この頃、「まちの縁側」構想に胸ふくらませつつある。
「まちの縁側」とは、かつての「縁側」のもっていた意味の多重性をメタファー(暗喩)にして、現代都市空間のあちこちに、古い建物の再生にも、新しい空間づくりの何れにおいても、次のような多義的場所を育むことをいう。
「まちの縁側」の要件とは、次のようである。
内と外がとける安らぎのある縁側のように、高齢者と子ども、生活者と専門家、市民と行政の間柄がゆるやかに結ばれる色んな人々の「出会いの場所」。
休息にも応接にも仕事にも使われた縁側のように、生活も福祉も教育も景観も文化も他領域が横断する色々な機能が「混ざり合う場所」。
ふらりとやってくる人々を包み込む縁側のように、来訪する地域住民も市民もよその人々もあたたかく歓待する「もてなしの場所」。
スイカを食べたり、花火をしたりしながら生きる力を育む縁側のように、ユーザー達の多様な経験の織り成す恵みがはらむ知・情・意の束ねとしての「思いやりの場所」。
お互いが自ずから話しあえる縁側のように、違う価値観や経験や持ち味をもった人々同士が思いやりと意思を交流しあう、開かれた「対話の場所」。
手前の点景を生かして遠くの月を眺める縁側のように、当面のコト(近景)と未来のコト(遠景)をつなぐ、開かれたものの見方を育む「洞察の場所」。
板敷の表面を心を込めて磨きこむ縁側のように、ユーザーが自ら使いこなす空間を責任をもってお守りし、育み続ける「丹精の場所」。
ニッチ(Niche、気持ちの良いくぼみ、最適なところ)としての縁側のように、普通の日も土・日も多様な市民がくつろげる「Do
Niche の場所」。
ふと「我にかえる」独特の居心地の良さを生む縁側のように、みんな(公共・共用)の空間を「我がもの」にしつつ、閉じずに開き続ける「領有の場所」。
<キモチ><カタチ><イノチ>ぐるぐる巡る縁側のように、わくわくする<キモチ>の交流の中から発する何か創造的な<カタチ>に出会える瞬間の「<イノチ>はずむ場所」。
このような、出会い、混ざり合い、もてなし、思いやり、対話、洞察、丹精、Do Niche、領有、そして<イノチ>はずむ場所を「まちの縁側」という。
その適用・創造の対象は多様である。例えば、ボーンセンターでコーディネートした四街道市南部福祉センターのような大規模公共施設づくりの場合、ハード面で「まちの縁側」のような柔らかい物的空間を生みだすとともに、ソフト面で、従来の行政による強い管理体制をこえて、市民・使い手のキモチとフルマイを高める、開かれた運営プロセスの育みの実現を意味する。また、印西市木下地区の「まち育て塾」で行われた空町家・空蔵を「まちかど博物館」に仕立てていく活動も「まちの縁側」発想の実現である。
「まちの縁側」とは、作る人と使う人、訪れる人ともてなす人、人と人の間に多様な縁が輪を成すところである。
「まちの縁側」とは、かかわる人々の間でヒラメのエンガワのようなおいしさを分かちあえるところである。
千葉のあちこちに「まちの縁側」の発想と経験と場所をひろげていきたいと思う。これは、人と人の間に、市民と行政の間に多様な縁が輪を成す状況づくりを担うNPOとしては、うってつけのテーマであり、方法である。
延藤安弘
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