171 高橋武智『沖縄だけでなく、核は岩国にもあった――密約文書でなく事実の検証を』(全文)( 『市民の意見』 No.118 2010年2月号)(10/02/11掲載)

沖縄だけでなく、核は岩国にもあった
           ――密約文書でなく事実の検証を
                                      高 橋 武 智
 
これは回顧談ではない。過去の出来事が 現在の問題にかかわることがあるし、新し い光を当てることさえある例として読んで ほしい。
☆べ平連時代の米軍解体運動
 ベ平連の時代、米軍兵士相手に活動して いた集団はジャテックと呼ばれた。何より もこの名は1967年に始まった脱走兵援 助運動と結びつくが、70年の方針転換後、 同じ名前は米人活動家・米兵との緊密な協 力のもとに展開された――当時のオーバー な呼称を使えば――「米軍解体運動」を指 すのにも使われた。

 その有力な拠点の一つ、海兵隊岩国基地 のすぐ近くに1972年2月にオープンし たコーヒーハウス「ほぴっと」の初代マス ターをつとめた中川六平さんが、当時の日 記やメモをもとに、このほど『ほぴっと 戦争をとめた喫茶店』を出版した。これは 米軍解体運動について書かれた最初の単行 本である。
 もちろん72年に突然ほぴっとが誕生した わけではない。長い前史があったし、本の 前半はそれに充てられている。兵士自身に よる抵抗新聞『センパーファイ』の刊行、 錦帯橋畔でのラヴ・イン、帰隊した脱走兵 ノーム・ユーイングの軍事裁判へのジャ テックの介入(具体的には、小野誠之弁護士の 参加と、鶴見俊輔さんとノームをかくまった主 婦・神谷康子さんの証言)、たこ揚げによって 米軍機をとめた子どもの日の行動、岩国の 核に関する楢崎弥之助代議士の国会での追 及、ジェーン・フォンダらからなる演劇集 団・FTAの公演などなど。行動のたびに 中川さんは京都――岩国間を往復したのだか ら、ご苦労さんだった。
 なかで感慨深く思い出すのは、「ハエが ハゲタカをとめた」と表現されたたこ揚げ だ。止めたのは訓練機だったにしても、い ざというときはベトナム人民の闘いに直接 呼応することもできるという実感を与えて くれた。
☆米反戦兵士からの聞き取り調査
 本稿執筆にあたり初めて目を通せたの だが、このあたりの経過を、68年に召集 後、早くから兵士運動の組織にあたったD・ コートライトの『反乱する兵士――ベト ナム戦争中のGIの抵抗』(英文。初版は75年、 2005年に増補版)はこう書いている。
 「(海兵隊員たちは)70年1月に新聞『セン パーファイ』を創刊した。このささやかな 始まりから、兵士グループは急速に発展を とげたが、それは部分的にはべ平連≠ゥ ら提供された価値ある支援のおかげだっ た。米国における同種の運動よりはるかに 以前から、べ平連は米兵のあいだの抵抗の 重要性を認識し、数年間にわたり、脱走兵 への援助やベトナムから休暇中の兵士への ビラ配布など精力的なプログラムを実行し ていた。したがって、岩国の海兵隊員が軍 内部から組織を始めたとき、日本市民はた だちに彼らへの支援にかけつけた。センパーファイの最初期の行動の一つ、4月12日の.ラヴ・イン.は、日本の伝統的なお 花見に事寄せて、約50人の海兵隊員が参加 した。……」
 過大なと思うほどの評価だが、グローバ ルに展開され、米軍敗北の究極的原因と なった兵士の抵抗を包括的にまとめた本だ けに、それなりの妥当性はあるのだろう。
 ここでは、基地内に核兵器が貯蔵されて いるという噂を実証するためのプロジェク ト・チームの活動に話をしぼるが、『ほびっ と』では「藤川さん」と呼ばれている掛川 恭子さんが「岩国の二年」(『となりに脱走兵 がいた時代』所収)のなかでこう簡潔にまと めている。
