1.「市民セクター全国会議2002」において
9月7日、8日の両日、東京の丸の内において特定非営利活動法人日本NPOセンターが主催する「市民セクター全国会議2002」が開かれ、ボーンセンターから泉運営委員と小生が出席した。小生は、その前日の9月6日に、全国各都道府県の市民活動中間支援組織(NPOセンター)およそ30団体のメンバーと意見交換する機会も得た。
最近は、かなりNPO関連の全国大会が開催されるようになっているが、昨年までのそうした大会の話題の中心が、NPOの様々な課題を共有することが主な目的で各地の活動の紹介やNPO個々の苦労話等が中心だったのに比べて、今年の特徴は、様々な課題の解決に向けてNPOおよび市民セクターがなすべきことが中心になった点であった。
参加者は、当然のことながらNPOの役員や職員が中心だが、全国からの行政職員の参加(千葉県では千葉県県民生活課NPO室が参加)や大学等の研究者の参加が年々増えているように感じられ、NPOの市民セクターの核としての役割に社会の関心が集まりつつあることを感じさせた。ボーンセンターの延藤代表は、ひょっとすると国立大学の教官で最初のNPO法人の代表かもしれないが、最近は、大学教官がNPO法人の代表や事務局長に就任するケースが珍しくない。今回の「市民セクター全国会議2002」では、NPOの役員である人もない人も含めて、分科会、懇親会、懇親会の2次会等を通して多くのNPO研究者と意見を交わすことができた。
そうした研究者との意見公開の話題は、市民セクターを強化するための社会政策的な方法論が中心であり、これからの市民セクターには行政セクターや経済セクターを意識しての情報技術その他の専門家やエリート市民の養成が重要ではないかという方向に話が向かった。こうしたテーマを話す場合の共通の認識は、これからは行政セクター、経済セクターに対抗できる第3の市民セクターが必要であり、これらセクター間のチェック&バランスが機能してこそ社会全般のセキュリティ(持続的な発展もセキュリティとして捉えられる)が担保されるというものである。
そこで、現在の未成熟な市民セクターは、チェック&バランスの仕組みに参加できる力を持ちえていないということになった。セクター間のチェック&バランスを機能させるには、対抗セクター同士が自分のセクターの情報を管理、発信するだけでなく、対抗セクターが抱えている情報や発信する情報を的確に評価・批判できなければならないが、現段階の日本の市民セクターにはそうした力が充分に備わっていない。
現代の政治的、政策的な情報は、分化された様々な専門性によって組み立てられており、それらを充分に理解することは一般市民にとって至難の業である。特に対抗セクターの情報については、それに賛成するにしても反対するにしても一般市民は専門家の言葉を鵜呑みにしてしまう場合が多い。現代社会は情報技術への依存が過剰で、そっちも改善の必要がある脆弱な社会といえるが、それも時間がかかりそうである。
それでは、専門家はどこまで信用できるのかといえば、市民側には専門家と称する言論人に批判精神や批判能力が欠如しているのではないかという不信感があり、現状ではとても情報技術面でのエリートを抱える対抗セクターに対抗できない。それぞれの対抗セクターには、市民セクターを含めてそれぞれに寄って立つ土俵があり、全ての土俵にはそれを維持しようとする権益が存在する。その権益を守るための嘘は当然ありうるわけで、対抗セクターは互いにそうした嘘を見ぬけなければならない。嘘を見ぬけなければチェック&バランスは機能しない。
日本では、市民セクターの立場で活動する専門家がまだまだ少ない。専門家にもっと市民セクターへの参加を促すことも必要であるが、一般市民のなかから対抗セクターに対抗できる情報技術等の専門知識を持った市民エリートを育成する必要があるというのが一つの結論であった。
2.管理社会の風潮
およそ民主主義を標榜する国において、憲法は統治権力にとって遵守しなければならない義務規定とされる。日本人は忌まわしい敗戦の経験があり、統治権力の判断は絶対のものではなく、時として誤ることもあることを知っている。こうした憲法の原則は、刑事訴訟法上の「10人の罪人を見逃すことになったとしても、1人の冤罪者を出してはいけない」という【推定無罪】の規定によく示されている。そこには、民主主義国家では国家よりも社会のほうを信頼すべきだというトーンがあることを確認できる。
