79.  平井一臣・「ヴェトナム戦争と日本の社会運動――ベ平連運動の地域的展開を中心に――」( 歴史学研究会編集『歴史学研究』増刊号 青木書店 2003.10)(2003/11/22搭載)

 以下は、2003年度歴史学研究会大会(テーマ=公共性再考――グローバリゼーションとナショナリズム――)での、「現代史部会」(テーマ=ヴェトナム戦争と東アジアの社会変容)における研究報告の一つとして発表されたもので、同研究会編集『歴史学研究』増刊号 2003年10月(青木書店 刊)に掲載されたものを、筆者、平井一臣さんの了解を得て、全文転載する。筆者からご快諾いただけたことに感謝する。なお、平井一臣さんは1958年都城市生まれ、現在,鹿児島大学法文学部教授、鹿児島県地方自治研究所理事長で、ホームページは http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9261/ 。

 ヴェトナム戦争と日本の社会運動
  ――ベ平連運動の地域的展開を中心に――


 平 井 一 臣
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 はじめに

 このセッションは「ヴェトナム戦争と東アジアの社会変容」というテーマ設定であるが,本報告は日本の社会運動の分析をつうじて,日本社会の変容を考え,さらに東アジアというより広い文脈のなかで位置づけてみたい。
 ヴェトナム戦争は,とくに1965年2月のアメリカによる北爆開始以降,日本にも大きな影響を与えた。しばしば指摘されるように,政治面では日米安保条約に基づく対米協力の強化,経済面ではヴェトナム特需による高度経済成長の持続,そして,当時アメリカの支配下に置かれていた沖縄では,米軍基地がフル稼働し,また米軍による犯罪やトラブルなども多発していた。こうした政治,経済両面での影響を受けるなか,社会運動においては,ヴェトナム反戦運動が一定の盛り上がりを見せ,それは1960年代後半の日本社会の有り様にも影響を与えた。
 60年代後半の日本の社会運動は,歴史的には1960年安保闘争における大衆運動の波が引いたあとに再び起こった大衆運動であり,ヴェトナム戦争はその引き金となった。しかし,岸内閣による強硬な国会運営に対する危機感をバネとし,民主主義擁護をスローガンとして盛り上がった60年安保闘争とは異なり,戦後民主主義に対する懐疑や批判を伴う運動が60年代後半の社会運動の特徴でもあった。それまでの日本の社会運動の流れを一定程度引き継ぎながらも,従来にはない主張やスローガンも登場したわけである。また,世界的には,先進資本主義諸国における「若者の反乱」のなかで盛り上がった運動でもあり,世界史的な共時性を有した運動であった。さらに,付け加えると,昨年度の歴史学研究会大会の荒川報告(荒川章二「占領の『清算』と新しい社会運動」『歴史学研究』第768号,2002年10月,増刊号)で指摘されたように,1960年代後半の社会運動は,革新自治体,地域住民運動,沖縄の復帰闘争など,多様な課題を掲げ多様な担い手が進めた社会運動が重層的に展開された運動でもあったと言える。
 60年代後半の日本の社会運動は,従来の社会運動との連続と非連続,世界史的な共時性,日本国内の社会運動の重層的展開,という三つの視点から捉えなおすことが不可欠である。この報告で取り上げるべ平連(「べトナムに平和を!市民連合」)は,60年代後半の日本の社会運動を考察するさいに無視することができない運動である。すなわち,べ平連の運動の担い手には,60年安保やその他の社会運動の経験者と,べ平連への参加により初めて社会運動を経験した者,すなわち社会運動への新規参入者が含まれ,戦後日本の社会運動との連続と非連続の両面を備えた運動であった。また,べ平連の運動の参加者の多くは当時の若者だった。さらに,アメリカの新聞に意見広告を掲載したり,アメリカの反戦活動家を招いた講演会やシンポジウムを開催したり,また,アメリカ軍脱走兵の支援活動を行うなど,べ平連の運動は国際的な反戦平和運動とのつながりをもった運動であった。そして,べ平連の運動は,「中心なき運動体」であったために,べ平連の運動内部に多様な課題と担い手を抱えた重層性をもった運動でもあった。
 さて,べ平連については,これまでにも研究がなされており,また,べ平連関係者による回想録なども出版され,運動の概要やイデオロギーについて,ある程度のことは明らかになっている。ただ,これまでの研究は,基本的には東京を中心としたベ平連の運動に焦点が当てられており,また,小田実や鶴見俊輔など,べ平連の運動に積極的にかかわった知識人層の思想と行動からべ平連の運動を評価するという傾向が強かった。べ平連の運動における東京のベ平連が果たした役割の大きさや,積極的にかかわった知識人層の役割を否定するわけではない。しかし,べ平連の連動は,全国各地で展開された運動であり,と同時に,べ平連の運動は東京を頂点とする中央集権的な運動ではなかったことからすれば,東京以外の地域で展開されたべ平連運動を視野にいれた検証の作業を行う必要があると思われる。
 以上のような理由から,今回の報告では,べ平連運動を地域的展開という視点から検討して,この運動がもった歴史的意味をさぐってみたい。その場合,とくに注目したいのは二つの点である。一つは,ベ平連運動全体のなかで地域べ平連の運動はどのように考えられていたのかという問題,もう一つは,実際に地域べ平連の運動はどのようなものだったのかという問題,この二つである。言い換えれば「ベ平連運動のなかの地域」という問題と「地域のなかのベ平連運動」という二つの問題に光を当ててみたいということである。
 本論に入る前に,このような課題に取り組むうえでの資料的な問題について指摘しておきたい。ベ平連関係の資料はこの間,いくつか出版もされているが,地域べ平連に関する資料は,それはど多くはない。今回は,『べ平連ニュース』や『週刊アンポ』など全国的な通信類のなかの地域べ平連の動向を伝える記事とともに,埼玉大学の共生社会研究センターに所蔵されている吉川勇一氏の資料を利用した。吉川資料には,地域べ平連の動向を知るうえでニュースやチラシなどの貴重な資料が含まれている
が,しかし,それらの資料は断片的にしか残されていない。今後,60年代後半の社会運動についての地域レベルの資料をかなり意識的に収集保存していくことを考える必要があるのではないか,と今回報告を準備して痛感した次第である。

