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3. 椹木野衣「黒い太陽と赤いカニ」(中央公論新社、2003.12.)(2004/07/05搭載)本書は、雑誌『中央公論』2002年1月〜2003年1月二連載されたものに、大幅加筆されて出版された。その本の最後の「あとがき」の一部をいかに抜粋する。
……米英軍によるイラク攻撃が迫る中、わたしは、かつてない感情の高まりが自分に生まれるのを抑えることができなかった。にもかかわらず、それをどのようなかたちで表現したらよいものか、まったくわからず、途方にくれていた。
そんなとき、かつて米国『ワシソトン・ポスト』紙で、「殺すな」という日本語の文字が、一面全体を飾る出来事があったことを知った。岡本太郎の字だった。「べ平連」が広告主となって発起人を募り、太郎の題字によって、ベトナム戦争まっただなかのアメリカに、ストレートに「殺すな」と呼びかけたのだ。
現在のわが国の「知識人」の状況を思うに、これはとてもラディカルな行為であったと思う。もちろん、資本とメディアが世界を覆い尽くした現在では、その有効性は疑わしい。にもかかわら
ず、一九六七年という今から三十五年以上前の新聞に殴り書きされた太郎の「殺すな」に、わたしはかつてない新鮮な衝撃を受けたのだった。
このような重要な歴史的な出来事に、なぜ、気づかなかったのか。具体的にいえば、本書でも一章を割いて当然のエピソードである。けれどもわたしは、このことを、連載終了後になってはじめて、岡本太郎記念館の岡本敏子さんから教えられたのだった。知らなかったのは、となりに同席した小田マサノリも同様であった。「阿呆! そんなことも知らないのか!」――そのときの敏子さんのことばは電撃のようだった。実際、なぜそんなことも知らなかったのか。だが、少なくともわたしのまわりには、そのことを語るものはいなかった。世代の問題だろうか。
けれども、その時わたしは別の解釈をした。太郎の「殺すな」が、世界がふたたび戦乱の闇に包まれつつある今この時まで姿を隠していたのには、なにかわけがあるのでほないか。まるで妄想のようだが、それは実感だった。
それから数ヵ月後、「目玉男と太陽の塔」のエピソードでいささか唐突に終わった本書を、行動によって書き継ぐかのように、わたしは、自身が発案者となって「殺す・な」という反戦ユニットを結成し、太郎の「殺すな」を旗に掲げ、美術家を中心とする多くの友人たちと一緒に、街頭の反戦デモ行進を先導していた。小田マサノリも一緒だった。
今さらどうして反戦デモが有効なのかという声が聞こえてくる。批評家が「反戦」でアーティストを束ねる行為に問題はないかという批判もあった。けれども太郎の「殺すな」という文字には、なにかそれを掲げて路上に飛び出さずにはいられないリアリティのようなものが感じられた。判断のうえ行動したのではない。気がついたら路上に立っていた、というのが正直なところなのだ。
けれども、生まれて初めて体験した路上でのデモは、実に新鮮な発見に満ちていた。わたしたちは普段、横断歩道を渡るか、せいぜい歩行者天国くらいしか路上に出ることはない。にもかかわらず、路上は、わたしたちが生きる都市空間の多くを占めている。が、日頃そこは法律や車によって封鎖され、わたしたちはそれを、端に立って眺めるしかないのだ。けれども、あらためて世界史を繙(ひもと)くまでもなく、歴史的な変革の動きはつねに、路上から生まれている。太郎の「殺すな」とともに路上に立ち、そこからしか見えない風景に身をさらすこと――それは、あらゆる既成の価値が有効性を失いつつある今、わたしたちがそこから思考を組み立て直し、ふたたび行動を開始するために、数少ない 「よい場所」にちがいない。
二〇〇三年、わたしは太郎の 「否(ノン)!」によって、いつのまにか「そこ」へと押し出されていた。……