84.  鶴見俊輔/上野千鶴子/小熊英二・「戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く」(新曜社 2004.03.)(2004/03/10搭載)

 この本には、「三日目」のやりとりの中に「ベ平連と脱走兵援助」という章があり、29ページが割かれており、そこは、「小田実との出会い」「『討入り』気分の脱走兵援助」「銭湯に入った脱走兵」「ベ平連の組織運営」「疲労と仁義」などの節にまとめられています。
 全文は本書自体に当たっていただくことにし、ここでは、どんなやりとりの様子なのかという見本として、その中の「疲労と仁義」という節の中のごく一部だけをご紹介します。

……上野 内ゲバやスパイだけじゃなくて、べ平連の名で実力闘争をやろうという若い人たちも出てきたと思いますが、そういう場合はどうなさいました?
鶴見 そういう面でも、困ったことがあった。六八年八月に、京都の国際会議場を借りて、国際会議を開いたんだ。あそこの館長の高山義三は戦中でもきちんと無実の被告のために闘った人で、自分は普通の自民党員とは違うぞ、という気分を持っていた。そして桑原武夫と松田道雄と奈良本辰也が代表で会合に使いたいと申請したら、認可してくれたんだ。
 ところがその会議のあとのデモで、機動隊とデモの中間に、硝酸の入ったビンを投げた奴がいるんだ。べ平連の学生も火傷をした。私はデモのなかに勝手に入り込んできた新左翼のセクトがやったんだと思うが、よくわからない。だけど新聞には、べ平連が硝酸ビンを投げたとか書かれてね。そういうのは、非常に困った。
上野 けれどそういう動きを、統制しょうとか、排除しようとかというふうには、されませんでしたね。                                   
鶴見 まあ六五年四月の発足から、七四年一月に解散するまで、八年九ケ月のあいだでいえば、とにかく逃げ切ったというところです。失敗はあったけどね。
上野 たとえば?
鶴見 六九年ごろは、べ平連が中心になって、東京で何万というデモができたんだ。そういうときに、そこに入り込んできて、トラックの上とかに乗って、マイクなんかでアジったり命令するのが好きな学生とかがいるんだよ。
上野 ああ、いるでしょうねえ。
鶴見 これは東京の話だから、私は現場にいたわけじゃないんだが、七〇年六月のべ平連や全共闘、反戦青年委員会なんかの共同のデモで、怪しい奴がいるといってある人を若い学生が捕まえて、ヘルメットの学生たちがとり囲んだんだよね。
小熊 当時はデモ隊のなかに、私服の公安警察官がまじっていることが少なくなかったから。
鶴見 それで、おまえは何だ、おまえの家はどこだ、電話番号は何番だ、とか問いただした。だけど彼が言った自宅の電話番号に電話をかけてみたら、誰もいない。彼は、妻は「婦人民主クラブ」でデモに行っています、娘も学生で全共闘のデモに行っていますとか答えたんだけど、嘘を言うなとかいうことになって、若い奴が殴ってケガをさせちゃったんだよ。殴った奴は、ある大学で学生運動の指導者クラスだった奴でね。学生運動も過激化していた一方で、警察の暴力もひどくなっていたから、
気が立っていたんだ。殴られた人を助け出したのは、東大全共闘の人と、ある大学べ平連の活動家たちだった。
 だけどその人は私服警官なんかじゃなくて、私もよく知っている朝日新聞の記者だったんだ。正確にいえば殴ったのはべ平連のメンバーじやないとしても、とにかくべ平連がかかわったデモでそういう目に合わせてしまった。それで小田と吉川と福富節男が、病院まで謝りにいったんだよ。
上野 そういうとき、謝りにいくという行動をされるわけですね。べ平連は除名ができるような組織にはなっていないと思うんですが、「うちの若いもんが失礼をいたしました」というご挨拶にはいらっしゃるわけですか。
鶴見 行きます。ヤクザの仁義ですから(笑)。
上野 そういう場合、べ平連は統制はしないし、とれない集団であるから、べ平連を名のる者がなにをやっても責任はない、と開き直るというやり方もありますよね。
鶴見 開き直らない。とにかく責任は負うという立場です。
小熊 つまり、統制はしないが責任は負うということですか。
上野 よくそこまでおやりになりましたね。それは最高の倫理じゃないですか。
鶴見 論理的に考えると変なんだけどね(笑)。まあそれでも八年間はもった。私もへトヘトだったけど、まあ京都だったし、大学を辞職したあと七二年から一年はメキシコで客員教授をやっていたからね。小田や吉川とか、そのほかいろいろな人は、もっとたいへんだったんじゃないの。だからパリ平和協定でベトナムから米軍が撤退して、七四年一月にべ平連が解散したときには、ほっとした気分だった。
上野 そりやそうだと思います。
小熊 よくそんな、統制はしないが責任だけはとるみたいな姿勢で、八年も続けられましたね。そういう情熱は、どこから来ているんですか。やはりそれは、鶴見さんが何回も書いておられるように、戦争中に行動できなかった悔恨を、戦後の行動で取り返してやろうということですか。
鶴見 それはそうですよ。だから、このくらいは当然だと思っていました。
 だけどそれだけじゃなくてやその、細君たちにすまないじゃないですか。べ平連の活動をやった連中は、細君にすごく迷惑をかけているんだよ(笑)。とにかくベトナム戦争が終わるまではがんばらないと、それを許してくれた細君たちに、すまないじゃないの(笑)。
上野 はははは(笑)。それも仁義ですか。
鶴見 途中でやめたら、細君たちにすまない。ほんとうにすまない。そう思ったんだ(笑)。
小熊 生き方が試されているという感じですか。でも、しんどくありませんでしたか。
鶴見 しんどかった。だけど、とても愉快な体験だった。.
上野 しんどいけど、愉快だったと?
鶴見 その二つは同じことですよ。そういうもんでしょう? 人生ってそういうものなんだから。もうしょうがないよ、生まれてきちゃったんだから(笑)。
上野 それで、八年間疲れ果てて、何かをやり遂げたという気分におなりですか。
鶴見 日本でこの種の運動ができたということに驚いた。私が非常に低く評価している日本人が、こんなことできたのか、という感じですよ。やってよかったと思う。だけどホントに疲れた(笑)。 
 
 (『戦争が遺したもの』p.384〜387)

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