しかし、現代社会において人類は、個人及び集団が大きな科学的な力を持つに至った。その力は誤って使えば社会システムはおろか地球の存続にとっても脅威となる力であり、具体的には、日本では、オウム真理教による地下鉄サリン事件に象徴される一連の事件、アメリカでは昨年9月11日の貿易センタービル等への同時多発テロ事件がそれを示している。集団の犯罪的行為ということで考えれば、最近の電力会社の情報隠しなども、不作為であったとしても一歩間違えば社会全体を破壊しかねないことにつながる危険があり、糾弾されて当然のものといえよう。
現代は、社会を信頼するにしても、そのリスクはあまりにも大きいと考えられるようになっている。社会を構成する個人や集団は社会を壊滅的に破壊しかねないパワーを持っており、それに比べて破壊の対象となる自然界のシステムや社会のシステムも意外に繊細で脆いこともわかってきた。そこで、徹底的な管理が必要という強い風潮が出てきている。
社会の中に一匹の危険なネズミが紛れ込んだら恐ろしい事態が起こりうる。昨年の9月11日以降のアメリカでは「1000人の疑わしきを拘束することになったとしても、1匹の不埒なネズミを逃がしてはいけない」という意見に多くの支持が集まっている。そこでは、個人や集団を管理するために一番コストがかからない方法として情報技術が検討される。個人や集団の情報をデータベース化して認証技術を洗練していけば、情報管理(監視)=セキュリティの技術は完璧なものに近づいていくと考えられている。こうした考え方の根底には、全ての人は「疑わしき者」との人間不信(社会不信)の構図があることを否定できない。
3.社会政策を進める中でのジレンマ
本来の情報技術は、情報管理(監視)に代表される暗いイメージだけではないことを私たちは知っている。情報技術には多くの人が安価で情報を共有できる利点があり、その代表選手がインターネットといえる。
もともと、インターネットはアメリカの軍事技術を強化するために誕生したといわれている。「そもそも立案した計画が完璧に運用されることは不可能であり、必ず予想外のことが起こりうる」というのは、軍事に限らず社会政策全般においても同様で、如何に立案した計画の失敗を防ぐかが計画推進者の大きなテーマであった。情報技術は、そうした課題を克服する手段として期待されてきた。
情報技術をつかった様々なアイデアも、最初は行政や民間のたった一人が考えたものかもしれないが、そのアイデアを具現化するために、多くの民間のエンジニアが関わることになったと思われる。多くの人が関われば、その相互作用から思いがけないことも起こる。
実験的にデータベースをつくったら、別の利用価値が発見される。当初の予想を越えた行為が技術的に可能なことが判明する。通信コストの低下や関連技術の向上によって計画以上にネットワーク化が促進される。こうした様々な出来事の結果が情報管理(監視)=セキュリティの路線をつくり、同時にインターネットに代表される情報の共有=セキュリティの路線をつくったと思われる。分権化、市民化への社会の動きがインターネットを発展させたといわれる所以である。
東西冷戦構造の崩壊後の時代の流れは、様々な小規模セクターがそれぞれ一極集中を進めるなかで、社会的不安を増加させている。個人や集団が社会を壊滅させるかもしれないという巨大なリスクはいくらでも想定できる。それはテロだけではなく、不透明な原子力政策や公共事業のなかにも潜んでいる。
その結果、国家は社会の安定・発展を担保する能力を持ち得ないのではないかという不信が広がり、それに対処すべく弱体化していく国家に情報管理(監視)=セキュリティのための武器等を与えようとする動きが出てきていると思われる。これは、いまのところ分権化や市民化の流れと真っ向から対立する動きにはなっていないが、住民基本台帳ネットの拙速な導入、最近では、地方分権や地方の自立を一方で言いながら、環境再生推進法や都市再生がらみの特措法の制定に力を入れる一部の政治的勢力など、国家による巨大な一極集中の再編につながりかねない動きが見え隠れしながら進行しているとの懸念も出てきている。
情報技術の視点からみても、全てを国家に集約しようという管理的社会の方向には限界点が見えている。第一に、社会を信頼するリスクが高まったから(社会を信頼しきれなくなったから)、国家の統治権力を強化しようとするのは矛盾である。