T べ平連運動の時期区分
――地域べ平連の動向と関連づけて――

 ベ平連の運動は,東京のべ平連に関して言えば,1965年4月の最初のデモから,1974年1月の解散までの約9年間にわたって展開された。この間に地域のべ平連がいくつできたのか,正確な数字を把握することは困難である。一つの手がかりは,旧べ平連のホームページにアップされている地域べ平連のリストであるが,これによれば,現在確認されているべ平連組織は日本全国で383あるという( http://www/jca.apc.org/beheiren )。
 これらの多くの地域レベルでの運動を視野に入れて,この9年間の運動を四つの時期に区分してみたい。まず第一の時期は1965年から67年末までの時期で,べ平連の運動が登場し,地域のなかからそれに呼応する動きが始まる時期である。第二の時期は67年末から69年までで,べ平連の運動がヴェトナム反戦から「変革」という問題に運動の課題を広げ,また,いわゆる地域べ平連が急増した時期にあたる。第三の時期は,70年から71年までで,運動が次第に沈静化し,地域べ平連の活動をめぐって運動の方向性が模索される時期である。そして第四の時期は1972年以降のべ平連の解散に向けての議論が始まり実際に解散に至る時期である。以上の四つの時期区分にしたがって,べ平連運動のなかで地域はどのように考えられていたのか,そして各時期において地域のべ平連はどのような動きを示したのかということを明らかにしてみたい。
 ただし,この時期区分はあくまでも一つの目安でしかないということをあらかじめお断りしておきたい。べ平連の運動は中央集権的な運動組織ではなかったゆえに,地域のべ平連運動の内容や特徴も一様ではなかったわけであるし,運動の進捗状況も地域によってかなり時間的なズレが存在していた。したがって,この時期区分はあくまでも大まかな傾向を把握するための時期区分でしかない。

