88. 向井孝(遺稿)「表現・発散・解放としてのアナキズム」(『黒 La Nigreco n-rp/10』終刊号 「黒」発行所、2004.06.)(2004/06/01搭載)
以下に転載するのは、昨年8月15日になくなられた向井孝さんの遺稿の文章の一部である。これについては、掲載誌『黒』の冒頭で、「断り書きとして」と題して、水田ふうさんが次のように書いている。
……この「表現・発散・解放としてのアナキズム」という原稿は、鎌田慧さんの依頼を受けて「新日本文学」のアナキズム特集号(二〇〇三年九・一〇月合併号/特集アナキズムの精神)に載るはずやったもの。締切りが七月末というのを向井さんは八月一〇日まで延ばしてもろて、もうあとちょっという八月六日、朝方まで書いてて、そのままになった。
鎌田さんは途中のままでいいから「新日文」に載せたいいわはってんけど、向井さん自身が「よし」と云ってないものを発表するのはいややろと思って掲載は遠慮してもらったんや。……
この文章はかなり長文だが、その中で、直接「ベ平連」に触れた部分のみを転載する。なお、中島雅一、水田ふう、向井孝さんの3人が「刊行同人」だった雑誌『黒』は、この第10号「向井孝 特集号」が終刊号である(創刊は2000年7月)。この号には、向井さんを知る多数の人びとが、向井さんの思想や行動、向井さんの思い出などを寄稿しているが、その中には、ベ平連やベトナム反戦運動に触れた文章もかなり多くある。『黒』終刊号は、次で入手できる。
167-0042 東京都杉並区西荻北2-31-20-201 中島方 「黒」発行所 定価は¥1,000+税 郵便振替口座は、名称:水田ふう 口座番号: 00840-9-34502 e-mail: lanigreco@yahoo.co.jp
URL:
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/index.htm
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「表現・発散・解放としてのアナキズム」(一部のみ) 向井 孝
C 組織でない「運動体」
●さて、五五年原水禁運動をへて、六〇年の「安保」、つづいて六五年の「ベトナム反戦」へと、時代も状況も動いていくんやけど、そこでの「べ平連」の出現はとくに画期的な組織の変化やった。
▲わたしも「べ平連」やったけど、「べ平連」は「組織やない運動体や」いうてた……
●そうや。組織でない運動体! これ何となく軽くみんなが使ってたけど、ぼくにとっては三拝九拝して神棚に祭りたいほどの意味をもっていた。それ、アナの云うてることの具体化やんか。
▲わたしはなんとなく組織いうのが好きになれんかったから、「運動体」という言い方はええなあと思ってたけど。
●その当時、べ平連からすこしおくれて発足したぼくらの「ベトナム反戦姫路行動」の何とない申合わせをかいてみよう。
姫路行動とは――
1 ここは個人が自分で責任をもつ者の集まりだ。
2 やりたいものがやる。云い出しっぺがやる。
3 代表なし。その時、その人がその時だけなる。その意味ではみんな代表。
4 政治的党派性お断り。
5 非暴力直接行動を楽しもう。……等々。
当時に全国で簇生し、二百数十をかぞえた各地の「××べ平連」も、多少とも、これとよく似たものであったにちがいない。
▲アナも「非暴力直接行動」いうのは少なかったやろ。べ平連の一部には「非暴力反戦行動」いうのがあって、六七年に佐藤首相の訪米に抗議して羽田でねころんで、十一人全員逮捕されたりしたけど……
●地方のべ平連はみんな自立し個立してて、横の連繋はあまりなかった。しかしお互いの機関紙交換などで、仲間意識はつよかった。それを一そう強めたのは、東京から発信される「べ平連ニュース」などやった。
▲当時のべ平連事務局の吉川勇一さんが、「現代思想」(二〇〇三年三月号、特集反戦平和の思想)で座談をやってはる。それをみるとベ平連がベ平連になるまでにいろいろあった んやなァ。
●べ平連以前と以後とどう変わってたか。一部分だけそれ を抄出しよう。
六〇年安保闘争までは大規模な運動というのは、社会党・共産党といった野党勢力や、総評・中立労連といった大労組が中心になり、「動員」や「資金」も担うのが前提となっていましたし、六〇年代後半のベトナム反戦市民運動にしても、最初は一般の市民の集まりといいながらも、学者、作家、芸術家といった著名知識人がよびかけ、こんな人たちが呼びかけてんだからいいんじゃないのと、一般の人びとが出てくるということでした。…
ベトナム戦争時に五万、六万の大きなデモが行われたといっても、最初のうちは呼びかけは著名人の連名の形をとりましたし、それに全国からバスを仕立てて東京に集まってくる、つまり全国動員でした。
