1.地方分権一括法の施行から2年
明治維新、戦後改革に次ぐ第三の大改革といわれ、5年の歳月をかけて検討された「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律」が施行されて今年4月1日で2年が経過した。覚えにくい名称なので一般的には「地方分権一括法」といわれている。これによって、国による地方自治体の下請化制度と批判された機関委任事務制度が廃止され、機関委任事務は、国が直接行う事務、自治事務(地方自治体が自らの責任と判断で行う事務で、例えば、都市計画の決定も地方自治体でできるようになった)と、法定受託事務(地方自治体の事務の中で国が比較的強い関わりを持つ事務)に分けられることになった。
法定受託事務は、地方自治体に対して、国が事務の処理基準をつくったり、指示などの強い関与を行うことが認められ、それまでの機関委任事務に近いものだが、地方議会の権限が及ぶことや、条例を制定できることなど、機関委任事務に比べると、地方自治体の主体性を発揮できる条件が広がっている。
とはいえ、地方分権一括法を巡る国会審議でも、法定受託事務がまだまだ多すぎるという意見が出され、法定受託事務としたものも、今後その事務区分を適宜、適切に見直す旨の条文が追加された。
国による地方自治体への関与は、法令に根拠を持たないものは認められなくなり、地方自治法のなかに、自治事務、法定受託事務ごとに、関与の基本類型が置かれた。
また、関与を行う場合も、原則として書面によるなどのルールが定められた。さらに、国の関与について、地方自治体側に不服があるときは、その適否を審理する第三者機関(国地方係争処理委員会)が設けられることになった。
この「地方分権一括法」を制定した立法者の狙いは「地方はこの法律によって地域住民の意見や地域の実情を反映しながら、より細かな政策を推進することができるようになる」というものであった。自治体職員からは、「地方分権一括法」の施行以来忙しくなったとの声が聞かれる。しかし、その施行から2年を経て、地方分権はどこまで浸透し、地方の政策、地域住民の意識や行動などは、具体的にどのように変わったのだろうか。
この間に千葉県では千葉主権や市民参加の推進を公約に掲げた地方分権に熱心な知事が誕生し、NPO法人の数も増えているのだから、確実に変化は起こっているという意見もある。だが、5年の歳月をかけて検討された鳴り物入りの大改革といわれた法律が導入された割には、ほとんど変わっていないというのが実感ではないだろうか。
2.市民の自立的・主体的な公益増進活動と行政機関
真の地方分権は、地域住民が自分たちの公益を増進するために自由に意見を述べ、自律的・主体的に行動し、地方行政機関と協力していくことで実現すると言われており、現代社会では市民参加が自治や地域主権の基本であることに異論はないと思われる。
一般に「市民参加」と言う場合、2種類の市民参加がある。一つは、行政機関の外で主体的に展開される公益増進活動(NPO等の諸活動)への市民参加であり、もう一つは、政治・行政活動、とりわけ政策・施策の形成及び決定過程への市民参加である。まず、前者の市民参加について簡単に述べる。
1998年末にNPO法が施行されて以来、千葉県内はもちろん、国内のNPO法人は急速にその数を増やしつづけ、その活動分野も多岐にわたっている。しかし、公共=行政、非営利=ボランティアという一般感覚が根強いわが国では、主体的・自立的に運営しようとするNPOの経営は、おしなべて厳しい。
一方、全てでないにしても欧米のNPOの一部は、雇用の受け皿ともなり、目覚しい主体的な活動を展開している。特に地域に根ざした活動を行うNPOは、洋の東西を問わず地方行政機関との関係が深いが、NPO活動が活発な国や地方ほど、思いきった行財政改革を断行している。
特に80年代後半の東西冷戦に幕が引かれて以来、欧米の多くの国がイギリスのサッチャー政権に代表されるような行財政改革に取り組んだ。行財政改革によりスリム化された行政機関の公共サービスは低下したが、それを補完する自主的なNPOが次々に誕生し、現在の欧米社会は日本社会よりも活力があるようにみえる。
そこには、大幅な行政による規制緩和やNPO等への権限の委譲が見られる。一方、日本の行政機関は財政赤字により、年毎に緊縮財政の度合いが強まっているものの、抜本的な行財政改革のペースは超スローであり、NPO等への権限までも含めた事業の委譲はほとんど見られない。これは、地方行政機関の怠慢というよりも、税法を含む日本全体の制度疲労の問題とも深く関連していると考えられている。