  U ベ平連運動の始まりと地域への波及

 1965年4月24日にべ平連は最初のデモを行った。そして,9月25日からは定例デモを開始し,10月からは『べ平連ニュース』を発行するなど,運動は次第に「東京のべ平連運動」から「全国各地のべ平連運動」へと広がっていった。『べ平連ニュース』を見ると,地域でのべ平連運動を伝えるニュースが目につく。早くも創刊号では京都べ平連の動向を伝える記事と並んで,長野県のべ平連伊那谷の会の発足を伝える記事がある。第15号(66年12月)になると,各地のべ平連の動向を伝えるページが設けられ,また,投書欄でも地域での、べ平連組織の発足を伝えるものが散見される。
 この第一期に発足したべ平連組織あるいはべ平連に類似した組織は,1965年5月に発足した京都べ平連が最も早いものであり,65年から66年にかけて発足したものとして札幌べ平連,仙台市民べトナム委員会,名古屋べトナム問題懇談会,浦和市民の会,旭川べ平連,福岡の十の日デモの会,沖縄べ平連などがある。地域によって組織の性格には違いがあったと思われるが,多くは東京のべ平連から発せられた運動に呼応する形で始まったという点に特徴があるかと思われる。たとえば,意見広告カンパへの呼応や全国講演旅行の受け入れなどが,地域でのべ平連結成に影響を与えたようである。
 さて,そのような東京のべ平連の動きに呼応する動きがなぜ全国各地で生じたのかというと,最も大きな要因は「戦争の記憶」であった。べ平連関係者の一人武藤一羊は,初期のべ平連運動の広がりの背景について「大衆的常識としての戦後平和主義」があったと指摘しているが(「『べ平連運動』の思想戦後民主主義のゆくえによせて」べトナムに平和を!市民連合編『資料・「べ平連」運動』上,河出書房新社,1974年,165〜166頁),「戦争の記憶」は,地域の人々がべ平連をつくるさいの一つのバネになった。たとえば,『べ平連ニュース』への初期の投書をまとめた『平和を呼ぶ声』(番町書房,1967年)に収められたものを読むと,社会人,とくに女性からの投書には戦争体験に触れたものが非常に目につく。また,べ平連運動の運動スタイルに共鳴した部分もあったようである。たとえば,長野県のべ平連伊那谷の会の関係者は「『べ平連』の運動だったら素直にやってゆける」「ふつうの市民の自発性に基づく……ということに大きな期待をかけています」(『べ平連ニュース』第2号,65年11月)というように,運動スタイルへの共感を表明している。
 この第一期の地域べ平連の動向を伝える資料は,早い段階であるためか吉川資料のなかでもあまり多くは残されていない。ここでは事例の一つとして「茅ヶ崎市民の会」を紹介しておきたい。この会は,1966年9月から準備会がもたれ,10月に講演会を開催し,べ平連組織を立ち上げた。10月に行われた講演会には,吉川勇一,小田実,浅田光輝らが講師としてよばれている。この講演会のためのパンフレットには,運動当事者たちの運動を始める動機が書かれている。そこには「人と人とが血をもって殺し合わなければならない戦争に反対」というヒューマニズムに基づく反戦の意識,そして「過去の侵略戦争」へ言及しつた「戦争の記憶」,が記されており,戦争の記憶とヒューマニズムの結合がみられる。いずれにせよ,この時期の地域べ平連の発足に「戦争の記憶」が大きく影響していたことは明らかである。もう一例をあげれば,札幌べ平連の場合,1966年の12・8ベトナム反戦国際統一行動日の呼びかけ文は,「来たる十二月八日は,わが国が昭和十六年(一九四一年)に太平洋戦争をひきおこしてから二十五年目にあたります。十二月八日は,私たち日本人にとって忘れてはならない日です。この日は,私たちと私たちの国がもう二度と戦争に手をかさないという決意をあらたにする日とならなければなりません」という「戦争の記憶」から始まっている(『札幌・べ平連ニュース』第1号,66年11月26日)。
 こうした地域べ平連と東京のべ平連との関係は,運動の当事者自身が述べているように,中央と支部とか上下の関係にはなく,きわめてゆるやかな結びつきしかなかった。1967年10月に開催された初めての全国懇談会においても,既存の運動組織との関係については討論されたが,各地のべ平連の運動がどのように結びつくのかということが議論された形跡はあまりない。このことは,べ平連という市民運動組織の強さでもあったが,逆に様々な問題を生み出すことにもなった。早くも1966年8月に行われた日米市民会議に対して鶴見良行は「反国家権力的な市民集団をいかにして統括するのかという組織化の問題に当面せざるをえない」(「新しい世界と思想の要請――日米市民会議の意味」『鶴見良行著作集2』みすず書房,2002年,35頁)と述べており,べ平連にとっての組織の有り様というアポリアについて指摘している。べ平連運動にとって,地域べ平連はどのように位置づけられ,どのような相互関係を考えていけばよいのかという問題は,第二期,すなわち地域べ平連の急増により,ますます大きな問題になっていった。

