1.生物多様性保全の動き
現在、環境省が中心になって新・生物多様性国家戦略の見直しが行われている。2007年度に中央環境審議会に諮り、答申を得る予定でいる。
1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された生物多様性に関する国際会議(地球サミット)で締結された議定書は、生物多様性条約と呼ばれる。【生物多様性の保全】、【生物多様性の持続的利用】、【遺伝資源としての生物多様性から得られる利益分配】についての合意であり、日本もこの条約を批准した。
世界188カ国が批准し、批准していない国は米国、イラク、ソマリアなどを含むわずか数カ国である。しかし、批准はしたものの、各国は国益という観点から相反する見解を表明していて、多くの生物が絶滅の危機にある。
条約を批准したからには、目的を達成するための戦略が必要である。日本では1995年度に最初の生物多様性国家戦略が策定されたが、当時の環境庁(環境省に昇格したのは2001年)のパワー不足もあり、関連省庁の取り組みを寄せ集めたような内容だった。そこで、環境省は2002年に新・生物多様性国家戦略を策定している。
生物多様性の価値はエコロジカルバリューであり、生物多様性の保全はまさに自然保護と重なる。失ったものは元には戻せない。生物多様性は人間を含めた地球環境の健全性の指標である。
生物は持続的に活用できる貴重な資源であり、それを失うことは人類の損失であるだけでなく、人類そのものの危機につながるといわれている。しかし、国家戦略を策定しても、地球温暖化、酸性雨、水や土壌の汚染など、生物多様性の危機的状況は必ずしも改善されていない。
国の新・生物多様性国家戦略の見直しと同じタイミングで、千葉県は環境基本計画の見直しと「生物多様性ちば県戦略」の策定を行おうとしている。今年の9月から堂本知事の旗振りで、環境生活部の環境政策課と自然保護課が動き始めている。
国の戦略には、地域の視点が大きく抜けているから、地方自治体が「生物多様性戦略」をつくることは重要である。戦略や計画は、現場としっかり向き合っていないと単なる理念で終わってしまう。
もともと日本の政治家は生物多様性条約に対しての関心が薄かった。各国首脳が参加した1992年のリオデジャネイロの地球サミットに日本の首相(当時は宮沢内閣)は出席しなかった。米国はクリントン大統領が参加していたし、先進国首脳が多数参加していた。堂本知事にとっては、参議院議員の時代の出来事であり、当時は環境問題に精力的に取り組み、地球サミットにも参加し、「生物多様性」という著作もある。そうした知事の経歴から、堂本県政には、千葉県のエコロジカルバリュー向上への期待が大きかった。
この原稿を書いている時点で、今回の千葉県の呼びかけに応じて、民間の環境NPOが環境づくりタウンミーティング実行委員会をつくり、19グループが千葉県内各地で環境づくりタウンミーティングが開催し、環境基本計画の見直しや「生物多様性ちば県戦略」の策定のための意見交換が行っている。12月23日には千葉県立中央博物館で各タウンミーティングの報告を含めた「環境づくりタウンミーティング総括大会」が開催される予定で、ボーンセンターのメンバーもこれに深く関わっている。
これらタウンミーティングは、最近話題になっている行政主導の「やらせ」ではない。実行委員会は勝手連的に構成され、各グループがワークショップや自然体験などの思い思いの企画で会場を盛り上げており、県にとっても計画段階からの市民参加の手続きとなっている。並行して県が設置した生物多様性専門委員会も公開で話し合いが行われており、千葉県は今年度中に骨子案を策定する予定でいる。
2.生物多様性とは?
