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2. 篠原一/和田あき子編著「高度成長の光と影」(かわさき市民アカデミー双書3 2003.11.)(2004/02/29搭載)この本の第一部は、1971年4月から76年8月まで続いた雑誌『市民』にかんする総括、分析である。それ自体、重要な論文であるが、その中の第3章「 雑誌『市民』と新しい社会運動」に、「政治的運動を位置付ける〜反省平和と革新自治体を中心に」の節があり、そこではベ平連の運動がとりあげられ、分析されている。
(2)反戦平和運動(「ベトナムに平和を!市民連合L、以下べ平連とする)
立ちあがった「市民」……米国の反共世界戦略に組みこまれたベトナム戦争が、北爆開始で本格化した直後の六五年四月、べ平連はスタートした。ちょうど二つの安保闘争を結ぶ中間点にあり、七三年戦争の一応の終結まで歩み続けた。ガリ版ずりの「べ平連ニュース」創刊のことばに「私たちはふつうの市民です……つまりこのパンフレットを読むあなた自身……」とあるように何らかの組織やイデオロギーから出発したのではなく、自然発生的であったといわれる。運動の目的は三つのスローガンすなわち 「ベトナムに平和を!ベトナムはベトナム人の手に!日本政府は戦争に協力するな!」とあるように本質的には反戦平和を願う市民の運動である。代表をつとめた小田実は「いろんな人がいろんな考え方をもってきていた。反戦″の一点に絞った運動であり、市民運動と称した最初ではないか」と回顧している。権利主体としての「市民」概念はすでに六〇年安保闘争時に久野収により提唱され、雑誌『市民』の対談では、生活主体概念をもつ「住民」と一応区別して語っている(U−5)。住民運動のもつ地域性、特殊性にとどまらず、より普遍的で人間的意味合いをもつ地球規模の運動は「市民運動」にふさわしい。対談のなかで松下圭一は「………「市民」とは特定の人間型を意味し、特定の型の発想・思考・行動が関り合ったエートスをもつ自主的な人間のタイプ」と述べている(U−5)。現実には振り幅の広い考え方をもって集まった人々が定例デモを共にしながら考え、考えながら運動のなかへ入っていったのである。いくら何でもこれはひどすぎると思うとき、市民は国家に抵抗する。「市民」とよばれるタイプの人は、日本社会にいまだ根強い「お上意識」から脱却した自律的な行動の人である。戦後ようやく二〇年、戦争体験をもつ戦中派は具体的殺戮をみて、民主・平和教育を受けた戦後派などと共に立ちあがったのである。
べ平連と雑誌『市民』……米国の北爆に対し運動の立ちあがりは数か月遅く、マスコミの方が先行した。政党や労組など既成組織は何もせず、市民は関心があってもどうしたらよいかわからず、自発的にプラカードを首にぶらさげ銀座を歩いたグループなどがみられたという。日本で一番最初のベトナム反戦デモは、ベトナム人留学生が東京でやったデモであったと吉川勇一は『市民』のなかで象徴的に語る。代表の小田とよいコンビをなす事務局長の吉川は、『市民』にもたびたび登場し存在感のある討論をしている。べ平連の解散に関する特集には吉川のほかに長年の活動家であるユニークな数学者、全共闘あがりで次第に事態がみえてきて自立しようとする青年、、相模原米戦車搬出阻止運動で起訴され係争中の青年二人が登場し、八年間の運動からえた諸問題を語る。吉川は参加の仕方について「パートタイム型」と「全日制型」に分け、前者は政治と私の時間配分は自由だが、後者は二四時間政治のなかにたたき込まれていることをみずからの経験から知ったと述べている。運動をつくった人と後から入ってきた人との間の信頼関係は必要だが、既成のものが圧力になったり安全地帯になって甘やかしてもいけない。べ平連は独創的で広がりもあり、回復力もある運動だったが、下手なところもあったので目的を達成した段階で解散した。運動のなかから生まれたいろいろなグループの新しい活動に期待すると結んでいる(T−18)。べ平連がつくりあげた「共同行動の原則」は運動を外に向かって広げるもので、当初から小田が望んでいたアジアの広がりのなかにこの運動を位置づけることにもつながる。日高六郎はのちに述べるように『市民』のなかで「市民運動はべ平連のごとく間接経験の問題にも広げて責任を考えねば私たち自身を救うことにならない」と述べている(T−13)。市民も雑誌もこうした問題に常に敏感でありたいということであろう。
べ平連運動の位置づけ……べ平連の反戦運動は七〇年安保時には政治的に有利な展開ができると思われたが、統一デモのつまずきと政府側の危機対策により勢力を削がれた。安保の固定化意識が影響を及ぼしたかもしれない。安保条約は、ベトナム戦争で初めて実際の戦争に基地と施設の供与で有効に使われた。それゆえ加害の視点からの反戦反安保運動でもあった。しかし反安保の運動としては敗北であった。代議制民主国家にあって、政治に任せられず、解決の回路もみいだせないとき、市民はどうしたらよいか。意見表明の場をもたない自立的な市民はみずから歩きだして訴える。デモは誰にでもできる自己表現の場であり、不特定多数の人に対する問いかけでもある。べ平連的エートスからでてくる「市民」こそ、制度としての憲法や民主主義を社会の底辺で支えている存在なのである。……
(第3章「
雑誌『市民』と新しい社会運動」の中の「政治的運動を位置付ける〜反省平和と革新自治体を中心に」より)