73. 伊藤幹彦・「往時往還、厚情交会」(『雑記通信』第81号)(2003/10/21搭載)
……某月某日 前号で触れた小林トミさんの葬儀写真に「旧べ平連有志」という供花があるのを見て、遠い日のことを思い出した。そして供花に加わらせてもらうことにした。
遠い日とは、べ平連活動の一環の積りで上欄(左の図)のようなガリ版チラシを発行していた四十年近くも前のこと。そういえば五年ほど前、当時
(名古屋市役所の――管理者補注)同じ局で新婚ほやほやだったH女史と栄の地下街でばったり逢い、当時のことを懐かしく話し合ったのだが、Hさんが突然にこう言った。
「今朝の新開で、『私は赤ちゃん』の著者の松田道雄さんが亡くなった記事を見たんですが、それによるとあの方、べ平連だったんだそうですねぇ」。
あの頃Hさんは労組役員に、「伊藤はべ平連の過激派だから、あまり近づかないほうがいい」と、言われていたというのだ。たしかに「影丸集団」と名乗ることが示すように、独り善がりの面が多々あり、それが因ともなって後になって次のようなひと悶着を起こす羽目になった。
一九七一年、前年にやっと係長になった私は、新設の「勤労福祉課」という課に、突然の転任を命じられた。その課は、総評・同盟などのナショナルセンターから未組織労働者にいたるまでの勤労者の声を受ける窓口ということであり、既に他の大都市には設けられているということだった。とはいっても、これまでの役所には馴染みのない組織であることには変わりなく、いささかの不安もあったが、いま一人の係長が市労連初代書記長として有名であった伊神邦弘さんということもあって、心易めることとした。
ところがこの人事に対して、労組の一部役員から
「過激派と推察される人物を、こともあろうに労組の窓口となる課の係長に据えるとは何事か」
という血相を変えての異議申し立てが、それも労使交渉の席であったという。
「思いもかけないことだったから、これには参ったよ」と、直接の上司であった清水光春広報室長は私の肩に手をかけて苦笑しながら言った。「渉外関係は伊神君、きみには広報関係を手がけてもらおうと思っていたのだが…」。
加えて、労使担当助役だった今城助役が、「伊神君のことはよく承知しているが、この伊藤とかいう男は、そんな大物なのかね」と呟いたと聞き、私は「すんません…」と、小身の身を更に縮ませて恐縮するほかなかった。
話を元に戻せば、べ平連ゆかりの小林トミさんへの供花代を送ったのは、そんなこともあってのことだった。
某月某日 小林トミさんへの供花代はたしかに受け取りました、という丁重な礼状を、元ベ平連事務局長だった吉川勇一さんから受ける。
お元気な様子で何より、と思う。というのも、吉川さんは還暦を迎えた一九九一年に膀胱癌を患ってから胃癌、腸閉塞など八度に及ぶ手術・入院。さらにその間には、お連れ合いがインフルエンザの悪化から一時、植物人間状態となるという大変な状況と聞いていたからである。そうした療養のさなかに、右翼の『世界日報』紙上に、吉川はKGBエージェントだったと書かれたり、『赤旗』紙に吉川批判の大論文を掲載されたり、それらに対する余計な応接に煩わ
されながらも、いつも退院するや息つく間もなく各種運動に参加。昨年は、小田実、小中陽太郎といった皆さんとベトナムを訪問したとのこと。今年の年賀状に「デモだ、集会だ、炊事だ、連れ合いの看護だ、と結構忙しく、今のところガンのほうも再来を遠慮しているようです」と寄せた吉川さんの在り方は、私たちに大きな元気を与えてくれる。
話変るが、前号で紹介の堀孝彦さんの教示によると、今年はペリー来航百五十年に当たるので色々な行事が企画され、関心ある方は先ずは『黒船』(吉村昭著、中公文庫)が参考になるとのこと。それとは直接的な関係はないが、堀孝彦さんの著書の中に目を見開かれるような和辻哲郎批判があった。これは別発行の『もくの会通信』二十八号に紹介。……
(『雑記通信』第81号)
『雑記通信』は、斎藤孝・伊藤幹彦氏が発行人となっているミニコミ。