なぜなら、統治権力を強化しようとする個人や集団も、また信頼しきれなくなっている社会の構成要素だからである。情報管理(監視)=セキュリティのための武器が、分権化や市民化への流れに対抗しようとする既得権益者に利用される可能性があり、それを抑止する方法が明らかになっていないから、住民基本台帳ネットにしても、特定の法律や制省令が制定される場合でも、過剰かもしれない反応をせざるをえないことになる。
4.必要な市民セクターの成長
これからの社会で、個人は企業の一員であったり、地域の一員であったり、消費者の一員であったり、NPOの一員であったり、インターネットで結びついた複数のバーチャルコミュニティの一員であったりして、セキュリティの主体はますます重層的になるわけで、情報の流出や乱用は、企業でも行政機関でもあらゆるレベルで起こると考えられる。だからこそ特定の権力に全て集約して管理しようとする考え方も出てくるのだが、こうした考えに矛盾があるとすれば、残された選択肢は限られている。
確かにある程度の情報管理は必要であるが、一つのセクターが対抗セクターの情報までも一括管理するような巨大な情報管理は否定するという考え方がその選択肢となっている。ここでの対抗セクターとは、大きくは経済セクター、行政セクター、市民セクターを指している。そこでは市民セクターの発展が不可欠である。こうした考えの下、市民セクターは、本質的に行政セクターの補完ではなく、市民活動は本質的に行政活動の補完ではない。まさに行政セクターや経済セクターと対等な対抗セクターである。
多くの市民ひとり一人が政治的、政策的な参加動機を共有する気持ちをつくり、市民の立場から、市民の視点から多義的な市民セクターを構成し、社会全体のチェック&バランスの仕組みに参加していく方向を目指すというものである。
チェック&バランスは、評価するシステムを評価するシステムを評価する……と、ぐるっと回ってバランスを保っていく。この仕組みは、それぞれの大きなセクターの内部の小さなセクター間でも機能する。対抗するセクターは常に対立しているわけではなく、社会全体のチェック&バランスのなかで、対抗セクター同士が本当に協働できるようになる。
これはかなり面倒な仕組みに思え、この仕組みの現実性を高めていくには大きな困難が予想される。しかし、過程に紆余曲折はあるにしても時代はその方向に向かっていると思われる。
社会のチェック&バランスを機能させるには、全ての対抗セクターから政治的、政策的提案が行われることが必要である。
最近は、国や千葉県の政策が市民セクターの育成に力を注ぐようになっており、市民セクターの成長についての社会的な合意形成にも影響が出ている。しかし、市民活動を実践している私たちも、市民セクターの社会的な意味や役割を忘れ、それぞれの事業基盤の強化だけに目を奪われていると、情報技術と資金力において市民セクターよりも格段の力を持っている行政セクターが今のところ意図しないものであっても、行政セクターによる巨大な情報管理(監視)=セキュリティの方向に誘導される危険性がある。
昨年9月11日以降のアメリカを見ると、日本よりもはるかに発展しているといわれている市民セクターにはいくつかの土俵があったはずなのに、対抗セクターの「アメリカ人に共通の土俵は国家の安全・テロの撲滅」という強固な声に押し切られてしまった。
市民セクター、とりわけ一般的なNPOは、事業性と運動性の2つを内包している。これからの運動性は、単なる政策に対する批判や要望ではなく、科学的な知見に裏付けられた提案活動をともなわなければ、市民セクター、経済セクター、行政セクターという3つの対抗セクターによるチェック&バランスは充分に機能しない。
市民セクターを強化し、市民セクターの政治的、政策的な社会参加を実現するには、市民意識の成長と技術的な市民エリートの育成、専門家の市民セクターへの参加が不可欠といえる。市民セクターの成長が目指すものを社会政策的に検討していくと、政策に関わる全ての段階でのチェック&バランス=情報共有=セキュリティの回答が得られる。私たちの取り巻く全てのセキュリティに深く関わっている。
栗原 裕治
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