●紹介者:千田 節子 さん
「何をめざして生きるんや」はひとの感覚が無尽に自在に飛び交う本だ。こんこんと深層に囁きかけてくる怪しい本である。ついうずうずと蠢きたくなる。
今、ひとりひとりの内的状況の多くは、「まち育て」のように「人つながり」へ向かうよりも「人逃れ」へと閉じかけているような気がする。身近に失業の中高年の方々と接することが多いので、特にそう思う。
それぞれの波乱を抱えながらもみんないつか「いい暮らし」をしたいという夢をめざして日々を送ってきた。でも、病気や失業などというアクシデントが起きるとささやかな生活は本当に脆いものだ。けれども私たちが追いかけてきた「いい暮らし」とは逆にこんな状況の時に仄見えてくるのかな、と思う。
醒めてみれば何でこんなモノが必要だったのかいな、と思えるほどモノを抱え込み、いつのまにか歪んだ定規でまっすぐのものを計っていたりしている。
この本にもよく登場する息苦しいほど正しく生きる人々のそうした価値観の壁は厚く、「発想の転換」などというヤワなものはなかなか受け入れられない。
けれども、延藤リズム溢れるこの本はとても無防備ながらしなやかに、どこから読んでも切った張ったの関西弁はとどまる事を知らず、「住まいとか、住まい方に対して、生活者が抱いている危機感は西も東も大都市も田舎もみんな同じなんですよ。何が幸せで、何が居心地のよい状態か、一人ひとりが内に隠し持っているユメや想像力の翼を広げてゆく。どんな部屋で、どんな暮らしをしたいかというところから、どんな地域社会に身を置きたいかを考えていくんです。」と分かりやすく熱く語る。
そうはいってもどんな暮らしがしたいのか、と問われて口ごもりつつ、余りに物欲まるだしの夢の暮らしはさすがに品位を疑われるから、せいぜい家族とたまに旅行でも出来て、健康で・・・などと甚だ遠慮深い答えしか思い浮かばなかったりする。そうかな、多分その通りかもしれないけど、本当は近所の仲間とワイワイ飲んで騒ぐとか、少しは創造的な何かを企んでまちのために役にたつこともしようよなどと、家族とはまた違った単位で関わりあうことの面白さも少しはみんな知っている。ただ、なかなか小難しいメンツがはずせないのだ。
この本で紹介されている数多くの地域のおもしろおかしい試みの根源にはみな我がまちが大好き!と言う共通項がある。そして「近所の仲間」というだけの違いすぎる個性たちが演じるステージではその楽しさにとりつかれた人々が次々にキテレツなアイデアをひねり出している。
先日、実家に帰ったら角の道祖神がいつのまにか消えているのに気づいた。そばの小川もコンクリートで覆われ道路は車が通行するのに程よい道幅に広がっていた。馬がつながれていた広場もとっくの昔に車庫になっている。
家々はどこも新しくなり、サッシで窓は硬く閉じられ人の気配もない。第一子どもの声すら聞こえない。どんな部屋で、どんな暮らしでという夢は昔のすきまだらけの不便な暮らしからは想像も出来ないほどレベルアップして叶えられている。でも、どんな地域社会に身を置きたいかという次のステップは残念ながら外からは見えてこなかった。
村は車が来てから一変した。定期バスがなくなった。田んぼは工場団地に売り渡した。おかげで家は新築したが、昨今のあおりで工場が倒産し、人々は職場を失い、今はどうしているのかよく分からない。
街道筋には潰れたパブ、カラオケスナック、居酒屋、などが驚くほどたくさん残骸をさらし、変わって大型超激安スーパーが進出し、ますます周辺の小さな店は消えていっている。今となってはこの村をどうしたかったのか、知りたい。みな、時代の攻勢で抗えなかった、かもしれない。でも、本当はどうしたかったのかが知りたい。
「詩語」と、いうことばを私は延藤先生の著書を読むときいつも思う。こんなに美しいリズムと的確な感性に裏打ちされた鮮烈な「詩語」で「人の暮らし」をこんこんと囁くがごとくあきらめず止めない人をみた事がない。
「トラブルがたまるとトラベルに出るといった開かれたプロセスを淡々と歩みつづけたい」(まち育てを育む)などと飄逸したこともいう。
これなどはまだ序の口で、あらゆる本の中にまるで「たからさがし」のようにユーモア(諧謔?)が散りばめられていて、これに出逢った時はすごくうれしい。このユーモアに出逢うと大概の壁が乗り越えられるような気がしてくる。不思議で怪しい詩語なのだ。
延藤先生はよく「ものの本質」とおっしゃる。本質は見えていないことが多いけれども、時には無防備に明らかに横たわっていることがある。
「何をめざして生きるんや−人が変わればまちが変わる−」のほかに「『まち育て』を育む−対話と協働のデザイン−」にその発見のキーワードが隠されている。是非読んで欲しい。
●紹介者:橘 宜孝 さん
10 月 20 日、朝刊で御誕生日を迎えられた皇后様のお言葉を見つけました。ひとつは、テロ事件やえひめ丸事件に関する「一人一人の安全が社会や国全体の安定・安全、そして世界の国々の安全や安定と決して無関係ではない」というもの、そしてもうひとつはハンセン病元患者に関する「(療養所で)実名を捨てて暮してきた人々が、人間回復の証として次々と本名を名乗った姿を忘れることができません。」というお言葉でした。なんと皇后様は人が人として人らしく生き、成長していく上で不可欠と思われる「環境の充実・安定」と「個の輝き」について述べられていたのです。皇后様は私にとって常日頃より尊敬の対象でしたが、その日のお言葉にはあらためて感激しました。
皇后様のお言葉同様、今年、“心地よい不意打ち”を与えてくれた言葉に、延藤先生による「まち育て」があります。「まちづくり」が環境偏重であったのに対し、「まち育て」という新語は「環境と個が共に生きる道」があり得ることを物の見
事に表現・提起しているのではないでしょうか。『まち育てを育む』には、そうした“共に生きる道”を目指し模索した数々の取組みが紹介されています。私達も、これら先達につづくべく「まち育て」の現場に日々赴くわけですが、そのためには『まち育て・・』で述べられていることに加えて忘れてはいけないことがあるように思われます。本当の意味で個を輝かせるためには己の出自・天命(我は何処より来たりて何処へ向かうか)を知らなければならないのではないかということを、とりわけ最近は強く感じるのです。「過去」の未消化ゆえの悲劇が世界中で多発しているからでしょうか。
そんなことを考えていたとき、書棚の1冊にふと目がいってしまいました。『何をめざして生きるんや』。ほんまに延藤先生にはかないまへんな。
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