□ 事業報告
ボーンセンター設立10周年記念シンポジウム 「千葉の貝塚群を世界遺産に! 〜千葉の貝塚群とまちづくりを考える〜 」報告


開催の趣旨
 平成20年(2008年)9月28日(日)、ボーンセンター設立10周年記念シンポジウム 「千葉の貝塚群を世界遺産に! 〜千葉の貝塚群とまちづくりを考える〜 」を開催しました。丁度この2日前、文化庁は世界文化遺産への推薦に向けた暫定リストに5件を追加し、その中に三内丸山遺跡などの「北海道・北東北の縄文遺跡群」を組み込みました。佐久間千葉県中央博物館長によると、縄文時代の遺跡を世界遺産に登録するためには、東日本の各地の縄文遺跡を追加する必要があり、このシンポジウムはまさに千葉の貝塚群を世界遺産にするキックオフイベントとして位置付けられると思います。

講演1「千葉の貝塚群の歴史的意味と価値」
村田 六郎太 氏 (千葉市立加曽利貝塚博物館 副館長)

○貝塚遺跡の分布
堀越正行氏(市川博物館館長)が集計した貝塚分布によると、日本全国には2344の貝塚が確認されており、うち1524が関東地方に存在する。貝塚は全国に普遍的に散在しているわけではなく、有明海、伊勢湾、東京湾、仙台湾に集中している。
千葉県には694の貝塚が密集し、関東地方に存在する貝塚の約半分を占める。また貝塚の数ではなく、貝殻の量で比較すると全国の半分以上が千葉県にあるとも推測されている。
一体なぜこれ程まで多くの貝が千葉県に存在するのか。その一つに、東京湾の潮の流れが考えられる。「東京湾の大潮期における上げ潮と下げ潮の最強時の平均流況」によると、東京湾は時計回りに潮が流れている。関東地方半域以上から集められた多量の植物プランクトンを含む雨水が、この時計周りの潮の流れによって千葉県に運ばれる。栄養豊富な海水、そして遠浅の海岸線という恵まれた物理的条件が整い、昔から貝がたくさん獲れたのではないか。千葉県に存在する694の貝塚のうち、半数以上の345箇所が東京湾京葉地区に集中している。

○貝塚環状貝塚の形成
「千葉県の貝塚」を階層の形状、範囲、所属時期に分類して見てみる。縄文時代初期、貝塚は貝捨て場だった。ところが点状の環状貝塚が馬蹄形に発展し、貝塚は単なる貝捨て場ではなく、より重要な意味をもつようになる。世界中に存在する貝塚とは異なり、意図して平面形に貝を積み上げる新しいスタイルを確立したと言える。
貝の花貝塚の全面的な発掘調査では多くの竪穴住居跡が見つかった。住居跡からは多くの貝が発見されたことから、人々は住居を掘り込んだ窪地後に貝を積み、村の移動に伴い形成された貝塚が 結果的に馬蹄形を形成しているのではないか、と推測している。村の形が環状だったから、貝塚が環状に分布しているというわけではないようだ。
ところが、千葉市貝塚町貝塚には環状貝塚が並んで存在している。上に述べたように、集落に伴い貝塚が存在しているのだとすると、この地域には数多くの集落が存在したのだろうか。この地域の貝塚は消滅したものも多く、貝塚形成の根拠を解明することは困難である。加曽利北貝塚におけるハマグリの成長線分析によると、2mにおよぶ貝層は50〜70年もの長い時間をかけて積み上げられたという。一枚の階層の厚さは2、3センチしかない。これは私の予測に過ぎないが、もともと環状の貝塚プランがあり、薄く満遍なく積み上げられていったのではないか。また、このような積み上げ方は、千葉の貝塚町貝塚、加曽利北貝塚以外には見られない。加曽利南貝塚では貝はブロック状に積み上げられており、一つの階層の厚さは40センチある。加曽利貝塚と言えど、北と南では全く意味が違うのだ。キッチンミル的な貝塚と加曾利貝塚の意味は全く異なる。墓と貝塚の共存から新たな貝塚文化が窺い知れる。
○遺跡保存、世界遺産