   V 運動の高揚と地域ペ平連の急増

 1967年後半に入ると,日本の社会運動は急進化していった。とくに67年11月の羽田事件,68年1月の佐世保エンタープライズ入港問題,そして同年3月以降の王子野戦病院問題などで,デモ隊と機動隊の衝突が繰り返され,また,とくに学生運動の急進化が顕著になった。こうしたなか,べ平連の活動は,ヴェトナム反戦運動以上に反安保を掲げる大衆運動としての性格を強めていった。1968年の6月行動月間は,行動開始日を5月19日,大衆デモを6月15日に設定するといったように,60年安保闘争を明らか
に意識したスケジュールで行われた。この6月行動についてトーマス・R・H・へイブンズは「べトナム戦争の期間中,日本で行われた純粋に反戦だけを目標にした連続行動としては最も重要なもの」(『海の向こうの火事――ベトナム戟争と日本1965−1975』筑摩書房,1990年,220頁)と述べているが,『べ平連ニュース』が「『べトナム反戦』のシュプレヒコールは,国会に近づくにつれ『安保粉砕』に変った」(『べ平連ニュース』第34号,68年7月)と伝えているように,安保反対が運動の中心テーマへと競りあがっていったのがこの時期であった。こうした運動課題の重点移動は,68年8月に京都で開催された「反戦と変革に関する国際会議」においても議論された。この会議の冒頭で小田実は「私はたとえどのようにはっきりした抗議の意志をどんなに論理的に正確に伝えようとも,私たちの相手であるアメリカ政府と日本政府は動かないと思います。ではどうして動かすか,少なくとも私たちの行動それ自身によって,社会のしくみをいくぶんでも,あるいは部分的にせよ,変革していかないかぎりかれらは動かない」と述べている(小田・鶴見俊輔『反戦と変革』学芸書房,1968年,7頁)。べ平連の論理からすれば,もともとヴェトナム戦争に対する日本の関与を問題視し,そこから出発した運動であり,そうであればアメリカのヴェトナム戦争に協力する日本政府を問題視せざるをえず,日本政府がかたくなに対米協力を継続するとするならば,このような政府を支えている日本社会の変革が問題にされねばならないということになる。その結果,当面の運動課題として日米安保に反対し,さらに日本社会の変革を求める運動が掲げられたといえる。
 同時に,当時の急進化する学生運動に対し,小田実らの論理は,学生の孤立を防ぐためにも市民的なレベルでの反安保の大衆運動が必要であるという内容であった。学生の急進化に同一化はしないが,しかし,学生の運動を取り巻くかたちでの市民運動の展開が考えられていたわけである。
 ちょうどこの時期には,最初に指摘したように,地域べ平連が全国各地に続々と誕生する時期にあたる。1968年2月に行われた第3回全国懇談会について,『べ平連ニュース』は「北海道から九州までようやくべ平連の運動も全国的なものになったことを感じさせます」(『べ平連ニュース』第30号,68年7月)と述べており,翌69年2月に行われた第4回全国懇談会についての『べ平連ニュース』は「参加者が全国各地にわたっていたことも,ここ1年の間に,べ平連の運動が急速に拡がっていることが判りました」と地域べ平連の全国的拡大を報じている(『べ平連ニュース』第42号,69年3月)。さらに,1968年11月7日に大阪で行われた「再びべトナムを考える」という集会で吉川勇一は「今年三月には,大学ベ平連・地域べ平連を合わせて,大小四○いくつかのべ平連がありました。……それから今年の夏配った『べ平連とは』によると一○八,それが現在二○○を起(まま)えています。一日に一つの割合で,どこかにべ平連ができている勘定になります」とその急増ぶりを述べている(ベトナムに平和を!関西市民連合『べ平連資料集』30頁)。
 この時期の地域べ平連の急増は,当時の急進化する社会運動,そして70年安保問題を控えての危機感の高まりを背景としていた。第一期の時期と比較すると,地域べ平連の運動における学生の占める比重が高まり,たとえば,地域べ平連のスローガンや主張も急進的なものが目立つようになった。その結果,1969年2月に開催された第4回全国連絡会では,「学生部分の行動形態がラジカル化するにつれて,初期に参加していた市民が離反してゆく」とか「学生層から市民には理解できない言葉での演説が出たりして次第に市民層の参加が少なくなり」などといった報告がなされている(『べ平連ニュース』第42号,69年3月)。また,『べ平連ニュース』第43号(69年4月)の座談会で吉岡忍が最近の地域べ平連の呼びかけについて「文章もしだいに硬い調子になってきていて,以前のべ平連から出した投書を集めてつくった本のなかにあるようなナマの感じのものがなくなってきている」と述べているが,運動の表現様式レベルでも画一化が進んでいたことがうかがわれる。