例えば、「地方分権一括法」の施行により、中央省庁からの「通達」を根拠にした統制はなくなり、地方自治体の主体的な判断が尊重されるようになったといわれる。欧米のレポートとでも、日本独特(そうでもないと思うが)のこの制度を揶揄するように「ツウタツ」という言葉が使われていたが、この「上級」の行政機関から「下級」の行政機関に対して行われるような制度は、一応改善されたわけである。本来、国と地方の行政機関は役割を分担し、対等な関係でなければならない。
しかし、地方行政機関が主体的な判断で、市民と協力して腰の据わった自主事業を展開しようとしても、地方から見ればそれを阻害するような国の法律や政省令は多いし、まず、よく3割自治といわれるように、自主財源が乏しい。どうしても、国や都道府県からの補助事業が中心にならざるをえない構造である。この補助事業には、資金だけでなく、やれ事業の期限だの、規格だのと「ツウタツ」以上の余計な統制がついてくる。
道州制や税の配分などの問題がときどき政治話題になるが、行財政改革さえもなかなか断行できない日本社会では、こうした制度改革を待っていても、なかなか地方分権は進まないと思われる。「地方分権一括法」が施行されても、社会が変わったという実感が乏しいのも、こんなところに起因しているのではないだろうか。
前述したように、行財政改革と市民公益活動の活性化は深く相関しており、地方分権の促進は、「地方分権一括法」という制度ではなく、自立的・主体的な市民と行政の具体的な協力・協働こそが引き金になると考えられる。地方行政、地方議会、地域市民が自由に相互の批判を含めて意見を述べ合い、真に協力、協働することで、地方自治体は、国と適宜、適切に交渉し、地域住民の意見や地域の実情を反映しながら、より細かな政策を推進することができるようになる。
現在、市民の公益活動を活性化させるために、NPOを積極的に活用し、支援していこうという動きが中央省庁でも、地方自治体でも強まっているが、方向性を誤ると日本のNPO全体が危機的な状況になるとの危惧もある。行財政改革の断行が曖昧で、将来にわたって公益事業の権限を含めた行政からの事業委譲が行われないままの、行政によるNPOの活用は、NPOの主体性を失わせ、行政機関の安価な下請組織を育てることにつながりかねない。
すぐに権限を含めた全面的な事業委譲は難しいとしても、できるところから段階的に事業委託を超えて事業委譲は行われるべきであり、NPO活動を促進する施策において、支援する行政機関も、支援されるNPOも、NPOの主体的な判断を尊重することに十分配慮して、育ち、育てる必要がある。
こうしたことを勘案すれば、もう一つの政治・行政活動への市民参加、とりわけ政策・施策の形成及び決定過程への市民参加が非常に重要になる。
3.政治・行政活動への市民参加
自立的・主体的な市民と行政が政策的に合意し協力していけば、地方から社会を変えていくことも可能と思われる。
「地方分権一括法」によって中央省庁の通達というかたちでの統制はなくなったが、中央省庁の地方自治体にむけての意見等には、まだまだ想像以上の影響力がある。また、多くの時代にそぐわない法律や政省令、疑問のある法定受託事業や補助事業などが地方自治体の独自の判断を阻害している。自立的・主体的な市民は、こうした問題や地方行政の予算等に、地方分権の実現に関わることがらに、少しずつ関心を持つ必要がある。
最近の「有事関連法案」、「個人情報保護法案」、「エネルギー基本法案」などの審議過程を見ると、地方との協議や意見聴取などが形式的に附則事項等に付け加えることがあたりまえのように検討されているが、法案の内容は「地方分権一括法」とは裏腹に、地方分権や地方自治に逆行するような中央集権回帰の傾向がうかがえる。
しかし、2年前の「地方分権一括法」の制定は、それまでの機関委任事務を自治事務と法定受託事務に振り分けることだけに傾注したきらいはあるが、地方分権・地方自治が社会的に大きな潮流であることを立法府や行政府が認めたという点で意味は大きい。
今後の地方自治においては、地方自治体は、議員、市民などの意見を十分に反映した政策を立案し、地方の実情に合わない中央の意見その他の制約にに対して、反対意見や改善を求める姿勢を示していくべきである。それには、行政に市民の意見を反映させる仕組み、市民にとってもわかりやすく公正な市民参加の仕組みをつくる必要がある。
