活動は映像に焦がれ、映像は活動に焦がれる      2003.02


体験と表現

市民まち育て活動は、体験と表現がなめらかに連続するやり方が生成する時、かかわる人はもちろん、まわりの人々の心は生き生きと動き開かれていく。市民・行政・専門家・企業間の協働のまち育てがひろがるためには、各主体の意識の呼び覚ましが内側からはじまる仕掛け方が大切である。

実際のまちや課題をきめて「タンケン・ハッケン・ホットケン」の体験世界をわかちあうと、感動が高まり「ホットケンよね」の合言葉のもとに、感動という内から発する印象(impression)を外に押し出す(expression)ところの表現へ進みたくなる。体験が生みだす人々の内側の動きを外側へ現わすという表現的生命の働きに接続する時、「内なる自己を外へ押し出す」ことによる精神の運動がおこりはじめる。

物質文明の便利さをこえて「人は何のために生きるのか」の精神の高揚をもたらす創造的市民まち育てが、時代の底から期待されている。体験表現型活動はそのことを実現する重要な方法である。

 

なごや・まちコミ映像祭

こうした視点にたつと、最近おこなわれた第2回「なごや・まちコミ映像祭」は秀逸な試みである。各地の市民まちづくり活動をビデオに撮り7分に編集された作品は、今年は全国から91本も集まった。

1次審査の結果、12点がノミネートされ、それらは公開審査で評価がなされた。参集した人々は午前中全作品に見入るとともに、午後、6人の審査員によって全作品1人1分以内のコメントをかわしながら、最終審査の議論に及んだ。全作品について実に多面的に丁寧に批評されたので、グランプリ、準グランプリを選ぶ過程は比較的スムーズであった。選ばれた作品は

最優秀賞:親子獅子をもう一度(長崎市)
優秀賞 :坂下まちおこしを追う(春日井市)
 同  :自立の店ひまわり(熊本市)
 同  :ぼくは撮るー伊勢河崎を撮る(伊勢市)

であった。入選作品12点のうちに地元名古屋の作品は、昨年の0から今年は3点が選ばれ、この催しが全国展開の中で、地元が地力をふくらませているとともに、名古屋市から世界に向けてのユニークな映像表現型市民まちづくり活動の映像祭を発信していることの意義が確かめられた。

 

批判の声

ぼくは審査員のひとりとして、映像をみている間中、作品の中味の濃さと映像の見事さに感がきわまり、度々ハンカチをポケットから出さざるをえなかった。まち育て・まちづくりの世界のやわらかさ・多様性と映像表現による内的直観の世界のひろがりの絶妙な結びつきを示しえた作品群と、それらへの心のこもった多彩なコメントに対して、会場全体には共感の高まりの雰囲気が流れた。

しかし、表彰式のあとのある参加者からの感想の中には本イベントの基本的意義を問いかけるものがあった。第一に、「まちコミ映像祭」はまちづくり活動を促すところに力点があるのか、表現性を競いあうのか、といったそもそものねらいへの問い掛けがあった。

「活動」か「表現」かの何れかの二項対立的にとらえるのではなく、この取組は活動と表現のセット性と相互浸透関係を豊かにすること、市民主体のまち育て活動と映像の両面の質の同時的向上をねらっているところに基本的ねらいがある。その意義と意味は冒頭に記した通りである。

鋭い批判の第2の声は「市民が自主的活動を高めることに重要性があるが、ここに選ばれたものはいつまでも“ほのぼの”“人情味”の段階にとどまっているのは残念・・」というものであった。すぐさまそれにぼくは応答したかったが、予定の時間が尽きていてままならず--ここにその思いを記し、今後に備えたいと思う。

 