 地域べ平連が出したニュースやチラシのなかにも市民からの乖離や学生主導の運動の問題点を指摘するものが少なくない。また,第一期に誕生した地域べ平連のなかにも,運動の方向性をめぐる意見の対立が発生した。たとえば,京都べ平連の機関紙『ベトナム通信』では,定例デモを中心とする運動に対する急進的な立場からの批判が強くなり,それに対して,飯沼二郎は「市民的権利」の観点から繰り返し批判を行っている。
 しかし,急増した地域べ平連が一様に学生主導になり市民の離反が進んだというわけではなく,地域によってかなりの違いがあったのではないかと思われる。たとえば,『べ平連ニュース』第38号(68年11月)に寄せられている長野県のべ平連の動向を伝える記事は,県内四つのべ平連(長野,飯田,松本,上田)について「スローガンは穏健なものからラディカルなものまで差が著しく……全国的にはもっとその差は大きい」と記している。また,大阪の高槻べ平連では,68年1月20日の集会に様々な階層の人々が集まったことや,同年2月10日に行われた広島べ平連の定例デモには,参加者が100名あり,そのなかには子供達れの主婦の姿も見られたことが報じられているなど(『べ平連二ュ−ス』第31号,68年4月),必ずしも学生だけの突出した運動にはおさまらないものも見られたのである。
 この時期に誕生した地域べ平連の一つとして「佐世保19日市民の会」を取り上げてみたい。この市民団体は,エンタープライズで佐世保市内が騒然としたなかで誕生した。ほぼ同じ時期に佐世保では佐世保べ平連も誕生している。19日というのは,エンタープライズが佐世保港に入港した日(1月19日)である。佐世保には,以前から核基地化反対市民会議や佐世保文化人会議などの市民団体があったが,団体加盟であったり,主体的に活動する市民団体ではなかった。この会は,佐世保の衝突に加わった市民は「意識の高い一部の人々でありそのような人々はまさかの時は一人立ちできるにちがいない。むしろ,そのような気持ちを心のすみに抱きながら行動に参加できなかった人達こそ,大切にすべきだし,掘り起こしていくべきだ」という考えに基づいてつくられた(佐世保十九日市民の会編『市民運動の出発』社会新報,1969年,18頁)。エンタープライズをめぐる激しい機動隊との衝突に目を奪われがちであるが,そうした「嵐」が吹いたあとの地域での反戦平和運動をどのように展開するのかという発想を確認することができる。佐世保では,エンタープラズが去った4ヵ月後の5月に原潜ソードフィッシュが入港し,異常放射能が検出されるという事件が起こった。当初,漠然とした反戦平和を呼びかけ,政治にはノータッチという原則の下で発足した19日市民の会は,この事件をきっかけに原潜寄港反対,基地撤去をスローガンに掲げ,抗議運動を展開するようになった。
 また,べ平連の運動の方向性に影響を与えた京都国際会議での「反戦と変革」をめぐる議論についても,地域べ平連の間には受け止め方の相違があった。たとえば,京都会議直後の68年8月18日に「反戦と変革のための国際会議九州集会」が開催されたが,この会議に参加した佐世保べ平連は,「社会改革を掲げることは,反戦をめざしてきたべ平連が,しかも市民運動がそれを掲げたとしても,運動を狭めるだけで巾広い市民の参加をますますむずかしくしよう。大体,労働者部隊を主力としない,市民団体のべ平連で,革命が問題になり得ようか,そもそも『変革』とは何を指すのか」といったかなり厳しい批判を行っている(『べ平連通信福岡』創刊号)。
 この時期の地域べ平連運動は,反戦と変革の間で,急進化する学生運動と地域社会の間で,揺れ動いていたといってよいだろう。1969年8月7日から11日まで,関西べ平連が中心となって開催された「反戦のための万国博」(ハンバク)に参加した鶴見良行は,そこに集った地域べ平連が様々な方向性をもつようになり,従来見られない試みを行っていると指摘しているが(鶴見「ハンバクの五日間」『著作集2』324〜325頁),まさに,ヴェトナム反戦運動から始まった地域べ平連の運動は,運動の課題,運動のスタイル双方において多様な展開を示しはじめていた。