実効ある地方分権は、政策・施策の形成過程からの市民参加であり、市民分権である。地方行政機関、地方議員、地域市民が知恵や意見を出し合って、その意味やそれぞれの役割を明確化し、それぞれの地域(市町村や都道府県)にふさわしい手続き、そしてそれら手続きが公正に行われているかを判断し改善する仕組みを、体系的に明文化することで保障することが重要である。
行政がNPO等の市民団体に権限を含めて事業を委譲できない理由として、「個人の資質はともかくとして、権限を含めて事業を委譲できるような責任と能力を備えた市民団体が育っていない」をあげる。また、政策・施策の形成過程への市民参加に積極的でない理由として、「公益に対して自分の意見を述べ、責任を持って行動する個人が育っておらず、日本には市民社会が確立していない」などをあげる。
地方分権の実現には、社会に対して責任と能力を備えた市民団体が育つことが必要であるし、市民であることを自覚した地域住民が増えていくことが必要である。
市民は、一般的には積極的に政治・行政活動に参加し、権利や責任にふさわしい資質を備え行動する人々を意味しており、住民と意識的に使い分けられている。住民を差別しているようにも聞こえる。一般的な法務レポート等は、市制をひいている地域の住民を市民といい、それ以外は住民という言葉を用いている。これは住民という概念をことさらにマイナスイメージにすることが適当でないという判断からであろう。市民を住民よりも上位の概念とした場合、村民や町民を差別的に扱うことになるという印象をぬぐえないからであろう。しかし、住民という言葉には、一地域と特定の公共の利益に直接かかわりのある限定された者(例えば、原発などの迷惑施設の建設に反対する近隣住民)を指すこともある。
市民は、住民よりも上位の概念で使われるようになっているが、市民とは黙って与えられるものではなく、一般の住民が自分の意思で市民になるというように考えれば、差別的な用語ではないと思われる。地方分権は、自分の意思で市民になる人々が多い地域で実現するのであり、そのためにも市民参加を保障することで、市民を増やしていくことが必要と思われる。
紙面の関係もあり、市民参加の手続きの明文化(市民参加条例やまちづくり基本条例等)の最近の動向や内容に付いては、現在、いろいろな情報を収集しており、次回の政策情報で整理したい。
今回の最後に……。ここ数年の間に、政策・施策の形成過程での市民参加が地方自治体の大きな課題となっており、市民参加条例を制定したり、検討を開始する自治体が急速に増加している。それは、都道府県レベルや市町村レベルでも一部で制定への機運がは高まっている。市町村レベルでは、京都市のような政令市もあれば、北海道のニセコ町のような人口の少ない町もある。関東地区では、東京都や神奈川県のいくつかの市町村で検討が進んでいる。
これまでは、市民参加関連の条例は、地方議会で多くが否決されるなど、なかなか実現されなかったが、関西の箕面市や宝塚市が先駆的に制定したのをはじめ、北海道のいくつかの自治体でも制定されている。それも、市民参加の理念や手続き等を明文化した体系的な条例である。
市民参加条例は、市民参加についての述べた条例の総称でもり、住民投票条例などの必要に応じて特定の手続きを定めたもの(体系的でない部分的なもの)を含めると、既に数多く市民参加条例制定されている。情報公開を定めたものも広い意味で市民参加条例の一種と考えれば、大半の自治体が部分的な市民参加条例を制定しているともいえる。
箕面市、宝塚市、ニセコ町、石狩市等の最近の市民参加条例が注目されるのは、それが体系的につくられているからである。それも、内容が急速に進化している。
初期の条例は、理念的な簡単なものであったが、最近のものは徐々に審議会、パブリックコメント、公聴会などの手続き的な条文が増えている。ニセコ町のまちづくり基本条例などは、基本条例として市民参加が自治体系のなかに体系的に組みこまれている。
ボーンセンターでは、千葉の地方自治体における市民参加条例の可能性と内容について政策研究活動を立ち上げる予定でいる。関心のある方はボーンセンター事務局に連絡してください。
栗原 裕治
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