日本監獄史上最悪の時代を象徴する三つの事件

犯罪行為がまかり通った刑務官懲戒免職事件
死への残業を頑強に認めなかった刑務所、刑務官過労死事件
落ちこぼれ刑務官の個人犯罪として片づけた、死刑未決囚逃走幇助未遂事件
刑務官部会 坂本 敏夫


(前号からの続き)

福岡拘置所死刑未決囚逃走援助未遂事件

 7月16日、福岡地方裁判所において、死刑判決を受け上告中の被告人T(31才)―身代金目的拐取、殺人、拐取者身代金要求、監禁、強姦。1988年3月30日第一審(熊本地裁)判決、死刑。1991年3月26日第二審(福岡高裁)判決、控訴棄却。同月27日上告申立―に金切鋸、時計及び現金を手渡し逃走を援助した元福岡拘置所刑務官S(36才)に対する、看守者等による逃走援助未遂被告事件の判決公判が開かれた。
 照屋常信裁判長は「逃走を防止する職務を行うべき看守が、自らの職責を放棄して、被拘禁者を逃走させようとした行為は前代未聞のこと。刑事司法の一翼をなす制度について、その根幹を揺るがした、許し難い職務犯罪である」と述べ、懲役2年6月の実刑(求刑懲役3年)を言い渡した。
 判決によると、1996年8月頃から、SとTは上司への不満等の共通の話題から急速に親しくなっていたが、11月中旬、D棟3階9室に拘禁されていたTが「鉄格子を切れば逃走できる」と話してきたのに対し、Sは「見逃してやる」と返答したという。Sにしてみれば、Tが鉄格子切断の道具をそろえるものとばかり思って返答したのだが、12月5日、最初の決行予定日に「持ってきたね」と、鉄格子切断の道具の交付を要求された。一旦は断ったものの、土下座をされて懇願され、Tが「証拠は残さない」と言ったことに、逃げれば自分が援助したことは分からないだろうと思い、以後積極的な援助をするようになった。
 SはTに言われるまま、ヤスリを購入して渡したが、それではうまく切れなかったので、次に金切鋸の刃を購入して渡した。しかし、これも駄目で、結局、12月21日午前10時ころ、柄の付いた金切鋸、時計、現金を渡したのである。TはSの勤務日であるその夜のうちに鉄格子を切断し、Sが非番で不在になる翌日中に逃走を決行すると言ったという。

 午後9時半頃、巡回中の他の刑務官に、鉄格子切断部分を隠すためにタオルを掛けていたのを不審に思われ発見されたのだが、Tが黙秘を続けたので、Sが逮捕されたのは97年3月5日であった。
 判決では犯行の動機を「日頃の上司への不満を解消させ、上司を左遷させる狙い」と認定し、「話し合い等他に不満除去の方法は考えられるにもかかわらず、これを行うことなく、職責を放棄した、無思慮かつ短絡的な行為で動機に酌量の余地はない」とS個人の資質的な問題から生じた犯罪であると言い放った。
 果たしてそうだろうか。監獄にとっては、これ以上不名誉な酷い事件はないだろう。絶対に起こらないはずの事件が起こったのだから、その背景にあるものの重大性は想像を絶するものがあったはずである。

 しかも2月21日には、M所長が自殺している。所長室で胸等を刺し、運ばれた病院の病室から飛び降りた痛ましい死であった。勤務場所での自殺企図が何を意味するか、専門家は、「職場での自殺は上司への激しい抗議であったのかもしれない。厳しい階級社会で上官には物申せない、といった背景があったのではないか」という。
 人事異動期に事態が解明されない上級庁のイライラが所長の慎重な態度に対する叱責となる等、大変な重圧としてのしかかっていたのではないだろうか。96年5月支所から本所に昇格した拘置所には、問題が山積されていたはずである。一般に支所人事は問題が多い。元の本所である福岡刑務所で問題を起こし、左遷された刑務官もいた。
 M所長は上司と部下の関係等にも問題があったことから、より慎重な捜査を心掛けていたのだろう。
 所長の自殺は、「逃走未遂事件の責任を感じていた。遺書はなかった」という、総務部長の無責任な記者会見で片付けられた。Mさんの無念は闇から闇に葬られてしまったのである。

 裁判では拘置所の刑務官に対する勤務条件の保障、人事管理などの実態には一切触れなかった。証人尋問は被告人の妻だけという、スピード審理で判決が出されたのである。
 Sが言う上司とは、統括矯正処遇官である。部課長の下のポストなのだが、階級が二つも違えば、正しい意見も一蹴される世界である。裁判所は七つの階級がある刑務官の世界に不満除去の方法、例えば部課長、上級官庁に訴えた場合に公正な対応がされることがあると思っているのだろうか。

