94.  栗原幸夫「(インタビュー)ベ平連という運動〈経験〉」季刊 運動〈経験〉2004.No.12)(2004/08/14搭載) 

  2004年6月28日に行われたインタビューで、聞き手は、天野恵一・水島たかし。全体で26ページの長さで、以下はその中のごく一部の紹介。

 ……● べ平連と「社会変革」  
栗原:
一つべ平連について言えば、人の運動を批判しないという大原則があるわけ。自分の気に入らない運動でもそれを否定はしない。批判がある人間は、それと違う運動を自分でつくる。その二つの原則が出発当時からあったんです。べ平連の第一回のデモというのは、六五年の四月だったかな。その時のデモは、中立的なんです。ベトナムの解放戦線を支持するというスローガンはその中にはなかった。しかし僕を含めて、解放戟線支持というプラカー
ドを持って行った人間もいたけど、それを排除もしない。それはどうぞご自由にということで。ただし、そのスローガンを無理やりおしつけないでくれというのが、べ平連の基本的なルールだったわけです。中には、もっぱらアメリカの方を向いて、「こんなことをやっているとアメリカは大変なことになるからおやめなさい」という立場の人も多い。知米派ですからね、べ平連の最初の中心部分は。アメリカにもたくさん友人がいるわけ。その人たちに対するアピールとして、アメリカに忠告する運動でもあったわけね。それがお互いに排除しなかった。この、お互いの立場を認めるわけじゃないけど存在を許容するというのは、やはりべ平連がみつけたルールだと思いますよ。『革命幻談』の中でもしやべったけれど、べ平連は定例デモというのをひと月にいっぺんやってるわけ。お互いにみんな違う考えを持っている人がデモを重ねていくうちに、経験の共有化というのが起こるわけですよ。そうすると、同時にそれは人間的な信頼の成立過程にもなるわけね。一緒に行動する中で、やはり、変わる人はどんどん変わってったんです。べ平連全体も随分変わっていった。鶴見俊輔さんの『戦争が遺したもの』(新曜社、二〇〇四年)という本の中でも問題になってるんですが、べ平連は六八年八月に京都で「反戦と変革にかんする国際会議」というのをやりました。このときには「変革」という言葉が入っているのね。そうなると参加戦術なのか知らないけど、党派系の人たちが大挙して入ってきて、最後に立ち上がって「インターナショナル」を歌ったのよ。
天野それは小田実さんの回想記(『「べ平連」・回顧録でない回顧』第三書館、一九九五年)に細かく書いてありますよね。「吉川さんと俺(小田)は立たなかった」という話ですね。
栗原:俺は立ったけどね (笑)。
天野それちょっと。実はそのことを少し聞きたいと思っていたのに、山場にいきなり入っちゃって (笑)……。
栗原:年長の世代の人のなかには、これはとてもいたたまれないというんで、退席というか静かに出ていってしまった人もいました。僕もやっばりこれはまずいなとは思ったんだけどね (笑)。
天野小田さんがこの本の中で、自分は「インターナショナル」は歌わなかった、でも、記録には残ってないけれど、自分も「革命的」な気分になっていて、うわずった発言をした記憶があって恥ずかしいと書き留めていますよね。そうか、栗原さんは「インターナショナル」をお歌いになったわけですか。
栗原:はい、歌いました。場所柄もわきまえず(笑)。この集会については鶴見俊輔さんが情理を尽くした長文の報告を書いています(「日本とアメリカの対話」、『世界』六八年一〇月号)。それは彼がいま喋り散らしているものよりずっと良いね。
天野海老坂武さんの本(『かくも激しき希望の歳月』岩波書店、二〇〇四年)にもこの集会のことが書かれています。海老坂さんのほうは、小田実的なこだわりとは全然逆向きで、ある種の「希望の歳月」の余韻の気分で駆けぬけてるように見えるんですけど。でも、この京都の反戦会議で議論されたことは、結構大きな問題ではないですかね。理念の問題としては、まず。"Fundamental Social Change"ということが掲げられている。要するに革命ですよね、強いて置き換えれば。
栗原:そうですね。ただ、党派が入ってきたわけだけど、それに引っ張り回されるということは全くなかったのね。党派の介入に対しては、海千山千の被除名・元共産党員がべ平連にはいたわけだから。それはやっばり相当防波堤になったと思うよ。
天野その問題と、反戦という課題がどういう関係を持つのかということがこのときのテーマだったわけで、その問題にたいする回答の仕方というのが、べ平連の中でも相当多種多様だったはずですね。そこにいろんな問題があったことは、小田さんの回顧と、吉川勇一さんが鶴見良行さんの著作集の解説(『鶴見良行著作集 第二巻』みすず書房、二〇〇二年)で書いている。ここで、どういうふうにこのふたつの問題についての討論をくぐって、その後どういう風に整理したかで、さまざまに違っていくのではないでしょうか。
栗原:そのとおりですね。べ平連はベトナムに平和を、という最大公約数ではじめた運動だから、そこに社会変革という課題を入れるのには反対だという意見は当然あるわけ。そういう立場の人たち、たとえば声なき声の会の小林トミさんなんかもそうだったと思うけど、だからと言って、その人たちも社会変革に反対なわけではないんです。べ平連という形式をもっと大事にしてくれということだったとおもいます。もっと平たく言えば、時流に流されるなということでしょう。これはとても大事な問題だったとおもいます。しかしべ平連は組織ではなく運動だというのが最大のメリットですね。だからそれは変わることができる。経験を重ねて変化する。それは良いことです。しかしまた、時流に流される危険もある。当時の時流は一種のラジカリズムです。そこにプラスとマイナスがある。だけど、ここで初めてべ平連は、「社会変革」という問題にぶつかったわけですね。それは単に時流に流されたのではなくて、運動の必然的なプロセスだっただろうとおもいます。鶴見良行さんも含めて。"Fundamental Social Change"と言い出したのは鶴見良行さんだったと思うよ。
天野ああ、そうなんですか。
栗原:そうじゃなきやああいう英語使わないよ(笑)。
天野そりやそうですね(笑)。日本語でいいのに、"Fundamental Social Change"と言ったところがミソですよね。「革命」という言葉でそれを言わなかったところにもうちょっと違った思いがあったんでしょうから。
栗原:別の意味づけをそれぞれの潮流がやる。僕たちの立場は、やはり、戟争をなくすためにはそれこそ社会が変わらなきやダメなんだという意味で、"Fundamental"と言つたわけね。そうじゃなくて、もっと軽い意味で、要するに軍需産業だとか経済の軍事化をやめさせるとか、そういう抵抗的な理念としてこのスローガンに共鳴した人たちがいる。鶴見良行さんなんかはそういう方だったと思います。ただ、そういういろいろな解釈の仕方はあるけれども、やっぱり社会を変えないと戦争はなくならないという認識に、べ平連はあそこで到達したと思います。"Fundamental Social Change"ということの出し方が非常に唐突に思われて、まさにこれは「革命」の言い換えではないかというふうに受け取っちゃった人もいる。しかもそれに「インターナショナル」の歌がかぶさるとなると、それはやはり不可避的に出てくる反応ですよね。それでもべ平連は分裂しないんだなあ。……
     (『季刊 運動〈経験〉2004.No.12 軌跡社刊 より)

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