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5. 村井吉敬/吉岡忍「(対談)鶴見良行はなぜアジアに向かったのか?」(月刊 オルタ、2004.8〜9)(2004/08/14搭載)
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ゆるくなっていった良行さん
べ平連の時代・模索の時代
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−−まず、お二人それぞれの鶴見さんとの出会いと、その時代を聞かせてください。
吉岡●僕が大学に入った時ですから、一九六七年四月以降です。「べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」運動の中で知り合ったのですが、鶴見さんのことで印象に残っているのは、服装がどんどん崩れていく人だったということ。最初の一年半くらいは、赤とかエンジ色のネクタイをして颯爽と歩いていたのが、だんだん崩れていくんです。それも、ジーパンを履いてきたり、甚平みたいなのを着てきたりと、「ゆるい」ほうに。若い僕らはとんがるほうへ崩れていくわけだけど、鶴見さんはタイの農民服のようなのを着てきたり、「ずだ袋」みたいなものをぶら下げていたりする。そんなの誰も持っていないから、「ちょっとやるね」っていう感じがしたよね(笑)。彼の生き方ってたぶんああいうところに出ていたんだなと思うんだけど、つまりベトナム戦争であれ、日本政府であれ、ファッションであれ、ある現実に対して批判するのではなく、何かを対置するというやり方。この構えは、何かを正面から批判するよりずっと深いところからの批判になるんです。振り返ってみると、結局そのスタイルでアジア研究まで進んだんじやないかなって思う。
村井●僕は吉岡さんがデモをやっていた頃、やはり早稲田の学生で、たぶん一緒のデモの中にいたんですよ。その中で、鶴見良行っていうのはやっばり目立っていた。鶴見俊輔、小田実、武藤一羊、吉川勇一という人たちとともに社会的にも顔が知られていたから、「あ、あれが鶴見良行だ」という感じで見ていました。最初に接したのは一九七二年頃、彼の職場の国際文化会館でした。そういう前哨戦があって、正式に出会ったのは一九七七年、PARCが赤坂に事務所を置いていた頃です。当時PARCでは日系多国籍企業研究をやっていたんですが、そこにかかわらないかと誘われて行きました。鶴見さんはまだバナナ研究を始める前で、フィリピンのバタアンなんかを歩き始めた頃ですね。その時は「もう市民活動家としてできあがった人」という印象を持ちました。ただ、いわゆるセクト運動などとは一線を画している人だというイメージもありました。
−−べ平連の頃、つまり六〇年代後半から七〇年代にかけて、鶴見さんは何を考え、どんな動きをしていたんでしょうか。
吉岡●そのへんが非常に独特なんだけど、べ平連時代、あるいはもっと遡って六〇年安保の頃から七〇年代後半までの二〇年弱、良行さんは自分の視点の仕組みをどうつくったらいいのか模索していた時期だと思う。PARCを始めた前後のアジアを見ると、フィリピンやマレーシアやシンガポールなどには、軍事政権とそれに抵抗する反権力の人たちがいて、獄中に入れられた人もいたし、文化的に軍事政権を批判していた人もいた。図式的にいえば、鶴見さんはその反軍事政権的な人たちとの関係をつくって、日本国内になかなか聞こえてこない彼らの声を届けたり、海外とのネットワークをつくったと思う。それは後年のアジア研究とはまるっきり違う世界で、政治的な活動なんですよね。
村井●べ平連時代から七〇年代末までの、鶴見良行の試行錯誤の時代あるいは模索の時代について、僕はあまりよくわからないんです。国際文化会館での鶴見良行っていうのは、組織の中で生きなきゃいけない自分と、外の市民活動での自分と、そしてその先の自分があったと思う。思想的にも政治活動だけなのか、もっと思索なり研究もやるのか、その狭間みたいなものを感じていた時代でしょう。ただ、その中で彼がつくりあげてきたアジアでの人脈をつなぐ努力は大きかった。タイのスラク・シバラクサ(社会思想家)、フィリピンのレナート・コンスタンティノ(歴史学者)、インドネシアのスジャトモコ(元国連大学学長)などの反体制・反権威主義の知識人をつないできたわけです。現在はその一つ下の世代が社会の中堅とな
っていて、スリチャイ・ワンゲーオ(チユラロンコン大学教員)やランディ・ダビッド(フイリピン大学教員)などにつながっている。だからいまアジアのまっとうな人物とつながろうとすると、必ず鶴見人脈みたいなところにいきつくんです。……
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アジア太平洋資料センター PARC発行の『月刊 オルタ』2004年8〜9月号より 司会・構成◆藤林 泰)