大流行の「前代未聞」

 わずか1年の間に、当局が前代未聞の不詳事件として、マスコミを前に頭を下げた監獄事件が3件もある。
 昨年2月12日、東京拘置所で起こった、イラン人被告7人の破獄逃走事件と熊本刑務所刑務官の暴力団関係者との癒着事件、そして本件である。
 監獄を取り巻く状況は、それほど困難なのだろうか。
 ある上級幹部は言う。

「とんでもない。絶対的安定期が続いているんです。収容定員6万5千のところ、一日平均の収容人員は4万5千人余り、予算は潤沢で建物も良くなった。
 しかし、幹部と一般刑務官との間の信頼関係は崩れている。いい幹部が少なくなったことと、矯正教育といった本来の夢のあるポリシーがないので、目標が見えない。幹部は出世欲のための保身に走り、一般の刑務官は陰で不平不満を言うだけになっている。士気が落ちて規律が乱れかけている刑務所もありますよ。」
 福岡拘置所事件は、一落ちこぼれ刑務官の個人犯罪として片付けられた。
 本来ならば、法務大臣が引責辞任し、高官までが懲戒等の責任を取るべき事件である。
 しかし、監督官庁の責任は全く問われず、事故当日の拘置所職員の監督責任だけが問われた。

長野刑務所刑務官過労死事件

 もう一つ、闇から闇に葬られようとした事件があった。
 公務災害認定上申が認められなかった刑務官の死に対して、遺族が行った審査請求を人事院は、死の直前の土日を休んでいるのだから過労は認められない、と棄却したのである。刑務所という密室の過度のストレスが争点にすらならなかったのである。

 1995年(平成7年)3月11日、長野刑務所刑務官Mさんが、長野赤十字病院で死亡した。49才、病名は解離性大動脈瘤だった。2月24日、勤務中に倒れ、14時間半の手術の後、意識が戻らないまま死亡した。いたって健康で病歴はなかった。定期健康診断でも異常はなく、父母、祖父母にも循環器系統の疾患者はいなかった。
 Mさんは分類担当の看守部長だった。長い間、工場担当も経験した実直な人だった。94年暮れから、新収容者の急増と上司である統括矯正処遇官Kの無思慮かつ感情的な命令・叱責により体調を崩していたところ、発症直前の研修参加により後送りされた業務処理のため徹夜を繰り返し倒れたのである。
 長野刑務所の分類は6名、Kの他、係長と4人の刑務官で構成されていたが、当時は係長が病気のため欠勤していた。
 Mさんは2月13日から17日まで川越少年刑務所で行われた東京矯正管区管内の分類事務担当者研修への参加を命じられた。
 多忙な時期の一週間の不在で業務がそのまま蓄積された。他の3人の分類担当の刑務官は皆自分の仕事で精一杯で、Mさんの受け持つ作業指定や累進審査の書類作成まで手が回らないのだ。Kは業務が解らないので部下の刑務官が四苦八苦していても、手伝おうとも応援を求めようともしなかった。それどころか、事務処理の遅滞や誤字脱字等のミスを頭ごなしに叱り付けていた。事務室からは笑い声も会話もなくなっていた。4人の刑務官は毎夜遅くまで残業を繰り返していた。
 超過勤務手当は実働の半分も支給されていない。残業記録は支給された超過勤務手当に見合うように改ざんされるので、実績はどこにも残っていなかった。
 主治医の心臓血管外科部長の診断書には、「過度のストレスが突然死を増加させるという報告は見受けられる。突然死には大動脈疾患も含まれていることを考えると、本件において業務上のストレスが解離性大動脈瘤発症の誘因になった可能性は否定できない」と書かれている。
 Mさんの死は、過労死だと誰もが信じて疑わなかった。刑務所も管区も公務災害の認定上申をしているのだ。しかし、不思議なことに刑務所も管区も公務災害と認定してもらうための調査、資料の提出を怠っていたのである。それどころか過度の勤務命令はしていない、という内容のいわば認めさせないための資料を提出している。
 Mさんの遺族と代理人が、研修期間中同室だった他施設の刑務官に研修中のMさんの様子について陳述書を書いてもらったところ、後日、その刑務官は上司から「秘密漏洩の公務員法違反の疑いがある」と脅しをかけられている。幹部の知的レベルがこんなところにあるのか、圧力を掛けるために非常識な言いがかりを付けたのか、全く酷い話しである。

まとめ

 刑務官も二代目、三代目の時代に入った。戦後の監獄は刑務官だけが監獄のトップになる。しかも学歴無用の成り上がり社会でもある。おまけに超秘密主義という特殊な世界である。法務省トップの検察も監獄の実情は知らない。
今後は民主主義を守るために、幹部刑務官の不正を糺す新たな闘いへの道が選択されるだろう。

(完)