23. 小田 実 小田実評論撰〈2〉70年代」 (筑摩書房 20013(2001/03/29搭載)

同書の「あとがき」の一部分

 (前略) ……「書き砕く」は最近、「阪神・淡路大震災」以来、私がものを書くことについて考えていることだが、「動詞」で考え、書くことを考え始めたのは、今、引用した「七〇年代」、それも後半にさしかかってのことだ。もうそのころには、「べ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合の運動は終っていた、また日本のみならずアメリカ合州国や西ヨーロッパ諸国でベトナム反戦運動を契機として起こり、「革命」と言うよりは「造反」という中国の「文革」からのことばがもっとも適切な学生運動もあらかた消滅していた。
 二つのことを、ここで、まず書いておきたい。
 ひとつは、私が、私がキモイリのひとりともなれば参加者ともなって一九六五年四月に「べ平連」のベトナム反戦運動――「市民運動」という言い方がもっとも適切だった「べ平連」の運動を始め、それからずっと一九七四年四月に解散するまで、このウヨ曲折、とにもかくにも日本じゅうにひろがった運動を九年間にわたってやって来たことだ。この九年間の参加の継続の体験がなかったならば、私は、おそらく、「動詞」でものを考え、書くことの重要さを考え出すことはなかっただろうし、自分でそのことをやり出していなかったにちがいない (結果を言おうとしているのではない。意図において、そうだった)。
 もうひとつ、あった。これが二つ目のことだが、「べ平連」の運動が終ったあと、私が、反戦運動であれ何んであれ、そうした「市民運」とまったく無縁に生きつづけていたのなら、私はそこでも、「動詞」でものを考え、書くことの重要さを考え出すことはなかったし、もちろん、実際に自分でもそのことをやり出していなかった。

 この「評論撰2」に収めた「『生きつづける』ということ」のなかで、私は「べ平連」について、「職業的革命家」や「職業的平和運動家」の反戦運動ではなく、「あくまで運動の外でぶつうにメシを食っているふつうの人間が寄り集まってつくっている運動で、しかも、それはベトナム戦争という具体的な当面の政治問題に結びついた運動」だと書いた。いや、それだけではなかった。私は私自身の「べ平連」とのかかわりについて、つづけて書いていた。「ほんとうのことを言うと、私は六五年の春、『べ平連』の運動を始めたとき、そのうち戦争は終るだろう、と漠然と考えていたのにちがいないのだ。」しかし、これは私だけの問題ではなかった。
「べ乎連」の運動にかかわった市民の多くが、私と同じ立場、位置にいた。私はさらにつづけて書いた。「しかし、戦争はまだ終らず、そのうち、私は私で、そして 『べ平連』は『べ平連』で、ずるずると深みに入って行ったという感じなのだが(無責任な言い方のようだが、これが実感なのだから仕方がない)、そのずるずるとした深みへの入り込み方がまったく状況に押し流されたためのものであったと言えば、これもまたウソになるにちがいない。こちらが自発的、自覚的に状況を切り開いたということもあり、逆にその切り開かれた状況がこちらを押して来るということもあり、この何年間か、二つの相乗作用のなかで生きて来た。いや、生きつづけて来た。」
 この「相乗作用」のなかで「生きつづける」ことを通して自然に必要なこととして、また必然の結果として私の思考のなかに生まれて来たのが「世直し」――私が考える、納得できる、それゆえに自分が求める社会変革だった。私は同じ文章のなかで、さらに次のように書いた。「私がここで述べている『世直し』とは、『生きつづける』人間が求めるものとしての『世直し』だが、その場合、『世直し』の出発点となるのは、『世直し』『革命』のみごとなプログラム、あるいは、それを保証するイデオロギーではなくて、あくまで、私たちが生きつづけている、生きつづけようとしているという基本的な事実なのだ。もとよりこの『生きつづける』ということばは、たとえば、奴隷として生きるのではなくひとりの人間として生きつづけるということを意味していて、そうした生き方を妨げるものに対してはその『生きつづける』現場でひとつひとつたたかう――大ざつぱに言って、私は、それが今私たちがすくなくともその芽を私たちのまわりに見出しつつある『世直し』のありようなのだと思う。」
 この「『生きつづける』ということ」を書いたのは一九七〇年の末近くだが(発表は「展望」一九七一年一月号)、そのあと、そこで述べた「世直し」の思考に基づいて、私は「世直しの倫理と論理」岩波書店・一九七二年)を書いた。「新書」で上下二冊のかなり長いものを、大半、健康を害して入院していた四国の地方都市のベッドの上で書いた。 

