163 鶴見俊輔 (ききて)黒川創 「不逞老人」(抄)(河出書房新社 2009年07月刊) (09/07/17掲載)
2009年4月12日、NHK教育テレビで、ETV特集「鶴見俊輔――戦後日本 人民の記憶」が放映された。これは、実際には2008年9月12日から2008年12月9日まで、4回にわたりインタービューされたもので、合計は8時間に及んだものだった。放映では、正味89分だったもので、かなり限られたものは当然であった。それで、番組の過程と並行し、この編集作業も行なわれ、河出書房新社から、「TVの番組とはまた異なる、独自の趣と深度をもつに至った」(黒川創)この書物となった。
したがって、本書物には、ETV特集にでは出されてなかったベ平連や脱走兵活動なども含まれている。以下に、その一部の最後のところだけを採録する。(4字下がっている文は、黒川創の発言、長い文章のほうは鶴見俊輔の発言となっている。)
(前略)
――脱走兵を海外に逃がすときに、偽造パスポートを作って送り出
したケースがありましたね。ヨーロッパなどの抵抗運動とつながりを
作って、方法を学んだ。そのようなこともやる運動について、どうお
考えになりますか?
第二次世界大戦のときに、ナチスに対して、いろんな方法でレジスタンスが行われた。今は明らかになっている例でも、リトアニア駐在の日本の領事代理(杉原千畝)が、大勢のユダヤ人に日本入国のビザを出して助けてあげたという例があったでしょう。日本の外務省はそれを良い行いだとは認めず、彼を免職にしましたが。彼は政党の運動などとまったく関係のない人です。自分の正義感からビザを出した。ただ、彼は、細君の了解を得てから、そうすることに踏み切ったんだ。国家の命令よりも家族を大切にするなんて、おもしろいところだと思いませんか。
同じように、べ平連の連動だって、それぞれの家族の了解があったからできたんだよ。そこから、国の違いを超えてつながっていけるのが、コスモポリタニズムというものだろう。
――「イントレビッド号の四人」を援助するなかで、脱走兵といえ
ども米兵である限り、彼らの身分は日米安保条約に守られて、日本
での出入国はまったく自由なのだ、ということが改めて判明した。
したがって、彼らの海外脱出を助ける日本人の運動も、日本の法律
では罪に問われないということですね。
そう。小田は文学部出身だから仕方ないけど、良行は東大法学部法律学科卒業にもかかわらず、それまで知らなかった(笑)。だから、そのときは、全員が法律違反をしていると思いながら行動していた。しかも良行は、アメリカと日本から金をもらって作った国際文化会館で、かなり高い役職についていたんだから。ものすごく勇気のあることをしたとは言えると思う。
――ロベール・ドアノー(一九一二−一九九四) というフランスの
写真家がいます。彼も、パリがナチス・ドイツに占領されている時
代に、ユダヤ人のために偽造パスポートなどを作っていたんです。
労働者階級の出身で、印刷工の腕があるから、そういう書類を作る
技術をもっていた。戦後になって、ジャーナリストから「あなたは
偽造のパスポートや身分証明書でユダヤ人を救ったことがあります
よね?」と聞かれて「ああ、けれど、つまらないエピソードだ。困
っているユダヤ人の友人たちを匿って、連中に必要な書類を作って
やった。でもそういう話をするのは気が進まない」とか、そういう
調子で答えています。その種のことを高言するのは、オペラのなか
で「いざ歩まん、いざ歩まん」と歌いながら一歩も進まないコーラ
スみたいな気分になるって(笑)。ずっとパリから離れずに街かど
のスナップを撮り続けた写真家です。
おもしろいね。人民の歴史というのは、そういうものなんだよ。
そういえば、先日テレビ番組を見ていたら、東京大空襲のなかで石川光陽(警察官・写真家、一九〇四−一九八九)が、陸軍の憲兵に殴られながらも、とにかく焼夷弾に焼かれた街の様子を写真に収めていく、そのドキュメント番組をやっていた。つまり、それは、米軍のカーチス・ルメイ少将が立てた焦土化作戦をあぱく証言となる写真なんだ。しかも、占領軍がそのフィルムを取り上げようとするのを、彼はなんとかして守り抜く。何か自分自身の衝動によって、そういう行為をやることはあるはずだ。ただ、そのようなことは、自分が一緒に暮らしている家族の助力を得ないとできない。さらに、自分のつとめている職場の上司の協力が得られれば、もっとやれることは広がるでしょう。でも、問題を国会での話し合いまでもっていってしまって、国家に認可を取ろうとすると、時間がかかってしまって大したことはできないね。
――それは、べ平連による脱走兵援助の活動などから出てきた、新
しく重要なポイントかもしれませんね。こうした、日々の暮らしの
なかでの具体的な行動を伴う運動は、家族の協力、少なくとも同意
を得なくては続けていけない。これ以前の転向論の考え方でいくと、
吉本隆明(思想家、一九二四−)だけは違う線を出していますけれ
ども、基本的には、家族という存在が運動の足枷になったという観
点に立ってきた。つまり、故郷の父母への懐かしさやら心配という
ものが、戦前の左翼運動家たちを転向へといざなったというとらえ
方ですね。もちろん、それはそうなんでしょうが、「家族が足枷だ」
というのでは、その転向論は、もう脈がない。運動の教条を個々の
人間より上位に置いたまま、根腐りを起こしていくしかないと思い
ます。さまざまな孤立のなかで浮きあがってくる貧困や憎悪、テロ
リズムのようなものを、それでは解きほぐしていけなくなる。
そうだね。べ平連の脱走兵援助を含めて、何とかこれを続けてこられたのは、私にとっては姉の助力、細君の助力、〇歳から五歳までの息子の努力、それぞれがあったからだと思う。べ平連の運動は、そういうものだった。
最初に「イントレビッドの四人」のフィルムを撮った場所は鶴見良行の家だったんだけど、もしも、彼の細君が「あなたは東大出なんだから、そんな活動していないでもっと出世するような仕事をしてよ」と尻をひっぱたくような人だったら、あのような彼の生涯は成り立たなかった。彼は子どもはいないし、細君と彼二人だったが、本当によくやったと思うね。
――最後まで、良行さんは、東南アジアの島々に夫婦で出かけてい
くのを楽しみにしていましたね。
みな、細君に支えられているよ。
――血縁の外に開いた、多世代にわたる横のつながりが、そういう
場所から育ってきたと思う。ヒッピズム、生活共同体、性解放とか、
べ平連などの時代から四〇年ほど経って、いまはそれらが合言葉で
なく、むしろ、当たり前の生活感情のなかに溶け込んで、もはやそ
ういう呼び方すら必要ではなくなった。そういう意味で、これも一
つの、六〇年代、七〇年代に対するunlearnの歳月だったのかもし
れませんね。同族としてのつながりではなく、いわば、互いがステ
ップファミリーとしての関係というか。杖をつく老人世代と、そこ
から知恵をもらったりもする孫の世代は、言葉も肌の色も違ってい
て当たり前という、そういう関係が、いまに残った。
そうだね。コスモポリタニズムというのは、そういうところに根づくことのできる何物かだと、私は思っている。
(本書 210ページ〜216ページのみ)