。
・したがって、人権カタログに明記されている表現の自由に対して、肖像権が優越するということは到底言えない。
大阪高裁平成12年2月29日判決は、プライバシ−権・肖像権と表現の自由の関係が問題になった事案において、「表現の自由は、それ自体内在的な制約を含むとはいえ、民主主義の存立基盤であるから、憲法の定める基本的人権の体系中において優越的地位を占めるものであるが、常に他の基本的人権に優越するものとまではいえない」と判示している。
原則的に表現の自由が優位にたつのである。
・肖像を公開すると直ちに違法となり、違法性阻却事由を被告が立証しなければならないとするのでは、肖像権を過大に重視することになり、典型的な基本的人権であり民主主義社会の根幹をなす表現・言論の自由に対する萎縮効果をもたらすことになりかねない。
そうだとすれば、表現の自由と肖像権の調整は、前者の優位の下で、両者の利益考量によって行われるべきであり、一定の要件を満たした場合に初めて肖像権侵害として違法になると評価されるべきものである。
◆ 肖像権侵害の判例について
・原告が指摘する「田中角栄胸像事件」では、裁判所は、「胸像は、写真とは本質的に異なり、その制作、展示の目的、形態においてその人のいわば分身として、その全人格を具体的に表象するものであり、かつ半永久的に保存されるものである。・・・・・胸像が前記のような性格を持つ以上、右のような本人の意思は最大限に尊重されるべきである」と判示している。
即ち、胸像は写真(や肖像画)とは同視できない要素があり、格別名誉毀損やプライバシ−侵害等の要素が無い場合であったが、肖像権侵害の不法行為が認められたのである。
・ここから一般的に言えるのは、肖像権侵害といっても実際には、その大半が名誉毀損やプライバシ−侵害が問われるような態様で写真が撮影されたり、公表されたりした事件ばかりであるということである。
肖像権侵害は、こうした他の法益侵害と密接に関連し、併せて主張されるのが大半である。
・ところで原告は、ドロボ−以外の動作をさせた絵について名誉毀損を主張しない。したがって番号20のカット以外は名誉毀損もプライバシ−侵害も伴わないものであるということが出来そうである。
特に顔だけのカットはそうであろう。
◆ 最高裁判決並びに東京高裁判決について
・写真撮影に関する判決のリ−ディングケ−スとされる昭和44年12月24日最高裁判決は、「肖像権と称するかどうかは別として」と断りながら、「私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容貌姿態を撮影されない自由を有する」と判示している。
・写真の無断撮影や掲載は、そのことだけで肖像権を侵害したということにはならないのである。
まず「みだりに」撮影・掲載されたという要件が必要である。次にその写真が「私生活上の自由」と言えるものでなければならないのである。こうした要件を充足して初めて、違法性阻却事由の有無を論じなければならない、人格的利益の侵害が問題になるのである。
◆ 「みだりに」について
・通常「みだりに」に当たらない場合として、風景の点描のような場合が例示されている。これは世間一般の人であれば、不快感を感じない撮影であったり掲載であったりする場合だからである。つまり、およそ人格権侵害など観念できないからである。
・名誉毀損やプライバシ−侵害等による人格権の侵害を伴わない状態における肖像の利用、例えば、氏名に代えて写真で個人を特定しても、それだけで肖像に関わる自由の侵害と言えないと思う。
・肖像権は、私生活上の権利なのである。私生活上の自由権とは、例えば家庭内のこと、知られたくない秘密など、私生活上で保護されるべき自由権であるという趣旨であろう。そうだとすれば、世間に知られていることや、自ら公表したことは、もはやこれに該当しないというべきである。
・自らの肖像を公表すれば、私生活上の自由権として保護されることはない。また、私生活ではない、換言すれば隠す必要のない公的な場で撮影される写真にあっては肖像権を認めることはできないと思う。何故ならそのような肖像は、「私生活上の自由権」の一つとして保護されるべきであるとは言えないからである。
・ところで、富山地裁平成10年12月16日判決は、天皇のプライバシ−権と肖像権(写真)が問題になった事案であるが、肖像権について興味深い判断を示している。即ち「個人の私生活に関する情報を含まない単なる容貌等についての写真は右にいうプライバシ−の権利が保障する個人の道徳的自律の存立に直接関わる情報ではないから、そのような写真を利用乃至対外的に開示しても直ちにプライバシ−侵害にならない」との一般論を示した。
これによれば、そもそも何の個人的な私生活情報を含まない写真の公開は、肖像権侵害に当たらないのである。
・原告は、自らの言論活動において、その写真を公開してその意見や主張を述べており、テレビでも顔を露出して意見を述べるなどしている。原告の肖像は、少なくとも原告の言論活動に関する領域においては、「私生活上の自由権」の一つとして保障されるべきであるとは言えない。したがって、本件漫画は、原告の私生活上の自由を侵害したことにはならないのである。