祭りという共同社会的快楽の再創造

例えば、グランプリの作品を通して次のことがいいうると思う。

長崎の海に面した小さな町に伝わる秋祭は少子高齢化のために継承することが難しくなり、7年前から途絶えていた。しかし、その復活に4ケ月間燃えに燃えた住民たちのドキュメントの活写は、創造的まちづくりとは何か、表現世界の創発現象とは何か、その融合がかかわる人ひとりひとりと地域の内発的生き方の高揚と未来への開かれたまち育てのプロセスの方向感をみる人々にクッキリと心に強く焼きつけてくれた。具体的にはそのことは、次の7点に整理することができる。

@「親子獅子」の祭りの文化の継承・再創造のプロセスがサスティナブル・コミュニティづくり(地域のタカラ発見と磨きをかける持続的まち育て)の方法であることを示しえている。

A子どもたちが地区内に限らず広く公募され、開かれた地域づくり、開かれたまち育ての活動の流れを生み出したことは、活動と文化の他地域への波及と自地域に新しい力を結集することにつながっていく。

B大人世代から「獅子」の舞いや笛や太鼓の演奏などのやり方を習うこどもたちは、文章化されたルールや記号化された楽譜ではなく、生の身体の動かし方を職人的に伝授された。このことは、真の学びは制度的学校の限界をこえて、ワザとココロをナマにやりとりをする「カラダで覚える」やり方の豊かさにあることを示唆している。次代を担う子どもの心身の成長は、まち育ての基本的課題である。

Cひたすら繰り返す練習によって「上手・下手ではない」センスに触れ、「スゴカーという感動」がひとりひとりの内面から発することにより、感動という現実世界と心的世界の関係を結ぶための窓が開かれ、子どもに生涯心に焼き付く記憶を生みだしているという体験・表現型まち育て活動の意義が明らかにされている。

D子どもの踊りのしなやかさと美しさ、その群舞のダイナミズム、楽器演奏が発する生命のリズミカルな鼓動、背後からじっと見つめている夜空に浮かぶ下弦の月・・・の映像のモンタージュは、祭りという共同社会的快楽が全体として失われている現代にあって、その再創造への気迫と、それが意味する文化的記憶を次世代につなぐという地域の生命の内側からの育みを生き生きと伝えていること。

Eこれらのことが説明的ではなく、映像と言葉の表現によって、人々の心の中に意味が浸透していく成果をみせていること。人はまちによって育まれ、まちは人によって育まれ、人とまちの相互触発、相互発達によって人もまちもその内的生命を増殖させていくことが、表現全体をとおして伝えられている。

Fこの作品の撮り手は、この地域に1時間以上もかけて通いながら撮りつづけた学生であり、「風の人」の冷静で温かい眼差しが「土の人」の活動をつつみこむとともに、ヒト・モノ・コト・トキの連鎖する物語を表現しえた。ここには「風の人」と「土の人」の創造的表現による新しい「風土」デザインへの接近がうかがえる。

 

ミクロとマクロの創造的媒介

以上のような諸側面を束ねてみると「なごや・まちコミ映像祭」で評価された作品は、もちろん、“ほのぼの”“人情味”も表されているが、そこに通底する多重のメッセージは、人の生き方とまちの生き方をやわらかく接合し、生き方のデザインとしての活動と表現の新しい世界に進みいくことの意味を伝えている、加えて、体験と表現の相互浸透、活動と映像がお互いにふくみあう関係、即ち、まちづくり活動は映像表現に焦がれ、映像表現はまちづくりに焦がれる、活動と映像の相思相愛関係の生成に「まちコミ映像祭」の大切な意義があるといえよう。「好きや」の感情と行動は世界を確実にかえる。

「好きや」が内からほとばしる活動と映像のセッティングは、「ほのぼの」や「人情味」も含む人とまちの生き方につながるミクロな世界創造かもしれない。しかし、その多様なミクロがこれからの時代で待たれている市民社会構築というマクロを生みだすのである。小さなまちづくり活動のミクロが市民社会構築というマクロを生み出すためには、ミクロとマクロを創造的に媒介する「まちコミ映像祭」の持続が期待される。来年も楽しみである。

延藤安弘




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