1.富津市金谷地区
金谷地区を知らない人も、「東京湾フェリー」や「鋸山」は知っていると思う。最近は観温泉旅館があり、地域限定の鮮魚「黄金アジ」は、食通を唸らせる一品である。どちらかといえば、観光地のイメージが強い。
昔は鋸山の稜線を境界に、富津市金谷地区は上総の国、鋸南町は安房の国に属していた。鋸山の頂上は、金谷の街からロープウェイで4〜5分。眺望が素晴らしく、運がよければ夕方にダイヤモンド富士を拝むことができる。日本人は夕日が好きだ。金谷地区は小林一茶、夏目漱石、正岡子規など、文人簿客もお気に入りの場所だったようだ。
鋸山を鋸南町の方向に下ると約1300年前の西暦725年(歴史では奈良時代)に光明皇后の意向で行基が開山した「日本寺」がある。日本寺という名前もびっくりだが、古代の大和朝廷にとって、房総半島はよほど重要な場所だったのだろう。境内を散策すると1500羅漢と言われる沢山の石仏に出会える。
金谷地区側の一角は断崖絶壁だ。この鋸山は、全体が砂岩でできている。金谷地区は、良質な房州石の採石、つまり石材業で江戸、明治、大正、昭和を通して大いに栄えた。加工しやすい房州石は、主に建材として、東京、神奈川を中心に関東のまちづくりに貢献した。最盛期の明治から大正にかけての時代は、住民の8割は石材業が生業だったらしい。まさに「石のまち」だった。しかし、石の切り出しは昭和60年で終了し、断崖絶壁が残った。金谷地区の随所に見られる房州石の風雅な石塀や石垣が往時を偲ばせる。その後は、人口流出や少子高齢化が急速に進み、金谷地区の人口は1600人を割っている。
2.金谷地区のまちづくり−「石と芸術のまち」
まちづくりのリーダーである鈴木裕士氏は、金谷地区最後の石材業者であった鈴木家の16代目の当主で、現在は富津観光開発株式会社を経営している。鈴木家は金谷地区の名主の家柄で、金谷地区の記録が古文書や古美術のかたちで残っているほかに、鈴木さんの住居も国の登録文化財になっている。現在、鈴木さんはボーンセンターのサポーター会員でもある。
鈴木さんが子供の頃の金谷地区はとても活気があって、夏は海水浴客で賑わい、子供の声があちこちから聞こえていたようだ。しかし、石材業が衰退した頃から、徐々にまちに賑わいがなくなり、
子供の姿も見られなくなった。鈴木さんは、そんな状況をしばらく見ていたが、「商売だけでなく、まちに元気を取り戻す活動をしていこう」と決心。大学進学で金谷地区を離れ、卒業後に銀行に5年、旅行会社に2年勤務し、30歳のときに石材業と並行して始めた観光業を引き継ぐために金谷地区に戻った。
2000年に、東京湾フェリーの発着所の隣に、総ガラス張りのレストランと地元素材を使ったベーカリー、鮮魚などの売り場を備えた複合観光施設「ザ・フィッシュ」をオープン。バームクーヘン「のこぎり山」は、地域ブランド品として人気商品になっている。その後も奥さんや弟さんたちの協力のもと、積極的にまちづくりを引っ張っている。
金谷地区固有の魅力を考えたとき、鈴木さんは「石と芸術のまち」がキーワードと言う。
3.金谷地区の地域資源
金谷地区は、入り江に沿って町が開かれており、後背の山と左右の岬で仕切られたまとまりのある地域だ。「石のまち」の歴史を持つ金谷地区には、房州石の構造物、町並みが今も残っている。気候が温暖であり、真っ赤な夕日を見ている、どことなく南の島、あるいはエーゲ海の港町のような趣がある。新鮮な魚も美味しい。風光明媚な独特な土地柄が、多くの芸術家の創作意欲を掻きたてたのかもしれない。
人口流出や少子高齢化に歯止めをかけるには、地域を振興し、働く場所をつくることが必要だ。まず、フェリーの発着所という地域資源を生かして取り組んだのが観光であり、前述の複合観光施設「ザ・フィッシュ」をオープンさせたのに続いて、内房線の「浜金谷駅」の近くに観光案内所をつくった。今、この観光案内所では「GONZO」という名前のピザ屋さんが房州石の石釜で焼いたピザを食べさせてくれる。とにかく美味だ。