  W 運動の沈静化と地域ペ平連運動の模索

 しかし,べ平連の運動は,実際の安保改定の年にあたる1970年に入ると,次第に運動の沈静化を指摘する声が目立ってくる。たとえば,「声なき声の会」の小林トミは,「68,69年と盛んだった反戦運動も,70年になるとどことなく沈滞ムードがただよいはじめている」と『べ平連ニュース』(70年6月)で述べている。地域べ平連のなかからも,運動の後退や沈滞を指摘する声が目立つようになる。実際に,地域べ平連の活動もまた停滞していったようである。たとえば,『べ平連ニュース』第65号(71年2月)には「69年から70年にかけて一時は数十種類も出ていた各地の反戦市民運動グループのニュースや通信類が,昨年夏頃を境にはとんど姿を消してしまった」という記事がある。
 69年から70年前半にかけて,佐藤・ニクソン会談(69年11月21日),ニクソン政権による「ヴェトナム化」計画の提示(69年12月15日),そして70年6月23日の安保自動延長という流れのなかで,安保問題に対する人々の関心は薄れていった。そのような状況のなかで注目されるのは,こうした運動の後退期に入って地域における運動や地域べ平連の相互関係についての議論が行われはじめたということである。1970年から71年にかけての2年間は,この間に4回の全国懇談会と1回の反戦反基地全国懇談会が開催されるなど,地域べ平連が意見交換を行う場が最も頻繁に設けられた。そこでは,様々なことが議論されているが,注目すべきなのは,次のような点である。
 まず,1970年前後に「運動の原点」をめぐる議論が始まっているということである。早い段階では,すでに1969年9月にべ平連福岡の女性が「もういちどはじめにもどそう」という文章を『べ平連通信福岡』(第12号,69年9月)に載せ,それが『べ平連ニュース』(第49号,69年10月)に転載されている。彼女は,69年2月に「反安保を統一のスローガンに加えた」ころから運動がおかしくなったような気がすると述べ,「反戦の,より人間らしく生きたいこと」を志とする一人一人の参加による運動の原点に返るべきではないかという主張を行っている。また,小田実も,70年の冒頭には「もう一度草の根からのものを日本中にまき起こしたい」(『べ平連ニュース』第52号,70年1月),「地域的な運動を起こした方がいい」(『べ平連ニュース』第53号,70年2月)というように,運動を草の根から,地域から再構成することを主張している。
 この頃から,地域べ平連は,東京のべ平連が提起する運動課題に応える組織ではなく,個々の地域べ平連が個々の地域が抱える問題への取り組みをつうじて,反戦平和運動を展開するというかたちに変化していくことになったと考えられる。その結果,個々の地域社会のなかで,地域社会とどのようにかかわっていくのかという問題が浮上し,同時に取り組む課題自体も多様化してくることになる。
 べ平連の運動は地域の課題に直面するなかで,変化を遂げていった,あるいは変化を遂げていかざるをえなかった,と言えるのではないか。
 ただし,ここで留意しなければならなければならない問題がいくつかある。
 第一に,地域課題に直面するなかで,べ平連の運動と実際に地域で展開される運動とのギャップが認識されていったということである。少し早い時期になるが,この点が最も明確に示されたのは,沖縄の問題であった。1968年の京都国際会議の後に原水禁沖縄大会に参加するために沖縄に渡った栗原幸夫は,沖縄の運動関係者からかなり厳しい批判を受け,自分たちべ平連関係者は「沖縄人民にとって本土のお客さん以上ではなかったのではないか」と述べている(『べ平連ニュース』第36号,68年9)。ただし,その後このような地域という現場との接点をもとうとしたがゆえに,そして,地域の現場の声に耳を傾けていった結果,べ平連に参加していた学生層の一部は,単に運動に挫折し,あっさりと社会運動から身を引くのではなく,社会運動への関わり方を追求していったのではないかと考えられる。
 この問題と関連して,第二に,岩国市での反戦喫茶「ほびっと」のように,地域社会に根を下ろしたかたちでの反戦運動の拠点づくりや,相模原の戦車通行阻止闘争における条例制定要求の運動のような自治体に働きかける運動など,具体的な運動の試みが行われはじめた。「はびっと」のような運動は,地域のくらしや地方の問題の重要性を浮き上がらせた。中心人物であった中川六平は,「はびっと」の経験により,「地方に立ちつづけることが,いかに困難であるか,困難であるが故に,いかに重要なのか,ということを」発見したという。また,相模原の問題は,戦車阻止という実力行使とともに,自治体のもつ可能性ということにも眼を聞かせることになった。
 第三に,地域の運動とのかかわりを深めていくなかで,アジアとのかかわりという問題への関心が深まったということである。たとえば,大村収容所問題が取り上げられたり,出入国管理法問題などに直面するなかで,アジアとのかかわりへの問題関心が強まっていった。『べ平連ニュース』を見ていくと,ヴェトナム戦争そのものに関する記事やアジアに関する記事が意外と少ないことに気がつくが,1971年の第73号から「アジアからの視線」が連載されるなど,紙面にも変化が見られる。
 しかし,こうした地域課題へのかかわりやアジアとのかかわりという視点の広がりがあったものの,運動としてそれをどのように取り上げ展開していくのか,という点については明確な結論が出たわけではなく,むしろ個々の運動の自主性を尊重するというかたちの対応がなされた。全国懇談会を開いても,個々の活動報告がなされるだけだという批判の声がある一方で,個々の活動報告から刺激を受けて各地でそれぞれやればよいという肯定の声もあった。

