5月14日、東京・御茶ノ水の明治大学で第2回セミナーが約80名の方の参加で行われました。まず、海渡雄一さんが国連犯罪防止会議の簡単な報告を行った後、元刑務官坂本敏夫さんのおはなしをうかがいました。当日答えきれない質問に対しては坂本さんの希望により紙上に掲載することとしました。
海渡雄一さんからの報告
設立趣意書にCPRは国連NGOのペナル・リフォーム・インターナショナル(PRI)と協力していくと記されています。このPRIが去年11月に政府の後援でオランダのハーグで国際会議を開き、50か国以上の政府・NGOの参加で、メイキング・スタンダード・ワーク(MSW)というマニュアルを採択しました。これは国連被拘禁者処遇最低標準規則を実効性をもって実施する、という意味です。
カイロでの国連犯罪防止会議では、オランダ政府が中心となって20か国の共同提案による決議案が採択されました。内容は、5月末からウィーンで開かれる国連刑事司法犯罪防止コミッションでこのMSWに再検討を加え、加盟国に配布し役に立ててもらうというものです。そのほか規則の実施への協力を各国に呼びかける内容になっています。今まで国連基準がなかなか守られない実態があったわけですが、本格的に国連基準を守らせるような実効性ある仕組みを作って行くために、各国でNGOと政府が協力しながら情報交換していくことが決められています。これは、まさに私たちが今始めようとしているCPRのようなNGOを国連が直接バックアップしていこう、そして法務省などと連携して意見交換しながら国際人権基準に従った処遇をしていこう、という方向です。
こういう動向も受け、来年の1月か2月にPRIの本部の方や、もし可能であれば国連の刑事司法ブランチの人も呼び、法務省の方々にも加わっていただいて、国連のマニュアルについて共同で学び合うセミナーを実現できないか、ということを検討していきたいと思いっています。これがセンターのこれからの重要な活動になるだろうと考えています。
元刑務官の坂本敏夫さんのはなし (インタビュアー・海渡弁護士)
――坂本さんの経歴、志望動機は?
19歳の時から昨年までの27年間務めました。はじめ大阪で看守となり、試験を受けて幹部になり転勤も経験。その後、神戸、大阪、法務省に8年、東京矯正管区に2年、長野、甲府、黒羽、最後が広島でした。父親も広島拘置所長を務め、大阪刑務所の管理部長のとき死にました。私が刑務官になれば一家四人そのまま官舎に住めるというので刑務官を志望したのです。
――代々刑務官をやっている人の話をよく聞くのですが。
秋に公務員3種試験があり、最後に刑務官試験がある。12月中旬の発表前に他に就職する人が抜けて欠員が出るので、縁故採用ということになるんです。
――勤務体系、夜勤や勤務時間は?
職員の定員は1万7千人で昔と変化ない。昔は木造建物で天井からの逃走事故があったり、テレビカメラもないので、夜勤に今の倍近くの人員が必要だったのです。
勤務時間は週40時間で一般公務員並になったが、あくまで規定上で、無条件に何十時間も超過勤務をやります。私がいた頃は規定上も週51.5時間でした。夜8時半から朝8時半だが、大体は9時半まで。昼まで居残ることもありました。夜勤−非番−夜勤−非番で、20回泊まって一日休みということもありました。建物が良くなり、機械警備が進み、4交替制が組めるようになって、4日に一度泊まる形に改善されましたが、人員は増えていないので、結局は自助努力です。
舎房勤務の場合、1人の刑務官が一つの舎房を受け持ちます。個室なら50人、集団室なら200人くらいでしょう。
――刑務官の平均年齢が低下しているのでは?
職員はわりに定年までいる。若い職員を現場に配置するので、第一線は若い職員になります。
――労働条件で一番大きな不満は?