さっき、六〇年安保までは、……社・共・総評といった大組織が中心だった、と言いました。……そこでは、一般の人びとの思いなどとは無縁な、大組織間のかけひき、取引きに精力が注がれました。……大集会の呼びかけ人を決めようというようなことになると、社会党系、共産党系の文化人のランクや数が問題になり、その「オブザーバー」(日共)を相手に、こつちはこれを外すから、そっちもこれを削れ、といったような取引きが行なわれるのです。著名人も大衆団体もまさに将棋の駒みたいでした。
……ベトナム反戦の中で、諸グループの共同行動が用意されるときには市民運動としては、そういうことだけは決して持ち込ませないようにしよう、という努力がなされたのです。六八年六月一五日の共同行動では、共産党系の文化団体連絡会議(文団連)やリアリズム写真集団などからは、「反共団体」である新日本文学会を排除したいという主張が強く出され、その見返りに民主主義文学同盟も下げてもよい、などという、今ではあきれ返るような取引き提案も出されたんです。
……ベトナム反戦運動では、そこに参加していた知識人の影響力が非常に大きくありました。一番大きかったものの一つは小田実の「加害者/被害者論」です。他に国家から個人を切り離すという提起もありますね。もう一つは鶴見俊輔の「市民的不服従」の思想です。
さきほど、運動の初期は、著名人が呼びかけ、一般市民が応ずるという関係があったといいましたが、しかし運動が展開されてゆく中に、著名人や知識人の権威への依存や従属があったわけではない。偉い小田さんが言ったからとか哲学者の鶴見さんが言ったからということはなくて、そういう人びとを含めて、平等に議論できたですね。……平等な議論の場があって、若者たちも結構勝手なことを言っていました。
●べ平連は、若者たち――何かやりたくて、やらねばならぬとうずうずしてる人たちにとって、これはちょっと今までとちがって、なんか新しいおもしろそうな運動や、みたいなことでひとり勝手にうごき出したものやった。
そのひとり勝手さがまたべ平連やということでいっそうそんな若者らの動きに拍車をかけた。
▲私は、そのときいなかの洋裁学校に通ってて、そんなことを話す友達もいなかったし、べ平連がいままでと違う新しい運動やいうことの自覚もなかったけど、なにしろ自分で考えて自分でやるのがべ平連やいうので、そらそうやと思って、わたしも一人でかってにビラまきをしだしたんやつた。
●しかし、「組織でない、運動体」は、ただべ平連だけやった。その他あまたの既製組織は、やっぱり旧態依然として全く変わらんかった。
▲七〇年以降、べ平連の影響をうけたような個別課題をもつ住民運動や反公害運動なんかの小グループや組織が出来てきたとおもうんやけど……
●ベトナム戦争が終結し、べ平連も解散すると、もう見事といえるぐらいぴたっと「運動」がとまった。空白が数年間つづいた。そういうなかで少数グループのうごきがたしかに継続されてたけど、それは、離散していく市民とすこしでもつながろうとする、多くは除名脱党経験をもつ活動者などのガンバリに支えられてのものやったというほかない。べ平連解散後の生き残りも、また同様の道を辿るほかなかった。
●ところであっさりいって、組織って何やと思う?
▲うーん。とにかく何か目的があって、それを達成させるために人を集め、金を集め、運動し、その事務をし……といろんな仕事をこなすためのひとびとの集まり、団体、それが組織やろ。
●その組織が運動の名目で運動以外のことに介入するとしたら、どうしたらええ。
▲運動以外のことに介入って?
●組織の代表は誰にしろとか、どこの組織とはいっしょにやるなとか……
▲そんな介入はお断りや。内ゲバしてるようなセクトが名前を伏せて介入してきたり、いつもそんなことで運動がガタガタもめたりするんやんか。
●じゃあ、こんどは運動体って一体なにや。
▲動く一人ひとりが主体の自由なグループ、ネットワーク……でも、当時はそんなことの自覚も意識もなかったけど。
●べ平連の「組織でない、運動体や」いうのは、それまでの組織観をぶち毀すとこまでいかんかった。その意図もなく、或は成行きみたいなことやったかもしれへん。しかし、組織からの離脱の意味を創り出し明らかにしたと思う。
▲「べ平連」は加入制やない。「ひとりひとり自分で出来る事を自分で考えてやる運動」や。「そのときわたしがべ平連」や。自分自身のもうじっとしてられん「おもい」からやるもんや。その「おもい」で他の人ともつながってる。
「代表や責任者がいない」のは、そのときのわたしらにはそれが当然のことやった。そやから広がった。
●それは、たとえば取締り当局にとっては前例もないことで、手の打ちようがないことで当惑することやったやろう。
出るも入るも自由で、自分が自分の責任をもついうのは、集団の中の個を保証してることや。けど、それまでの組織はその反対やった。いうたら軍隊が最終的なかたちやな。
▲『暴力論ノート』にでてくる「ひとりの群れとして」ということに通じるものがべ平連にはあったんや。……
(『黒』終刊号 p.13〜16)