現在、千葉市では5箇所の貝塚が国の遺跡に指定されている。様々な事情によってそれぞれも貝塚が残されてきており、この貝塚町周辺の貝塚を見るだけで遺跡保存の縮図が読み取れることは興味深い。
2001年に行われたケアンズ会議以降ユネスコ世界遺産登録のハードルは高くなった。今後は、行政主導型ではなく、地域の人々が一体となった動きが大前提である。また一時の利益追求型では駄目で、地域の人がしっかり下支えするような、きちんとした整備行わないことには世界遺産登録に向けた第一歩目も踏み出すことができない。なぜ加曽利貝塚に集うのか。今、求心力のあるものが地域からなくなりつつある。遺跡博物館へリクレーションに来た人がレクチャーを受けて帰るようになれば良い。世界遺産とすることを目標とするのではなく、しっかりしたものを作り上げた結果が世界遺産へ繋がれば良いのではないか。



 

 

□ 講演2「千葉の貝塚群から読み解く縄文人の生活」
清藤 一順 氏 (千葉県立中央博物館 歴史学研究科上席研究員)

○千葉市の貝塚史跡
全国の貝塚約2400箇所のうち、千葉県には約700が存在する。千葉県は貝塚を語る上で欠かせない。国指定の貝塚史跡は全国で65箇所あり、うち千葉県では12箇所が指定されている。千葉市については5箇所で、他の市を凌いでいる。千葉県の貝塚分布表をみると、断トツ千葉市が多い。中でも大型馬蹄形の数は群を抜いている。
国指定遺跡については、周辺他県は2,3箇所で千葉市にも及ばない数であることから、どれだけ価値のある大型貝塚が千葉市に密集しているかが分かる。

○貝塚の発掘調査からわかること
貝塚の調査から縄文時代の人々が食べていたもの、生きていた環境、埋葬の方法などが明らかになる。また、当時の人の身長や顔つき、栄養状況や寿命を割り出すこともできる。
これまでの調査により、ひとつの集落が一定程度の縄張り意識を持ち、お互いの生活基盤を奪わないように一定の環境を保ち、場所を使い分けていたことが分かった。互いのテリトリーを認め合うことで自然との共存、資源の管理を行っていたのだ。このような規則的なむら同士の約束 事をベースとし、縄文人は生産活動を発展させていったのだろう。定住することで生活の安定化を図り、集落同士の良好な関係を築きあげた。さらには、こうした定住や決まりごとによる安定的な生活が、埋葬儀式や宗教行事の確立へ繋がったのであろう。
貝塚をうまく伝え、活用していくことが今日の我々の使命であると考える。


 

□ 講演3「世界遺産のあるまちの暮らし」
須磨 章 氏 ((株)NHKエンタープライズ 世界遺産事務局長)

約4年半前から始まった「世界遺産100」は、今年度で500本目の放送を迎える。ユネスコが登録を始めて30年経った今、世界遺産の数は878件。世界遺産には、文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つのジャンルがあり、すべてに共通した登録基準として、「人類にとって顕著で普遍的な価値」という定義がある。まず評価されたのは西洋の石の文化。続いて、しっかりした設計図に基づいて建てられた木造建造物が評価された。西洋にも木の文化を大切にしている人々がいる。そして、木の文化に次いで泥の文化。世界の3分の1は泥の文化で生きている。特に途上国のほとんどがこれに当たる。近年は西洋文化だけでなく途上国の文化が評価されてきている。
日本ではすでに14の世界遺産が認定されており、新しい登録が難しくなってきているのが現状である。
以下、地域の想いが行動に表れている事例をいくつか紹介する。どの例からも、人々の熱い思いが世界遺産を生み、維持しているのだと感じる。
【ポーランド マオポロツカ地方】
林の中にたたずむ素朴で温かみのある木作りの教会が村の宝物として大切に守られている。
この古くて小さな教会は、1997年に起きた集中豪雨で川が氾濫した際、浸水して濁流に流される寸前だった。そこで村人たちが教会を守ろうと立ち上がり、必死に建物をロープで大木に結びつけた。かけがえのない宝物だという村人の思いが木の教会を守り続けてきたのだ。現在レンガ造りの新しい教会も作られているが、大事な儀式はみなこの木造教会で行うのだという。石にはない木に対する共通の命あるものという思いがある。
【ドイツ クヴェトリンブルク】
中世の町並みがほぼ完全な形で残っている。これまで古い材木を生かしながら建物を守ってきた。現在も修復を必要とする家が多く、2000年 に若者達が修復技術を学ぶためのドイツ文化財財団「木組み修復センター」を発足した。ここでは熟練した職人たちが1年かけてじっくり技術を教え込む。昔と同じ材を使い、昔ながらのやり方で修復し、伝統の技を若者に継承する。家1件につき4年という長い時間をかけて実践で教え込み、木組みの伝統技術を未来へ継承していこうとするものだ。ドイツ人の歴史を評価し保存する執念、時間をかけてでも人を育て伝統を継承とする思いを感じる。
【西アフリカマリ共和国 ジェンネ旧市街】
700年の歴史を持つ土のまち。精神的にも村の人々の中心であるモスクがこの町で最も高くそびえる。
泥で塗り固められた外壁を、乾季の間に住民総出で塗り替える。人々の心をひとつにする1年に一度のビッグイベントだ。
泥という自然の恵みを生かした世界でも珍しい暮らしがこのまちに生きている。
【ワルシャワ歴史地区】
一度はナチスドイツに徹底的に破壊されたまちが、戦後市民によって昔のものに蘇った。ヒトラーに国民性を破壊されたワルシャワの人々にとって、まちの復元は国民的アイデンティティーの象徴的な復元を意味した。人々は古い記録や絵画を参考に設計図を作成し元通りに復元した。町並みももっとも美しかった頃のワルシャワを再現し、まちの誇りを回復した。
「歴史を奪われた国民は、記憶を奪われた国民であり、存在しないもの同然。」と嘆かれたが、人々は自らの力で国民的アイデンティティーを取り戻した。



