「世界遺産と町並み」
9月初め、 CIVVIHの会合でイタリアのナポリへ。CIVVIHはInternational
Committee on Historic Towns and Villagesの略でICOMOSに付属するさまざまな委員会のひとつ。私は2年ぶりの参加で、今年も懐かしい顔が40人ほど、世界から集まって来た。東日本大震災の折りの励ましに、佐原の復興の様子を紹介しつつお礼を言い、例によって石巻を取り上げ、古い町並みが遺っていないのに「復興は歴史的町並みに学べ」と演説したら、結構受けました。さて、言いたいことはそのことではなくて、歴史的環境の保存のあり方である。
8月頃、ナポリがゴミに埋もれているという報道が相次ぎ、ニューズウィークなどには、8センチもあるゴキブリが繁殖していて、町を歩くと「ブチュ、ブチュ」と音がするとまで書かれていて、ほんとだったらどうしようと半ば楽しみで出かけた。残念ながら?、町はすっかりきれいに清掃されていて期待は裏切られたが、町を堪能することができた。幹事役はナポリ大学建築学科のテレサ先生。ナポリの町にすっかり溶け込む感じの人と言えばイメージしていただけるだろうか。と言うわけで、初日は、ナポリ湾に面するナポリ大学のごっつい会議場で行われた。前日のメールで9時からと念を押しながら、11時過ぎにはじまったのはどうでもよいことだが、待っている間に話題になったのは、翌日からの会場のことであった。あらかじめメールで配布されたプログラムには「the
ex church San Demetrio e Bonifacio nella piazzetta Teodoro Monticelli
(Aula Manga of Faculty of Architecture)」とあり、どこかの教会が建築学科の教室になっていてそこが会場ということは分かるのだが、教会名でも地名でも地図に見当たらない。グーグルマップでは、広場名でピンが刺さるのだが、地図上には名前がなく、広場あるようにも見えない。そこで「どこだどこだ」となったのである。
翌日、グーグルマップを頼りに細い道へ入っていくと、そこはまさに「ナポリの下町(お茶の水にあるイタ飯屋)」であった。ナポリの最も古いローマンタウンの中で、両側にはパラッツォが並び、立派な門から見える中庭の向こうには快適な豪邸もありそうだが、通りに面しては小さな住宅や店が並ぶ。八百屋、肉屋、パン屋、そして上を見上げると洗濯物、まさに生活感満点。立派な石の壁は落書きだらけ。ほどなく小さな広がりに至り、そこに面する(もと)教会が会場であった。ナポリ大学建築学科の本体はここから数分のところにあって、大きな中庭のある立派なパラッツォである。ナポリ大学の学生さんは幸せです。千葉大学とは大きな差がつきそう。
このようなナポリにことさら感激するのも、ここ2、3ヵ月、論文をまとめようと大学院博士課程の秦さんが悪戦苦闘しているテーマとかかわりあうからかもしれない。秦さんは、中国瀋陽の出身。ご存じのように、東北から始まった清国は、首都を北京に移した後も瀋陽を陪都と位置づけた。17世紀に建設された故宮があり世界遺産に登録されている。故宮は、城壁で囲まれたほぼ正方形の、方城と呼ばれる都城の中央に位置する。秦さんの一家はこの中の故宮のそばに住んでいたのだが、そのアパートが最近取り壊された。世界遺産を守るためにその周辺にバッファゾーンを設けることが義務づけられており、高さの制限などが課せられるのだが、秦さんのケースは公園を整備するためであった。世界遺産のバッファゾーンといえば、超高層ビルに無力であることから、CIVIIHでも重要なテーマとなっていた。超高層ビルは、バッファゾーンを超えて見えてしまう。広島の原爆ドームでも同じような問題が起きたことは記憶に新しい。瀋陽でも同種の問題があり、秦さんは「世界遺産のバッファゾーンのあり方」を博士論文のテーマとしている。しかし秦さんの家で起きたことは、バッファゾーン内部のあり方に関する問題であった。
1964年のベニス憲章は次のように定めている。「「歴史的記念建造物」には、単一の建築作品だけでなく、特定の文明、重要な発展、
あるいは歴史的に重要な事件の証跡見いだされる都市および田園の建築的環境も含まれる。「歴史的記念建造物」という考えは、偉大な芸術作品だけでなく、より地味な過去の建造物で時の経過とともに文化的な重要性を獲得したものにも適用される」。「モニュメントをいっそう美化するために、周辺の普通の町並みを破壊し、モニュメントだけを周辺の環境から切り離して保存する」という戦前までに支配的であった保存理論(モニュメント中心主義)からの転換を謳い、町並み保存へ道を拓いた画期的な文書である。ナポリは、歴史的な地区全体が世界遺産に登録されているが、その流れに即したものだ。
瀋陽の方城ではどうだったのだろう。それが秦さんの論文のテーマとなった。古い地図をたどると、かつて町中に胡同が発達し市民生活の中心になっていたことがわかる。胡同のアチコチで市が立っていた。たとえば馬行は「外攘門里、騾馬猪羊、巡役舞弊、経紀平常(牛、馬の市場は外攘門の中にあり、市場の秩序が管理される)と19世紀末の記録されている。ついでに「税務衙門,在牛馬行,毎届口期,五部倶想。経丞掌案,貼書上?,小心盗漏,猪馬牛羊(税務衙門は牛、馬行の近くにあり、盗難や脱税などのことを気をつけなければならない)」ともあり、洋の東西を問わない税務署のイメージが浮かび上がる。胡同を舞台に200年以上にわたって市が栄え、政治都市瀋陽方城のそこここに、故宮のすぐそばでも、人びとの活発な生活の営みがあったことが読み取れる。
残念ながら、瀋陽の方城では、1980年代に一斉に団地への建て替えが行われた。そして今は故宮を際だたせる公園や大通りの整備と、大規模な商業施設の建設が進む(故宮の北側、中街は瀋陽最大の目抜き通りである)。論文をどうまとめようか。秦さんの悪戦苦闘が続く。
千葉まちづくりサポートセンター代表・福川 裕一
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