    X 運動の個別化,分散化,解散

 1972年頃からべ平連の解散をめぐる議論が行われはじめる。早い時期に解散をめぐる話が持ち上がったのは京都べ平連であった。京都べ平連は,72年11月23日に「京都べ平連をどうするか」という討論集会を行い,翌73年4月30日に解散集会を開催している。
 東京のべ平連は1974年1月26日に解散集会を行い翌日に最後の集会とデモを行ってべ平連としての行動を終えた。しかし,当然のことながら,中心なき,上下関係なき形態をとっていたべ平連であったので,全国のべ平連が一斉に解散したわけではない。京都べ平連のように東京のべ平連以前に解散したものもあり,また,自然消滅したべ平連も少なくなかったのではないかと思われる。
 他方,東京のべ平連の解散の後も,べ平連的な運動を持続させたものもあった。山口県岩国市の反戦喫茶「はびっと」もその一つであった。多くの地域べ平連が消滅するなかで,街頭での民主主義にこだわりそれを継続したものもあった。三鷹を拠点にしたちょうちんデモの会や佐世保の19日市民の会は,その後も定例デモを継続し,反戦平和の市民運動を次の世代に伝える役割を果たした。また,地域べ平連自体は消滅したものの,べ平連での経験をバネに,1970年代以降の市民運動や政治活動を行った人々もいた。市民派の地方議員として,地域政治の舞台に活動の場を見出した人々もいる。
 さらに,東京のべ平連を担った人々により1973年10月に設立されたアジア太平洋資料センター(PARC)は,べ平連運動の展開過程のなかで浮上した日本とアジアの関係を民衆レベルで構築する機関として,その後のユニークな活動を行うことになった。
 このようにべ平連の解散は,60年代後半の日本の社会運動の一つの区切りを意味していたが,同時に,その後の多様な社会運動の担い手を生み出し,また,社会運動が取り組む多様な課題を次の時代に伝えることになったと言ってよいだろう。