 

分科会

A分科会 「縄文時代のスローライフを考える」

A分科会は、講演をいただいた清藤一順氏をアドバイザーに迎え、質問に終始しそうな雰囲気を何とか全員参加型ワークショツプに切替え、気合とスピード感で最終ラウンドまでやっとたどり着きました。その間1時間。次回は加曽利貝塚博物館の竪穴式住居で、夜明けから日没まで、リアルタイムでゆったりスローライフをテーマに行いたいものです。
ワークショツプのテーマは、前半は「あなたが縄文人だったら、今日は何をしますか?」から、後半は「1万年も続いた縄文人の暮らし(社会)に学ぶこと」としました。
前半の条件は、9月末、秋雨の続いた後、やっと雨も上がり快適な日。千葉に住んでいる縄文人という設定にしました。
各自がポストイットに書き込んで、出てくるわ!出てくるわ! 読み上げるたびに、共感と妙に説得力があり、やはり私達は縄文人の血を受け継いだ考え方、行動パターンの記憶が脳に残っているのではと感じたほどでした。
出てきたポストイットが多いのは、その他、食、衣、住の順となりました。この季節『野山で食べ物集め・貝採り・獲物のわなを見に行く』との気持ちが抑えきれないようでした。地道な『水汲み・火種を守る・土器作り・焚き木拾い・布作り・子供と遊ぶ・薬草探し』から、『物々交換・干し貝を売りに行く・情報交換』への意欲も示されました。『久しぶりに風呂に入る・一日歯痛に悩む・ゆったりと音楽をかなでて歌を歌う・いい女を捜しにいく』なども。
後半の「1万年も続いた縄文人の暮らし(社会)に学ぶこと」では、『自然との共生・満ち足るを知る・自立と助け合い・頭を使う・生物の多様性を大切にしてヒトの生存の選択肢を増やす』などがキーワードとなっていました。「スローライフとは生きる原点を求め、体と心が幸せに生きる暮らし」との今様な解釈も生まれました。また、続きをやりましょう。
(運営委員・鈴木 優子)

B分科会 「縄文貝塚を活かしたまちづくり」
○加曽利貝塚博物館への思いと期待
最初に、10数名の分科会参加者に加曽利貝塚博物館、あるいは博物館全般を普段どのように感じているか、また博物館など文化施設に何を期待するかを聴きました。その結果、博物館は町の誇り、もっと情報発信すべき、社会学習の拠点に、観光資源として活用などの意見が出ました
○改善策やアイデア
今後、博物館がもっと身近に、使いやすくなるためのアイデアとして、次のような意見が出ました。
@住民がもっと足を運び、友人・知人を連れて行く。
A新聞、テレビ、地域FMや、広報、掲示板などさまざまなメディアを活用して、きめ細かい情報発信に努める。
B体験をしながら縄文文化を理解するプログ ラムなど、展示物を見学して終わるような従来の博物館からの脱却をしてほしい。
Cボランティアガイドなど市民が参加する仕組みを採り入れ、博物館の魅力づくりを市民の発想で豊かにする。
Dレジャー施設くらいのとらえ方から、博物館の魅力づくりを考える。
E非日常性の楽しさを持ち味にしたプログラムを作る。
○博物館から始まるまちづくり
博物館の活用と魅力づくりには大きな可能性があることが感じられました。もっと博物館が日々の暮らしに近づき、住民も魅力づくりや活用策に関わることで、博物館から始める草の根のまちづくりが千葉県全体に広がるとすばらしいと話しました。
(事務局長・宮田 裕介)