休みもその一つ。相手(受刑者)がいることなので、休みも割り振る形になって、ちょっと旅行というわけにもいかないのです。若い人がすぐやめてしまうようなことは、男子の施設ではまだありません。やめる人が多い施設はあるが、それは別の理由。一つは刑務官の募集要項に裏切られるから。「犯罪者の社会復帰を助ける仕事」とあるが、自分で受刑者を指導する場面がない。指導すると上司から注意されるんです。それから、昔の軍隊と同じで、階級が違うと命令は絶対。それでやめる人がいる。退職理由は「自己都合」で処理されるので、管区や法務省は実態はつかんでいない。退職者が多い施設は抜き打ちで調査すべきだと思います。
――刑務官の賃金は?
人事院で俸給表が作られていて、公安1、公安2というように職能になっている。公安は一般の公務員と比べて2、3万円、10%位多い。
――刑務官は気晴らしはどうしているのですか?
刑務所では職員も管理する。事故もあるので。入ってすぐヤクザ者に籠絡されて贈収賄に至ったとか。それに見合った規制が各施設の伝統となる。地方都市では繁華街が少なく、ヤクザ者が牛耳っていたりする。ヤクザが関係している酒場のブラックリストを警察からもらって、若年職員に指導したこともあります。また、何かあったときに最低限の人員を確保するために、居場所を家族に言っておく、長期間出かけるときは上司に報告するといった制約はありますね。
――外国では刑務官の労働組合がある。労働条件の不満を解決する仕組みは?
ありません。不平不満はうっ積しています。CPR結成の記事で私のことを見て、幹部からいじめを受けているとか、SOSが入ってきています。若い人が多い。個人で法的手段をとると職場にいられなくなる。一つ一つ解決するだけではなく、底流にある管理体制だとか、刑務官の仕事に対する誇りを取り戻すこととか、そういうことをやっていきたいと思っています。
――職員はずっと同じ部門にいるのですか?
全部を回る人は少ない。事務部門は少数で膨大な事務をこなすので、事務能力がある人が行く。処遇部門は規律で抑えているので、代替がきくようです。
――カウンセリングの仕事もあるのですか?
人的な面で立ち遅れています。「社会一般の不安を除去する」といった意味で、保安警備の職員がほとんどになり、専門技術を持ったスタッフの養成・採用は遅れているんです。
――ヨーロッパでは、保安スタッフも受刑者とのグループ・ディスカッションなどをするが。
一番のネックは刑務作業に時間を取られることかもしれません。
――刑務官と受刑者はおたがいをどう呼んでいるのですか?
「おやじさん」は関西、関東やA級施設では「先生」と呼ばせている例が多い。今は「担当さん」というのが主流かもしれない。
収容者は、名前で呼んでいる。女子の施設は「さん」づけ、男子は呼び捨てです。
――刑務官の状況をどう変えたらよいか?
刑務官も指示待ち人間になっている。下から処遇について意見を言えば、「お前偏っているんじゃないか」とレッテルを貼られる。現実に受刑者を扱う下の人たちをスタッフとして認め、表現の自由を与え、監獄の改革について物の言えるような体制作りが一番大事です。
20年前は、弁論大会で死刑廃止を刑務官が真剣に論じたりしていました。開放処遇がで
きたのが1964年−68年頃までで、この頃は、そういう試みを各施設で一生懸命やった。70年安保の頃から警備主体になり、今もそれをそのまま引きずっている。幹部の資質の問題もあると思います。犯罪者の更生という動機で刑務官になったキャリアがいれば変わるのでしょうが、おそらく一人もいない。大蔵省に行けないから法務省に来たとか。1968年頃で監獄の改革の波が断ち切られてしまったのは、非常に残念に思っています。
――センターの活動には第一線の刑務官の支持が必要だと思いますが。
そう思う。しかし、日々仕事に追われて忙しすぎる。大蔵省は「金も人も増やさない、それでできることをやりなさい」と。法務省も「それで結構です」ということでやっている。内部で処遇改革を試みた人もいるが、現場の施設長などから「理想論は分かるが、それでは管理できない」と言われてなかなか発展しない。監獄人権センターなど市民が、大蔵省に働きかけるのも大事なことです。これから問題意識を持った人たちが幹部になっていくと、中も変わっていくと思う。
――今日はどうもありがとうございました。