これまでに、「石と芸術のまち」をアピールする数々のイベントも仕掛けてきた。学生ボランティアが製作した房州石のオブジェを町中に展示した「石の刻道プロジェクト」、鋸山ロープウェイと連携した婚活イベントから生まれた「恋人の聖地プロジェクト」、アートスポットを徒歩で巡る「金谷アートウォークプロジェクト」など。
圧巻は2年前に完成した鈴木さんが理事長を務める公益財団法人「金谷美術館」であり、この美術館は、鈴木さん夫婦の情熱と金谷地区を愛する人たちの善意でオープンにこぎつけたといえる。鑑定家の中野雅宗氏が生涯かけて収集した谷文晁や渡辺崋山等の日本画や古美術品約1000点を寄贈したほか、建設費は美術館解説の趣旨に賛同した人々の寄付金、敷地内の整備や芝張りは、地元の小学生を含む地域のボランティアの協力で完成に至った。
こうした活動の中で、金谷地区のまちづくりの魅力に共感する人々が増え、最近は週末に金谷地区で活動する人や若い移住者も出てきている。
人口流出や少子高齢化が進展する金谷地区には、未利用施設が数多く存在する。廃墟となったホテル。町に活気があった頃に奥飛騨の白川郷から移築した合掌づくりの古民家。鈴木さんは、こうした未利用施設を活用し、地域を元気にする活動を増やしていくために、地元の人々と移住者が一緒に活動する「NPOかなや」の理事長も兼ねている。その活動拠点の名称は「Kanaya
Base」、廃墟となっていたホテルを活用している。この場所に都心などの金谷地区の外のアーティスト等が集まりはじめ、仕事場をシェアするようになっている。
4.金谷地区の課題
金谷地区は少しずつ元気になっており、急激な人口流出や少子高齢化の流れは鈍化しつつあるが、まちづくりの課題が解決されたわけではない。例えば、ガソリンスタンド。以前は金谷地区に3つのガソリンスタンドがあったが、現在営業しているガソリンスタンドは、鈴木さんが経営しているガソリンスタンドのみで、他は撤退してしまった。鈴木さんは、「金谷地区の住民の生活に欠かせないので、経営が厳しくても撤退できない」と言う。
他の事業が好調だとしても、「金谷美術館」の運営も持ち出しが多いはずで、16代続く鈴木家と金谷地区の結びつきの強さを感じる。
金谷地区は、人口流出と少子高齢化の課題を解決するために、これからの地域、これからのコミュニティのあり方を再構築する時期を迎えている。それは、地域振興と生活支援の二つの課題に向き合うことでもある。それは、金谷地区だけでなく、同じ課題を抱える地域の課題でもある。こうした地域の活成化は、貨幣経済だけでは難しく、昔のコミュニティのような貨幣経済と非貨幣経済の組み合わせが必要になる。コミュニティビジネスは、この二つの要素があるが、金谷地区で有効な持続可能なビジネスモデルは、どんなものなのか。
今の時代は、人、モノ、カネ、情報が簡単に国境を越える。もはや市場をコントロールできない国が多様な地域の経済をコントロールできる時代ではない。経済成長という時間の概念に縛られた自転車のペダルが重くなっているのに、いろんなことを犠牲にしてペダルをこぎ続けることは、金谷地区のような地域では既に難しい。しかし、地域の資源、地域の住民といった地域の多様性が同じような思いや処世術でまとまれば、地域は自立した大きな価値を持つことができる。善い場所になる。そんな大きな価値を手にすることができれば、小さな地域でも世界中の様々な地域との価値あるネットワークが生まれる。時間ではなく、金谷地区の価値は世界の空間の中に広がっていく。地域振興と生活支援の課題は解決される。
金谷地区で海の向こうの夕日を見ていると、ヨーロッパの小さな町から世界中に向かって帆船が出航した大航海時代の情景(映画の場面)が目に浮かぶ。中世といわれる時代は、時間的な発展よりも空間的な発展が勝っていた時代だったのかもしれない。
以上
栗原裕治(副代表)
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