8
3. 対談・鶴見俊輔/上田耕一郎「世界と日本、歴史と哲学、運動」(新日本出版社 『経済』2004.01.)(2004/02/29搭載)「大型対談」と銘打ってあるように、この対談は、注を含めて44ページもあり、さまざまな問題が論じられている。その中で、ベ平連に触れられているのは、以下の2箇所である。
日本共産党は、戦争に一度も賛成したことはない
鶴見 私は、日本共産党と同じ年、一九二二年に生まれたので、八一歳です。日本共産党はこの長い間、日本の戦争に賛成したことは一度もない。これはすごいことなのです。だ
からこの一点について、私はまったく無条件に日本共産党を支持している。個々のことで、こうなったからこうだ、ああなったからああだというような問題ではないのです。このことに脱帽するというのが、私の政治思想の根本にある。それは一貫して変わらないのです。
しかし、戦争反対の問題から離れれば、いろいろと意見があるわけで、戦争中もずっと感じていたことがあるのだけれども、自分ではっきりした言葉に表せなかった。戦後になって、「赤旗」とか『前衛』で繰り返し悪口を言われるようになってから、いくらか考えるようになった(笑い)。
上田 そんなに、何度も批判していますか。
鶴見 いやぁ、数えてごらんなさいよ(笑い)。
上田 戦前の日本共産党の戦争反対の話がありましたので、こういうことを思い出しました。ベトナム戦争が激化した一九六六年八月一五日にべ平連主催で、徹夜のティーチ・インがありました。中曽根康弘氏や宮沢喜一氏も自民党の代表として出てきました。日本共産党として私が出席しました。そうしたら幕間に、久野収さんが私を呼んで、「上田君、来てくれてどうもありがとう。本当は宮本顕治さんに来てもらいたかったんだ」と言われる。宮本さんに要請があったが、宮本さんが代わりに上田お前出ろということになったんでしょう。そのとき久野さんは、「宮本さんが出席したら、このティーチ・インのテレビで日本全国に、この人はあの戦争に反対し抜いた方ですと紹介するつもりだったんだ」と、そう私に言われたのですよ。そのことを、印象深く覚えています。……(23〜24ページ)
女性の社会的活動への参加
鶴見 ウィングズ京都というところで、女の人の活動センターからイラク戦争反対がはじま.った。これは始まったのが九・一一のすぐあとだったのですが、このときに行ってみたら、参加者は、一〇〇人の女の子、五〇人の男の子。そこが「べ平連」のころとは違います。「べ平連」のころは男が主流で、女が入っているといっても、リーダーは男だった。逆に裏方の脱走兵援助は、当時も中心は女だった。脱走兵援肋は、現場の指揮をとったのは最後は女です。そこが「べ平連」と脱走兵援助の裏表の関係でした。
ところが、今度は、少なくとも京都では、女が一〇〇人、男が五〇人です。しかも、その男を見ると、女に引っばられてきている。私は女に引っばられる男というのは、男の新しいタイプではないかと、そこに期待をもっています。
たとえば数年前、私の姉の和子が「朝日賞」を受賞した時に、彼女は車椅子だから私が付き添いで行った。同じ時に緒方貞子が特別賞を受賞していたが、彼女は国連の難民高等弁
務官の仕事があるから釆ていなかった。代わりに旦那の元日銀理事の緒方四十郎さんが受けたのですが、本当に喜色満面でした。私は、その顔を見ていて、ああ新しい時代が来たと
思つた。もし与謝野晶子が「朝日賞」をもらって、病気か何かで来られなくて鉄幹が受けたとしたら、鉄幹はホッペタが引きつっていたと思う。けれども、緒方四十郎はまったく違っていた。そういう時に、私はひじょうに愉快に感じます。新しい日本だと思います。女に引っばられる男というのは、これからの新しい動きです。そう考えると、ちょうど一世紀まえの一九〇三年に『婦人之友』(40)が創刊されてから続けられてきた流れが、いまようやく新しい動きとして出てきた。だから京都の動きは、小さいけれども有望なのです。……(46〜47ページ)