゛生物多様性には、一義的な定義というものがない。1992年の地球サミットでは、「陸上、海洋およびその他の水中生態系を含め、あらゆる起源をもつ生物、およびそれらからなる生態的複合体の多様性。これには生物種内、種間および生態系間における多様性を含む」と定義されたが、これが唯一のものではない。しかし、生物多様性条約にもこの定義が採用されているし、国家戦略もこの定義に基づいて策定されている。
この定義では、生物多様性には3つのレベルがある。
■遺伝子の多様性…一つの種の中での遺伝子の多様性のことで、同じ種の中での個体間の
多様性と個体群間の多様性がある。遺伝学者はDNAレベルでの進化を発生させるさまざまな過程について研究している。
■種の多様性…多くの種が存在しているという、種間の多様性のこと。生物学者は生物個体の動きや変化について研究する。ある場所は、同種の生物によって占められたり、別種のものにとってかわられたりする。生物はその置かれた環境に依存しており、同じ生殖戦略を変わることなく用い続けることはない。
■生態系の多様性…遺伝子や種が究極的に関連している異なった過程の多様性のこと。生態学者にとって、生物多様性とは、種間の持続的な相互作用の多様性のことであり、生物の直接接する環境や生物が生きている生態地域も研究対象になる。生物は生態系全体を構成する一部分であり、個体同士のみならず、空気、水、土壌など彼らをつつむ全てと相互に影響しあっている。
生物種の内側、種間および生態系間において遺伝子が、自然選択の基本単位と仮定すれば、生物多様性は実質的には遺伝的多様性である。しかし、一般にわかりやすいのは、ある程度可視的な種の多様性や生態系の多様性のほうであろう。
生物多様性は、これまで人類の生存や文化の発展に貢献してきたし、人類は、遺伝子や種や生態系のレベルでの自然の多様性の形成において、重要な役割を果たしてきた。人類と他の生物の相互依存関係の例は、いくつでもあげることができる。
生物多様性は、人類にとって食料・医薬品となり、衣料の原料となり、住居として、エネルギー源としての第一の資源なのである。
生物多様性は刻々と変化するものであり、種の進化の一断面である。 地球上にかつて存在した生物種の99%はすでに絶滅している。分類学は、現在までに約1,750,000種を記載したが、現存する実際の種数は
3,600,000〜100,000,000種と推定されている。しかし、ここ数十年間を通して、生物多様性の低下が観察されており、その実数については意見が分かれるものの、生物学者の多くは、史上かつてなかった「大量絶滅」が進行していると考えている。この「大量絶滅」は、近年の人類がもたらしたものであり、また、人間の活動や開発が生態系に急激な変化をもたらしている。
3.三つの危機
2002年5月、 環境省自然保護局は『新・生物多様性国家戦略 ―― いのちは創れない』という小冊子を発行した。その中で、生物多様性保全の現状として以下の三つの危機があることを指摘した。
■第一の危機…人間の活動や開発が、種の減少・絶滅,生態系の破壊・分断を引き起こし
ていること。森林の伐採は生態系の破壊であり、海面や湖沼の埋め立ては、別の見方をすれば、生物の墓場をつくっているとも言える。都市化、コンクリートの道路や護岸は生態系を分断してしまう。産業や生活から排出されるゴミや汚水が生態系にもたらしている悪影響は計り知れない。農薬の過剰散布は、小動物を殺すだけでなく、人間の健康にも被害を与える。排ガスは空気を汚染し、酸性雨の原因となっている。二酸化炭素の増加による地球温暖化が生態系にかつてないほどの変化をもたらしている。ほぼ野放し状態の遺伝子組み換え技術なども、第一の危機として考えるべきであろう。
■第二の危機…自然に対する人間の働きかけが減っていることによる影響のこと。これは里地・里山、森林、魚場などの自然環境の保全に関する問題である。かつての一次産業は、人間が自然と関わることで豊かな生態系をはぐくんできた。しかし、機械文明や国際貿易の進展によって、それら生産性の低い生業の場は放棄され、人間の手が加わらなくなった場所の生態系は維持できなくなった。