むすび

 以上,四つの時期にそってべ平連運動の推移を,地域の運動に着目しながら見てきた。これまでの議論をまとめてみたい。
 まず,べ平連の地域レベルでの運動は,65年から67年まで各地で自然発生的に地域べ平連の組織が立ち上がり,その背景には,当時まだ広範に存在した「戦争の記憶」をバネとした反戦・非戦意識があったと言える。同時に,運動の形態は,東京のべ平連が呼びかける様々な運動に呼応したり,定例デモのような東京のべ平連がとった運動スタイルに類似した活動を行ったりした。そこには,組織による動員ではなく,個人が自発的に参加するという新しい運動形態に対する共鳴があったといえる。
 次に67年末から69年にかけて,学生運動を中心とした社会運動の急進化のなかで,地域べ平連も急増する。そうしたなか,1968年夏の京都で開催された国際会議で「反戦と変革」がテーマとして取り上げられたように,べ平連の運動は,変革の問題,具体的には安保の問題を掲げることになった。こうした運動の変化に対して,地域べ平連の反応は様々であった。積極的に変革を掲げるものもあれば,変革という問題はべ平連の運動とは相容れないのではないかと考えるものもあった。
 しかし,1970年に入ると,日本の社会運動全体が沈滞し,べ平連の運動も例外ではなかった。日米安保の自動延長,ヴェトナム戦争の推移などが作用したことは疑えないことである。さらに,新左翼内部の内ゲバの激化や連合赤軍事件などがこうした運動の沈滞に拍車をかけた。このようななか,地域べ平連は,東京のべ平連が提起する運動に呼応したり,定例デモを行ったりという従来の活動から,それぞれの地域課題に取り組む運動へと変化していった。
 同時に,そうした地域課題に取り組むなかで,アジアの問題との接点を獲得することとなった。べ平連の運動は,国家ではなく国境を越えた市民との連帯を掲げた点に大きな特徴があったが,当初そこでイメージされた市民はヴェトナムに侵略するアメリカの市民であった。国境を越えた市民の連帯という発想それ自体は大きな意味があったわけであるが,そこには,アジアの市民という発想は希薄であった。ようやく運動の後退期になり,地域課題,そしてそれを通したアジアとのかかわりという視点を獲得していったと言えるだろう。
 しかし,まさに運動の後退期であったこと,そしてべ平連という運動体が中心なき上下関係なき運動体であったゆえに,このような問題にどのように取り組むのかということは,大変困難な問題であった。
 以上のように,べ平連の運動を振り返ってみると,この運動は,運動スタイルや戦争認識といった面で,これまでの研究が指摘したように,日本の社会運動に新しさを持ち込んだ。また,今回の報告でみたように,実は運動の展開過程のなかで,地域課題やアジア認識など新しい課題や考え方が生まれてきた。
 ただし,1960年代後半に多くの人々を社会運動の場へ参加させることとなったべ平連の運動が,1970年に入り運動の曲がり角を迎えたのは,ヴェトナム戦争の帰趨という問題ももちろんあるわけであるが,この間の日本社会の変容の問題も影響していた。1971年1月に開催されたべ平連全国懇談会では,日本の現状が「『民主ファシズム』『平和軍国主義』『皆殺し福祉主義』」という三っの言葉で語られた。これは,高度経済成長のなかで企業社会化と生活保守主義が拡大・浸透するなかでの市民運動の困難こついてのべ平連流の表現であると言ってよいだろう。また,アジアにおける国境を越えた連帯という課題も,当時の韓国の軍事独裁体制,中国における文化大革命による混乱など,東アジアの分断状況のなかで,きわめて困難な条件の下にあったといえるだろう。
 今日の社会運動の有り様からみて,べ平連の運動は,過渡的な性格をもった社会運動であった。まず,べ平連の運動はそもそも非戦の意識から出発した反戦運動であった。したがって,高度成長期に登場した生活レベルの問題,あるいはポスト産業社会における政治課題などについては,関心が高かったわけではなかった。当時の革新自治体に対する関心の希薄さというのもこの辺に一つの背景があったと考えられる。
 また,べ平連の運動は,60年の安保闘争とは異なり,戟後民主主義に対する批判も含んでいた。べ平連が戦後民主主義に対置したのは直接民主主義であり,多くの地域べ平連が定例デモを行っていたことが示唆するように,それは街頭民主主義あるいは広場の民主主義でもあった。このような街頭民主主義(広場の民主主義)は,戦後民主主義に対するラジカルな批判の視座を提供するものであったが,その後の住民投票や非核自治体条例運動などに見られるような,代議制民主主義と街頭民主主義(広場の民主主義)の間の領域にある様々な民主主義的な活動の可能性については,十分視野に入っていなかったのではないかと思われる。さらに,べ平連は,従来の組織を中心とする社会運動に対するアンチの運動としての性格が強かったが,では,自発性に基づく市民運動と様々な組織との関係をどのように考えるのか,自発性に基づいた市民運動が取りうる運動体とはどのようなものなのか,という課題は残されたのではないかと思われる。
 とはいえ,べ平連の運動,とりわけこの運動が全国各地に自然発生的なかたちで多くのべ平連組織を生み出し,その運動の展開のなかで,具体的な課題に取り組み,人と人との,あるいはアジアとの新しい関わりを模索する出発点の一つを提供したのではないかと思われる。その意味では,ヴェトナム戦争は,日本の社会運動のなかに,新しい芽を生み出すことになったのであり,その芽は,多様なかたちでの住民運動や市民運動のなかに引き継がれていったと言える。

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