「中心市街地を再生する建築とは」
正月以来、石巻の中心市街地再開発のプランが頭から離れない。この原稿を書いているのは2012年3月11日、折しも政府主催の追悼式が始まったところだ。と書くと、未曾有の被災を受けた町どうデザインしたらよいか日々頭を悩ましていると聞こえるが、何か(とくに建築)を考え始めた時の私の癖なので悪しからず。ほかの仕事が手につかなくなります。もちろん、ピーナッツ通信でぼやく仕事も。
冗談はさておき、今回の復興で中心市街地をどこまで再生できるかは、全国の地方都市再生の試金石だと思っている。そう言う意味では、ここで描くプランが、全国の中心市街地を構成する建物のモデルになる、という気負いと自覚はある。
さて、石巻は、今回大きな被害を受けた都市では、仙台に続く第二の都市である。被災直前の人口は16万人で、現在は15万人へ減少している。特に大きな被害を受けたのは、戦後に拡大した海岸ベリの市街地で、昔からの中心市街地では、建物が津波で一掃されるような事態には至らなかった。海と川に近いアイトピア商店街には、海側からさまざまな物が流されてきて、一階の店舗に大きな被害が出たが、一番商店街である立町では1メートル前後の浸水ですんだ。総じて、よくテレビで映し出される建物が一掃された状態とは全く異なるが、店舗の多くは店を閉めたままだ。
各地で堤防と地盤のかさ上げによる現地再建か、高台移転かをめぐって議論が行われている。石巻でも同様の議論が交わされているが、少なくとも中心市街地の人びとは、水辺を隔てる高すぎる堤防に異を唱え、中心市街地の再建を期待している。石巻には7300戸の仮設住宅があり、これからその相当数を復興公営住宅等で代替していく必要があるが、そのうちの2000戸程度を中心市街地で供給したいと意気込んでいる。これから人口減少社会へ向かうことを考えると、高台とは言え、さらに市街地を拡大することは、将来に負の遺産を遺す危険が大きい。目指すべきは、歴史的な市街地を中心に安全でコンパクトな町を再生することだ。石巻では、3つの街区の地権者たちが、その先鞭を切る再開発に名乗りを上げている。
問題は、建築である。相当数の建物を建て替えることになるが、ニュータウンのように一度に建て替えるわけではない。壊れていない建物、歴史的な建物は今後も活用していく。合意の整ったところから言わばパッチワークのように建て替えを進めていくのである。その場合、どのような建物で町を構成すればよいのか。いわゆる高層マンションではないだろう。戸数を稼ぐだけなら、超高層を何本か建てればよいが、それも違うだろう。
石巻は歴史的な都市である。江戸後半に書かれたと思われる石巻絵図には、北上川沿いに町家のような、倉庫のような妻入りの建物が建ち並ぶ町並みが描かれている。かつて千葉大学建築史研究室が行った調査によれば、その後平入りの町家が主流を占めるようになっていったらしい。古い町家はとっくに失われているが、地割は鰻の寝床型の敷地で構成されている。だとすれば、デザインすべきは、歴史的な都市構造をふまえた現代版の町家ということになるだろう。
町家の原理を現代の市街地に適用しようという試みの嚆矢は、私の恩師・大谷幸夫先生の「麹町計画」である。1961年、東京の麹町通りの拡幅に伴い沿道の市街地をどう再構成するかというテーマのもと提案された。道路の拡幅は、通常市街地の高層化を導くが、ここで試みられたのは「高層化とオープンスペースとは異なった方式で集まって都市つくることができる建築のあり方」である。「町家とその集合がつくり出す市街地の在り様に、都市と建築の原形と市街地形成の基本を読み取ること」をベースに、幹線道路沿いは、下層階を事務所に数階建てとするが、街区の内部では、住戸を積み上げるのではなく、横につなげていく。そのために住戸は中庭型となる。
私が頭を悩ませているのは、この「麹町計画」を、いかにして現代の石巻に適した「石巻計画」へ展開するかなのである。具体的にどのようなものになるのか、もう少し進行したら「ぼやき」でもご紹介しよう。その前に、ここでは「麹町計画」が載っている新しい本を紹介したい。大谷幸夫『都市空間のデザイン:歴の中の建築と都市』(解説:福川裕一、岩波書店)。帯は「人口減少時代の今日に必要な都市の理論がここにある」とした。ぜひご一読ください。
千葉まちづくりサポートセンター代表・福川 裕一 |