◆ 肖像権侵害の要件
・当被告は、
イ 原告の肖像が 私生活上の自由として保護されるものである場合に、ロ 「一般人の感受性を基準として」、一般人が本件漫画による表現に具体的に関係した原告の立場に立った場合に、「好まない形態での容貌・姿態」を描いていると判断されることが必要なのであると解したい。
・原告の漫画は、
公的な生活領域で明らかにした肖像写真に基づくものであって、そもそもイの要件を充足せず、さらに原告は、
かねてから被告小林と激しく論争しており、本件漫画の直接の原因となったことであるが、原告著書において、被告小林の漫画を大量に無断複製し、かつ、この無断複製は、合法的であって許されると主張し、以って本件漫画による反撃を招いたものであるところ、
他方、被告小林は、
本件漫画において、原告をその言説や行動の主体として特定するために描いているのであり、漫画に原告を描くにあたっても、単に原告を「ドロボ−」というのではなく、原告の言い分も掲載した上でこれを批判しているものであること
加えて、原告の似顔絵等は、誇張と風刺・諧謔を元々その本質的要素とする漫画に掲載されたものであること
そして、被告小林の主張には相応の根拠もあること
などの諸点からすれば、本件漫画に原告を描くこと自体は「一般人の感受性から」受忍限度内であるというべきであろう。「みだりに」の要件には該当しない。
・なおこの項では、もっぱら原告の肖像権一般についての反論を述べているのであって、そもそも漫画が、肖像として同様の議論の対象になるか否かは別である。
◆ 漫画と肖像権
・本件ではさらに考慮すべき点がある。
漫画で似顔絵を描いた場合、そもそも「肖像を公開」したと言えるのか、肖像権の問題が生起するかということである。
・肖像画や写真に対し、漫画は、個人の特徴を捉えて描くから個人を同定することはできるが、基本的には描き手の主観に基づく創作である。漫画は実際の容貌や肖像そのものではない。漫画で表現された似顔絵は、本来の容貌や姿態そのままに表現する肖像画や写真とは違って、元々、本人の真実の容貌や姿態とは別な物と理解されているのだから、肖像権の対象になると考え難いのではないか。
漫画は、写真や肖像画、あるいは胸像等とは全く性格の違うものということができると思う。
◆ 原告のいう肖像権の保護法益について
・原告は、自分の容貌を利用される嫌悪感を強く主張している。このような嫌悪感が一般人を基準にしてもそのようにいえるのか、また、その嫌悪感それだけで表現の自由に優越して法的保護の対象になるかは疑問であるが、その点は措いて、仮に嫌悪感があるとしても、それは自分の容貌そのものが無断で掲載され公表されること自体から生じるのであろう。
・ところで、変形された肖像や実際にはしていない行動をしているような漫画が公表された場合、勿論自分の顔が変更されることなどによる不快感を感じる場合もあるだろう。
しかしそれは、前記の嫌悪感とは性格が違うのではないだろうか。変えて描かれて嫌だと思う気持ちと、自分の容貌がそのまま表現されて嫌だというのは同じではない。
・漫画であればそこに表現された顔は、そもそも同じ顔ではない、本当の容貌通りではない等の理解があるのであって、容貌や姿態そのものが公表されたという観点からの不満ではなく、その表現内容が事実に反している等の内容についての不満が主な感情になるのである。
・こうした議論に対して、
a 二重の苦痛(容貌の特徴から特定される苦痛、実際の容貌からカイ離することでの苦痛)が発生するから一層強い嫌悪感を持つ
b どちらにせよ肖像の侵害による感情としては保護されるべきであり、一体に考えてよい
という考えもあると思う。しかし、そのように言うことは出来ない。
◆ aについて
・漫画が実際の容貌や肖像から遠ざかれば、原告指摘の保護されるべき感情は、保護の度合いを失っていくと思う。
特に原告のように、「およそ肖像を使用すればそれだけで肖像権侵害になる」という議論をする場合であれば、そうである。
何故ならそう理解しないと、少しでも個人の特徴が入って特定人と同定されると、それだけで、名誉毀損やプライバシ−侵害等の要素が皆無であっても、原告のいう3要件がない限り不法行為になってしまうことになり、表現の自由の観点から到底許されることではないと思われるからである。
原告の侵害論の立場からすれば、「肖像権侵害」となるべき肖像は、その容貌や姿態をそのまま表現した写真や肖像画を対象としているものと言うべきである。
・仮に変形されたことにより別の法的保護に値する不快感が発生するとしても、それは肖像権で保護されるのではなく、別の構成によると考えるべきである。
◆ bについて
・肖像が保護されるようになってきた経過や、現在肖像権として保護されている事例からもbのように言い切ることはできない。
・これまで問題とされていたのは、写真や胸像など、正確に再現する肖像そのものであった。これらの肖像は漫画に比べると、胸像事件判決が言うように「その人の分身」とでもいうべきものであり、こうした、肖像そのものが使われることに対する感情の保護が背景にあったと考えられるからである。しかし、漫画は、漫画家の主観によって表現された絵であり、肖像そのものを著すものではない。他の不法行為になることはあり得ても、肖像権として保護することは出来ないのではないだろうか。