 「それならとはじまったのが、基地内の 反戦兵士からの情報収集だった。人気のな い宮島の浜や、場末の喫茶店での聞き取り 調査のつみかさね。Tはねちこくねちこく、あれもこれも聞き出していった。そし て最後は現場検証。海に面した基地の一画 に、土を盛りあげて芝をはった地下格納庫 があり、以前からそこに核がしまわれてい るのではないかといわれていたのだが、あ る晩連れていかれたのは、まさにその場所 だった。そうやって集めた情報をもとにお こなわれたのが、楢崎発言だった。楢崎発 言の直後、反戦兵士四人が反戦デモに参加 したという理由で逮捕され、ただちに本国 の拘置所送りになったことからも、米軍の 動揺が見てとれた」(Tとしたが、原文では筆 者の名前になっている)。
 調査に加わった者の共通の想いは、広島 から50キロと離れていない岩国に核を置く なんて、という怒りだった。
☆岩国基地に核兵器は存在した
 評判の池澤夏樹の長 編小説『カデナ』は、 北爆のため嘉手納基地 の滑走路からB52爆撃 機が飛び立った68年夏 の沖縄を舞台に、飛行 計画書を入手してハノ イへ無線で打電すると いうスパイ活動に従事 した、うちなーんちゅ 2名と米兵とベトナム 人各1名の物語だ。個 人の責任で引き受けた行動だが、それぞれ の幼い頃・若い頃に味わった戦争体験を踏 まえていた。10月末で北爆が中止され活動 が終わったとき、全員「ハノイの子どもた ちを救った」との感慨をもつ。68年の解放 的な(著者は「反抗的」と表現している)雰囲 気が伝わってくる作品だ。そう、本土のぼ くらもそれと同種の、岩国基地をめぐる「ス パイ活動」にかかわっていたことになる。
 『ほびっと』には、福岡から来たアンド ウとサワダがベトナムの戦場と直結する岩 国基地の監視にはりついていたことが書か れているが、彼らのまとめたレポートも、 拙著『私たちは、脱走ベトナム兵を越境さ せた……』に書いたとおり、パリの南ベト ナム臨時革命政府代表のグエン・ティ・ビ ン氏に手渡していた。このもう一つの「ス パイ活動」は、少なくとも戦争を早く終わらせるのに貢献したものと確信している。
 ところで最近、高名な女性の俳優ジェーン・フォンダの自伝『わが半生』(2005年)を英文で読む機会があった(邦訳もある が、肝心な部分に誤訳あり)。兵士に反戦を訴 えるため米本国と太平洋の基地を巡業した 彼女を中心とするFTAショーの章に、兵 士の圧倒的な参加で盛りあがった岩国公演 につき要旨次のような記述がある(前記掛 川さんの文章は、この日、広島から岩国へバスで 向かう途中、フォンダが「わたしの国がここに原 爆をおとして、あんなに大勢の人を殺してしまっ たのよね」と言って、大粒の涙をぼろぼろこぼし たとの証言を伝えている)。
 「数名の兵士とのインタビューを撮影し た。持ち込まないという日米間の合意に反 し、彼らは密かにまた非合法的に、絶えず 核兵器を移動させられている。真実を明ら かにしたい、と相談を受けた。」
 日本側の調査とアメリカ側の証言はぴっ たり合致する。楢崎追及を政府は否定する ことしかできなかったが、事実は事実なのだ。これが71年11月(楢崎発言)から12月(FTAショー)にかけての出来事であること に注意を喚起したい。
☆密約と沖縄の核兵器
 沖縄の核はどうだったかといえば、小説 『カデナ』では、68年、つまり本土復帰前 の沖縄に核兵器が貯蔵されていたことが自 明の事実として語られている。北爆の最後 に核を使うという噂さえ空軍兵士のあいだ に流れていたという。
 沖縄に関する限り、昨年12月23日付け朝 刊各紙が一斉に報じた、佐藤栄作元首相の 机から発見されたニクソン・佐藤の署名つ き69年11月の密約本文――返還後の沖縄 が「核抜き・本土並み」でないことを裏づ けた文書だ――により、この事実は公式 に確認された。密約は「沖縄に現存する核 貯蔵施設の所在地である嘉手納・那覇・辺 野古およびナイキ・ハーキュリーズ基地をいつでも使用可能な状態で維持する」と明 記している。普天間基地の「代替地」、辺 野古の名があることも見逃せない。