 こうした体験のなかで、私は、「動詞」で考え、書くことの重要さを考え始めていた。いや、そう考えて書き出していた。「世直しの倫理と論理」がそのひとつの例にちがいないが、それは私が考えるこうした「生きつづける」ことを基本とした「世直し」の決め手となるのが、まちがいなく、「動詞」で考え、書くことであるからだ。そして、こうした「世直し」も、「動詞」で考え、書くことを考えることも、実際、もうやり出していたことも、すべて「生きつづける」ことのなかで始めたことなのだから、「べ平連」の運動が終ったあとも、私は「生きつづける」かぎり、二つをつづけることになる。

「べ平連」は一九七〇年(一九七四年の誤り――吉川注)一月に「解散集会」を開いている。私は東京で開かれたその集会に出ていない。事務局長の吉川勇一氏がしゃべっていた。「彼(小田)は、昨年、アルマアタで開かれたアジア・アフリカ作家会議に出たあと、ヨーロッパヘ出、そのあとカナダヘ渡り、さらに南へ下って、メキシコ、グアテマラへ渡り、そしてラテン・アメリカ諸国をめぐつて、アルゼンチン、ブラジル、そしてアフリカ西海岸へ渡り、ガーナその他をまわり、キンシャサヘ出て、東海岸のタンザニアを出たわけです。昨日、バンコックヘ電話を入れてみましたが、まだ着いておりません。……要するに小田実氏ぬきでべ平達は解散ということになります。彼が行方不明のあいだにべ乎連がなくなってしまうのも、いかにもべ平連らしいという気がしないでもないですが(芙)……」
 何んのために私が大旅行をしていたのかと言えば、直接にはアジアの市民運動の人たちが集まる「アジア人会議」(は同じ年に実際に開催された)を私がしようとしていたからだ。しかし、「アジア人会議」をするためにどうしてまたラテン・アメリカ、アフリカまで出かける必要があったのか――については、私の「動詞」で考え、書く思考がそうしたふり幅をもつものとしてあったからだ、と答えるほかはない。
 私は旅先から吉川氏に手紙を書き送っていた。彼はその集会で内容を少し紹介した。……「とにかくナイロビまでやって来た。ラテン・アメリカからアフリカに来て、西から東に来るのは、まさにややこしく、くたびれる話であることは判った。まずもって両大陸のあいだには何のつながりもない。そこへもって来て、アフリカの西と東の間にはつながりがない。英語圏とフランス語圏との間には何のつながりもない。そのくせ、ヨーロッパへ行くのはたいへん簡単に出来る。いささか唖然とした」「金も底をついた。ろくに飯も食っていないのでやせている(笑)。いろんなことを考え、思い、まどい、そういう眼でラテン・アメリカを見、アフリカを見ている。結論から先に言うと、根本的な考察が必要だということだ。今さら判りきったことをいうなと君はいうだろう。しかし……ずっと考えてきた」「その一応の考えの結論というのは、ペ平連はやはり、いいにつけ悪しきにつけ、繁栄の中から生まれて来た運動であり、繁栄に対応しようとする運動であったということだ。それゆえにこれからの運動は、それと大きく違ったものにならざるをえないだろうということだ。それがどんなふうなものになるのか、まだよく判っていないのだが、たとえば、そこでもし私たちが運動をつくりあげていこうとするならば、日本がどうすべきか、をさし示す必要があるということだ」(「『べ乎連』回顧録でない回顧」・第三書館・一九九五)。
 こう手紙に書いたからと言って、私は大上段にふりかぶって日本の「変革」なり「革命」なりを考えていたのではない。私自身が「生きつづける」ことのなかで、私はどうあるのか、また、何を、どうすれぼよいのか、を考え、思い、惑いながら、私はこの手紙を書いた。……(後略)