・実際と違うように描かれたことへの不満が原告にあり、これを保護すべきであるとしても、肖像権によって保護しなくてはならない法益とは、全く同じではないということができる。
そうだとすれば、変形を事とする漫画は、そもそも肖像権の保護の対象ではないというべきではないだろうか。
◆ 漫画による肖像権侵害について
・以上のとおり、当被告は、そもそも漫画による肖像権侵害はありえないのではないかと考える。この点は、当被告準備書面2、及び同3の主張に優先して主張する。
3 肖像権侵害・人格権侵害についての予備的な反論(略)
◆ 裁判所の求釈明事項について
(1)肖像権侵害一般については、既に主張したとおりである。
(2)原告の似顔絵の誇張・風刺が許される範囲については、以下のとおりである。ア なお、元々漫画は、肖像権の対象として保護されないと考えたい。
イ しかし、漫画の誇張や風刺が、名誉毀損・プライバシ−侵害等に至れば、不法行為になりえる。またその程度がひどければ人格権の侵害もありえるだろう。したがって、まずはそこまでの評価を受けないような誇張や風刺は許される。その評価に当たっては、漫画であることは、普通の肖像画や写真に比べて、より広い許容範囲が付与されていると思う。
何故なら、元々漫画は、誇張や風刺・諧謔を旨とすることが万人の共通認識であり、多少の誇張等があっても、読者はそのとおりに受け取らないないし、被写体もそのことは承知しているからである。
ウ 仮に誇張や風刺が過ぎて、不法行為を構成する場合であっても、違法性阻却事由があれば、違法性を阻却される。その違法性阻却事由は、(既述)のとおりである。
(3)具体的な基準
ア 不法行為の成否
本件において上記以上に具体的基準を定立する必要はないと思料する。何故なら、本件漫画の原告の似顔絵は、問題にする程の誇張がないからである。またしていない動作をさせた関係では、問題になりえるカットはあると思料する。この場合にはしいて言えば、(略)のとおり一般人の基準で不快感を感じるか否かで判断されることになろう。
イ 違法性阻却事由について
しかし、問題になりうるカットについても違法性阻却事由が備わっていることは前記のとおりである。
2 求釈明事項4項
「印象批評」については、被告小林の主張に付加すべき点はない。
【おまけ】
被告小林よしのり準備書面4(平成13年8月13日付)
◆ 「印象批評」の意味
・裁判所指摘のとおり、被告小林は、「似顔絵が印象批評であることは読者との了解事項である」と主張している(『新ゴ−宣』66章)。被告小林の作品における「印象批評」とは、「印象」つまり批評対象が被告小林の精神に与える効果、影響に基づき、被告小林が、「批評」つまり物事の善悪、是非などについて評価し、意見表明することを意味する。
・被告小林はその漫画作品において、多数の「似顔絵」を描写している。それらの中には、比喩的に表現されたもの、誇張表現されたもの、あるいはデフォルメ表現されたものも少なからず存在する。
例えば、「安部英の似顔絵など悪く描いたつもりだったのに・・・」(同66章)とあるとおり、
小林が批評対象から受けた印象に基づき、似顔絵をデフォルメしようと試みて描写する似顔絵も存する。
・そもそも漫画が、本質的に誇張・風刺・諧謔・ひねり・遊び心などを内包した言論表現手段である以上、特定の人物の言動を批評するに際して、その似顔絵自体に、比喩や誇張やデフォルメを加えることが絶対的に不可欠である。ましてや、「意見表明漫画」たる『ゴ−マニズム宣言』である。「印象批評」は、その作品の核心的要素とも言うべきものである。
3 表現の自由
・被告小林の印象批評は、無目的に行われるのではない。あくまで「批評」のため、すなわち客観的事実に基づいて形成した被告小林の「印象」、すなわち主観的意見を表明するために行われるのである。
それはまさに、被告小林の言論活動そのものであり、本来自由に認められるべきものである。言論・表現の自由は、民主主義を支える重要な人権として基本的に保障されているところであり、被告小林の「印象」による「批評」もその例外ではない。
4 読者との了解事項とは
・そこに描かれる一つ一つの似顔絵に込められた比喩やデフォルメにも、被告小林の印象に基づく主観的意見が色濃く込められている。そのことは、『ゴ−宣』の読者は十分に承知しているところである。読者は、そこに描かれた比喩やデフォルメを含む似顔絵を見た時、客観的事実と見ることはあり得ず、あくまで被告小林の主観的意見の込められた絵として理解する。
・例えば、本件似顔絵20を見た読者は、誰もが、原告の「適法な引用である」との主張に対して、被告小林が「違法な無断転載である」と主観的意見を表明しているに過ぎないことを、瞬時に、容易に理解する。
・著作権法上許される「引用」か否か、という極めて高度な法律判断であることと相まって、一般的読者は、「引用」について、両者の意見が戦わされていると見るのであり、決して、確定的に著作権法違反行為をしたとは見ない。まさに、「印象批評」として了解しているのである。
(文責/「楽しむ会」 三上秋津)