■第三の危機…移入種や化学物質による影響のこと。移入種としては、本来の生態系以外の地域から人間が持ち込んだ種が、その地域の固有の生物や生態系にとって脅威となっている場合があげられている。放射能、遺伝子撹乱物質、ダイオキシン類など、化学物質の管理の不足が、一瞬のうちに個体を死滅させ、あるいは奇形を生み出し、種を絶滅に追いやることがある。生態系は、多種の相互依存によって成立しており、一つの種の鎖が切れることで生態系に大きな変化が生まれる。
4.生物多様性と文化力
1992年の地球サミットにおいても、環境保護を訴える人たちは、経済的な側面から生物多様性の管理の重要性を主張してきた。経済的な価値を持つ製品を生み出すであろう資源を貯蔵する意味で生物多様性が重要となっていることは確かであろう。しかし、そうした 概念の普及により天然資源の分配・割当のルールに関する衝突も生じている。
「経済か、環境か」と言われるが、どちらもマキシムに都合がよいケースは考えにくい。どちらをどの程度優先するのか、ということであろう。
地域の活性化は、なにも経済の活性化だけではない。経済だけが活性化しても、個人の人格が否定され、健康な暮らしができないような社会を人々は望んでいない。経済先進国といわれる社会に暮らす人々は、そんな思いを持ち始めているのではないだろうか。
生物多様性を維持するためには予防原則が重要といわれている。生物多様性に対して悪影響があると予想される行為や活動は、悪影響がないことが証明されるまで自粛することになる。経済優先の社会では、経済的にメリットがあれば、悪影響が証明されるまでは自粛しなくてよかった。こうした自粛は、目先の利益機会を失うことになるが、それを我慢できるか。自粛をしなかったばかりに悪影響が証明された時点で取り返しのつかないツケを支払うことになったケースは多い。もはや元に戻せないような失敗はたくさんある。
環境の保全を接待の条件として、その範囲内で持続的な経済発展を考えることも必要であり、「持続可能な社会づくり」は、人類の大目標になりつつある。
経済界は、環境問題をビジネスチャンスと捉え始めている。環境にやさしい商品を開発し、それを大量生産・大量消費するように仕向けるといった構図だが、戦略としては正しいかもしれないが、こうしたビジネスモデルはもはや万能ではないように思われる。
環境問題を考えるとき、地域の一つ一つの現場での取り組みが重要である。地方分権の進んだ社会は、地域が主体的に課題を考え、課題解決に取り組む社会と考えられる。地域が課題解決のパワーを持つには、関係者の合意形成が重要になる。しかし、複数が自分の考え方を押し付けあったり、自己の権利だけを主張して合意形成ができないことが多い。
合意形成がなかなかできないのは、地域の文化力が低下しているためのように思われる。世の中が複雑化していること、地域人口の流入出が大きいこと、コミュニティが消滅していることなども原因として挙げられるが、地域の課題を役所に預けて、直接関係のある課題以外は多くがの住民が無関心になっている。役所も都合の悪い情報を隠す傾向があった。
地域の歴史、地域の資源、地域の課題などを知らない住民、無関心な住民が増えれば合意形成は難しい。地域の歴史、地域の資源、地域の課題などに関心を持ち、よく知っている人が多いことが地域の文化力のように思えてならない。
こうした地域の情報に疎く、入ってくるのはテレビ等による無責任ともいえるマスメディアの情報、視聴者に迎合しているとしか思えない産業情報の氾濫。これでは、地域力、地域の文化力の低下に歯止めがかからない、
生物多様性や環境問題の解決には、住民、行政、地元企業などの多くの主体が目的や戦略を共有し、まさに協働で取り組む必要がある。合意形成ができなければ、無駄が多く、最小限の結果しかえられない。
経済的課題をコントロールし、利害を調整できるのは、政治力や経済力よりもむしろ文化力であろう。環境にやさしい地域循環型社会への移行も地域の文化力次第であろう。これからの地域は、経済を競うのではなく、文化力を競う必要がある。文化力の向上には時間がかかるし、戦略的な細かな取り組みが必要だが、遠回りであっても地域経済への好影響も期待できる。
(副代表 栗原裕治)
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