◆ C分科会 「千葉の貝塚群を世界遺産にしよう」
C分科会は、講演3「世界遺産の町から−郷土の宝を守る」についてお話しいただいた須磨章氏(NHKエンタープライズ世界遺産事務局長)をアドバイザーとして、講演をおこなった講堂にて行いました。参加者は22名で比較的大人数だったので、ポストイットに「千葉の貝塚群を世界遺産にするにはどのような取り組みが必要か」「須磨先生への質問」について書いていただき、これに基づいて意見交換を行いました。以下その概要です。
○広域化の視点が必要
須磨;熊野の参詣道が指定されたとき、3県(和歌山、奈良、三重)にまたがり、複合的に祈りの道なので、行政単位に県をまたいで同じパワーとしてプロジェクトを組んで訴えていくことが貝塚にも必要なのではないか。もちろん千葉が一番多いことはわかりますが、他の自治体も巻き込んで欲しい。富岡の場合も、製糸場だけではダメで養蚕農家も全部含めて指定した。また、絹を持ち出した横浜街道も含まれるのですが、これは普通の自動車道路なのでちょっとしんどいんじゃないのと言った覚えがあります。いずれにしても広域化というのがひとつのキーワードです。
○縄文の森構想はあるがバッファゾーンが
残されていない
貝塚については、60年代に貝塚の保存運動が最初で以来ずっと取り組んで状況ができあがったのが1970年代。その後、小倉町から「広域保存に関する要望書」というのが出され、その後、前の松井市長によって「縄文の森と水辺構想」というのが出されました。バッファゾーン(緩衝地帯)も重要なのですが、千葉県の貝塚ではほとんどそれが残されているところはないという状況だと思います。
○ 須磨さんへの質問
Q.須磨さんのお話で、土と木と泥ではない千葉の貝塚の場合、「縄文の貝塚」ということで発信すべきなのか、日本の縄文時代の貝塚ということなのか。どっちでいくべきなのか。
A.須磨;日本に14ある日本からこれから世界遺産を生んでいくのは大変だぞと申し上げましたが、20の暫定リストがある中で、新たに世界遺産に指定することは大変です。世界遺産運動 の良いところは、地域が結束するとか、自分たち型からだと思っていることをよーく調べるとかが大切で、それが結果的に世界遺産にならなくとも良いじゃないかという考え方で始めるべきでないかと思います。地域おこし町おこしのためにこういう標語を掲げるのは良いことではないか。
Q.音にちなむ世界遺産はないか
A.須磨;ない。伝統芸が市民に親しまれているなどの事例は考えられる。

○ 須磨;バッファゾーンの事例として
・ドレスデンの旧市街から何キロも離れているドナウ川に住民投票を経て造ろうとしていた橋の建設に、ユネスコから待ったがかかった。
・市が許可したショッピングセンターがケルン大聖堂の景観を壊すということでやはりクレームがついた。
・さらにはアフリカのある国は自然遺産の指定を返上した。

○ 《ワークショップの主な意見》
・地域の人達の愛着
貝塚のすばらしさをよーく学ぶ/地域の歴史への愛着を育てる/地域の人々にわかりやすく/市民に貝塚群の価値を広める
・世界遺産についての質問・意見
世界遺産において景観の重みは?/全国、特に北海道・北東北の縄文遺跡群の運動と連携を!
・その他
世界遺産に“なるか”ではなく“するか”/どうビジュアル化し市民に理解してもらうか(映画・小説づくり)/行政との関係づくり(積極的姿勢をとらせる)/歴史的価値を観光資源として活用する/貝塚周辺の自然環境も守って
(運営委員・成岡 茂)


まとめ (ボーンセンター代表・福川裕一)
日本は、1994年文化的景観という定義にすがっている。文化的景観に頼るには、大事なことが2点ある。まず、@イマジネーション。どうやってストーリーを作るか。そして、A広域内の歴史的景観のみならず現在の環境景観が本当に美しいこと。世界遺産を目指すということは自分たちの住んでいる環境を美しくしなければならない。遺跡、自然を含めて、素晴らしい環境を保持し美しい景観を作っていけるかが問われる。遺跡の中だけを見ようするのではなく、坂月川周辺のビオトープや周辺住宅地が美しいということになれば、魅力があふれるだろう。

※講演およびまとめのテープ起こしは、千葉大学学生の野口美穂さんにご協力いただきました。編集は、ボーンセンター・運営委員の成岡茂が担当しました。

 

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