 この原文が明るみに出るまでの報道はど うだったか。だれが操作したのか、非核三 原則にいう「持ち込み(introduction)」は「核 搭載艦船の寄港」問題にすりかえられてい た。通常イントロダクションとは「〜の内 側への持ち込み」を意味する語だ。「寄港」 なら、今回の密約原文が「再持ち込み(re− entry)」と並記しているトランジット(通過) に近いだろう(事実「寄港」は「持ち込み」に 当たらないとする60年密約の討議記録も、外務省 で見つかっているという)。問題も用語もこみ いっているが、念のため断ると、密約本文 は、返還後も緊急事態には、再持ち込みと 通過の権利を米国がもつことに合意してい る。
 その上で、71年秋時点での本土岩国への 核持ち込みをどう考えるか、これこそが問 題の核心である。外務省の有識者委員会が 密約問題を調査するのは結構だが、その作 業が文書としての密約の後追いに終止する なら、不十分きわまる。沖縄返還後の71年 に岩国で核が見つかったことで、一般に認 識されている事態は根本的に変わったのだ。 「核つき・本土沖縄等し並み」こそ、返還 と核をめぐる隠しようのない齟齬の真相 であることが明らかになったわけで、ここ には、まだ知られていない新たな密約が隠 されている可能性も高い。
☆密約文書でなく、事実の検証をこそ
 日本政府と米国はこの点への回答を迫ら れている。ぼくたち市民も、また当時取材 したはずのメディアも、事実関係に立って この問題を検証し直すべきだろう。
 運動側についていえば、引用したこと以 外に、本土と沖縄の米軍解体運動の実情は、 ジャテック機関紙『脱走兵通信』と後継紙 『ジャテック通信』(いずれも『べ平連ニュー ス縮刷版』所収)が逐一報道しているので参 考になるはずだ。
 「国民的」という形容詞がふさわしかっ た60年安保闘争から50年、否定しがたいこ の事実を避けたままでは、日米友好条約の 見通しが開かれないだけでなく、「対等な 日米関係」の模索など絵に描いた餅だと思 う。
 最後に思い出を一つ。中川さんが「一人 で岩国べ平連をやっている」と書いたフク ヤを、東京から初めて訪ねたのはたぶん筆 者だったろう。彼の連絡先を教えてくれた 人物がいたはずだが、思い出せない。行っ てみると、フクヤのほかに仲間がいた。
 クリス・カウリー夫妻だ。英国にもどっ たあと、カウリーは事故で急逝したが、日 本人の妻があちらの生活にとけ込んで暮らしていたのを覚えている。そもそものはじ めから、岩国での米軍解体運動が国際主義 的な連帯のなかで進行していたことを書き とめておく。(2010・1・9)
                                    (たかはし・たけとも、本誌編集委員)
【編集部注】
 「ジャテック」とは、「反戦脱走米兵援助日本技術委員会(Japan Technical Committee for Assistance to U.S.Anti−War Deserters)」の英 文からの略称。
【本文で取り上げた岩国と沖縄の新著】
 中川六平『ほびっと 戦争をとめた喫茶店――べ平連1970−1975.in イワクニ 講談社、 2009年
 池澤夏樹『カデナ』新潮社、2009年

【「ジャテック」についての参考文献】
 べ平連編集『べ平連ニュース縮刷版』 ほんコ ミニケート社、1974年
 関谷滋・坂元良江編『となりに脱走兵がいた
時代――ジャテック、ある市民運動の記録』 思 想の科学社、1998年
 高橋武智『私たちは、脱走アメリカ兵を越境 させた……――べ平連/ジャテック、最後の密 出国作戦の回想』作品社、2007年
 

( 『市民の意見』 No.118 2010年2月号)ち

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