代表のぼやき

2007.11


町並み委員会20周年

 川越一番街の町並み委員会が20周年をむかえた。「町づくり規範に関する協定書」に基づいて設置されたこの委員会は、同委員会が定めた「町づくり規範」に従って、町並みにおける建設活動をマネージメントしていくことにある。町並みで、建物の改修や増改新築などをしたい人は月一回開催される同委員会に申し出て、その意見を聞く。
重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されている同地区では、市役所の窓口でも建築には許可や届けが必要である。ただし、重伝建に選定されたのは1999年。1987年に活動を開始した同委員会は、重伝建に先立つ10年以上前から、住民の自治により自律的に町並みのマネージメントを行ってきたのである。
20年前、川越の町づくりに夢中になっていたのがつい昨日のことのようである。しかしこの20年間、世界は激動、パラダイムが次々と逆転した。ベルリンの壁が壊れ、グローバリゼーションの波が押し寄せ、国家が弱体化し、トランスナショナルな原理主義が先鋭化してきた。わが国では、少子高齢化が進み、いつのまにか人口減少が始まり、経済の拡大を前提にした町づくりはもはや困難となった。さらにCO2は待ったなしという状況だ。にもかかわらず、町並みにはゆっくりとした時間が流れている。騒々しいい外の世界に対する安定したコミュニティ。そのコミュニティを主体的に維持しているという手応え。これこそ町づくりの意味であろう。
興味深いのは、重伝建に選定され、建築行為のコントロールを行政が引き受けた後も、町並み委員会の活動が骨抜きになることはなかったことである。外から通っていた私に、「住民の委員会には限界がある(もう疲れた)、そろそろ行政にお任せしたほうが安心だ」という気持ちがなかったと言ったら嘘になる。しかし、現実に起きたことは、町並み委員会が基本方針を示し、市役所が事務局のような役割を果たすという分担関係であった。
もっとも、川越一番街の町づくりの課題は、町並み委員会だけでは解決していかない。第一に、だれもが指摘する通りにあふれる自動車の問題は一向に解決のめどが立たない。第二に、デザインの問題。町づくり規範と町並み委員会でシステムはできているように見えるが、課題はあとをたたない。新しい建物は、伝統的な構法に正確に従うか、歴史的な町並みを損ねずそれらと交響してより豊かな町並みをつくりだす新たなデザインを試みるか、いずれかという原則だが、現実に増えているのはもっとも排除すべき中間の「似非蔵づくり」という状況がある。そして第三に、今も減らない空地空店舗をどのように活用していくかという問題。「物件はあっても適切な利用者がいない」現状を見るにつけ、町づくり会社の必要性を痛感する。実は、今や中心市街地活性化政策の中枢に据えられた「町づくり会社」だが、この言葉と概念の発祥地は川越一番街である。20年以上前、ブームとなったナショナルトラスト運動を、「地価の高いところで買い取り保存は無理。同じ効果を実現するには自分たちが不動産ディベロッパーになればいい」と喝破したところからこの言葉は始った。
というわけで、町づくりの両輪は「町並み委員会」と「町づくり会社」と唱えてはや20年。町並み委員会10周年の直後には伝建地区が実現した。20周年の今度こそ川越にも町づくり会社ができるかもしれない。

千葉まちづくりサポートセンター代表・福川 裕一

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