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1. 吉川勇一「秋の反戦共同行動に向けて――WPNの成果と問題点」(市民の意見30の会・東京ニュース No.79)(2003/10/18搭載)▼「ベ平連は警察と仲良しだった」?
「旧ベ平連運動」のホームページがある。これは30年前のベトナム反戦運動「ベ平連(ベトナム平和を!市民連合)」の諸資料を公開しているデータベースだが、その中に、意見の投稿や質疑応答を掲載する「談話室」という欄がある。先日、そこに「ベ平連が警察と仲良し? ベ平連のデモは警察に花束を贈ったか」という投稿があった。詳細はそのページを見ていただくことにして、ここでは、インターネットを利用できない読者のために、ごく簡単に事情を紹介しておく。(URLアドレスは http://www.jca.apc.org/beheiren/ )
この話は、イラク反戦運動の連合体、「WORLD PEACE NOW(以下WPNと記述)」(この6月で第1期を終了し、7月から新たな構成で第2期が立ち上がっている)で中心的活動をしていた「CHANCE!
pono2」(以下「チャンス」と記述)のグループの中心メンバーの何人かによる警察官との会食問題と関連して出てきたことだった。
そもそもは、この「チャンス」関係者が開いたフリー・メーリング・リスト(現在は、参加者の自主管理。以下、「フリーML」と記述)に、この警察との会食問題についての投稿があり、それに対し「チャンス」のメンバーが、昨年末と今年に入って警察側と食事を共にしたことを認める回答を載せたことから、このことは明らかになった。最初の投稿者が誰だかはわからないのだが、おそらく、この運動に混乱を与えることを意図した警察側の意図的情報リークであったろうと推測できる。この問題は、すでに『図書新聞』(6月7日号)でとりあげられるなど、運動の周辺でも議論を呼んでいる。(ただし、その内容にはかなり問題がある。)「チャンス」は、内部議論を経て、それが思慮の足らない行為であり、WPN参加グループに迷惑を与えたことを認め、今後、この種の行動をやらないとする「説明書」を提出し、WPN実行委は、それを承認した。一応の決着はついた形になっているものの、先のフリーMLにはその後も、事情説明を求める投稿や、反省が不十分だとする投稿も続いており、またWPN参加の一部グループからは、WPN自体としてもこの問題をきちんと総括すべきだという申入れが出されている。
この経過の中で、フリーMLの上に、警察との会食に参加した「チャンス」のKさんが、4月末、「かつてベ平連の方々は、デモの際、花一輪を持ち寄って、警護に来た警察に渡そうとしたそうですね。……ボクの考え方も、Uさん、Hくんの考え方も(いずれも会食参加者)、ベ平連には近いですね」という投稿を載せたことから、それを読んだ人から、冒頭のような「ベ平連が警察と仲良し?」という投稿が前記「談話室」に寄せられたのだった。
私は、この質問について、そういう事実はまったくなかったと回答するとともに、ベ平連と警察との関係などについて、詳しい資料をつけて解説をした。Kさん自身からも、ベ平連について間違った理解をしていた、と訂正のメールが寄せられた。
以上が、この問題についてのごくごく簡略な経過なのだが、ここには、今後の活動の中で検討されるべきいろいろな問題が含まれていると思う。以下、それを入り口として、第1期のWPNの活動のプラス面、マイナス面などのいくつかを検討してみたい。
▼ WPNの果たした功績
「市民の意見30の会・東京」もWPNの「よびかけ団体」に加わり、その主要な行動に参加すると共に、宗教者や全国の地域反戦グループ、障害者団体などとともに「イラク反戦・有事法制反対」の全面意見広告の全国紙掲載を実現するなどの役割を果たした。
WPNは、何よりも、昨年末以来、文字通り地球的規模で展開された未曾有の反戦行動の一端に日本の運動が加わる場を作り出したという功績をあげねばならない。他の多くの国々の数十万、数百万という規模には至らなかったが、ベトナム反戦運動、あるいは一九八二年にあった国連軍縮特別総会をめざす「反核フィーバー」以来の大きな結集軸を用意しえた。マスコミの大きな報道もあって、それまで運動に参加していなかった新しい人びと、とくに若い層が多数参加しうる場が作り出された。
イラク反戦運動について特筆すべきことはいくつもあるが、まず、戦争自体を阻止することはできなかったとはいえ、開戦の前から、これほどの規模で反戦の行動が展開されるということは歴史上前例のないことだった。82年の反核行動は、たとえばニューヨークでの百万人デモ(6.・12)のように参加者は今回に比するとも言えたが、しかし、国際的には主として北の大国の中の運動にとどまり、第三世界はその枠の中にはなかった。今度のイラク反戦はそうではなかった。たとえば、二月一五日の行動は、文字通り、太陽の動きにあわせて、オーストラリア、ニュージーランドから、東北アジア、西ア
ジア、中東、アフリカ、ヨーロッパを経て、南北アメリカへと地球を一周するものとなった。
しかも、それは、これまでの反戦運動の系譜につながる勢力だけの結集ではなかった。 そもそもこうしたイラク反戦の国際的な共同行動を呼びかけたのは、出自をいうならば反戦運動の流れからというよりは、グローバリゼーションを問題にするグループの呼びかけから始まったもので、二月一五日の世界一周デモは、ブラジルのポルト・アレグレでの「世界社会フォーラム」の流れの「欧州社会フォーラム」の呼びかけによるものだった。もちろん集まった人はイラクをめぐって反戦平和を主張したのだが、それを国際的によびかけたのは、こうした戦争を可能にする世界的な構造全体を意識においていた。それゆえ、表面的な戦争が終結しても、世界的な構造自体に向き合おうとすると流れとして今後も展開されていくのかどうかが重要な点となる。
日本でも、数年前からの有事法制反対運動を形づくってきた市民運動や宗教者のグループが、この運動の中心の一部に位置するが、それだけでなく、それまでの反戦運動が求めてもなかなか実現し得なかった自然・環境保護運動、人権擁護運動などのいわゆる「緑派」のグループ、NPOとかNGOとかいわれるグローバリゼーションや、食料危機と飢饉、貧困と疾病・保健などの課題で、アジアやアフリカの民衆とかかわっている団体などの多数の参加を見た。
さらに、前述の「チャンス」など若い世代のグループがWPNのなかで果たした積極的な役割も刮目すべきものがあった。インターネット上のホームページやメーリングリストなどを駆使して、それまでの運動にはなかった機動性を存分に発揮したことも注目された。
それに、実行委員会の中にいた、少数だがこれまでの運動経験を持つ活動家が、「内ゲバ」に責任がありいまだにその総括も明確にしていないセクト的党派勢力が、中心部に介入してくるのを防ぐために、苦労して行なった努力も評価すべきことだろう。
▼必要な運動経験の継承の努力
こうしたプラスの面を多く持った運動が、82年の「反核フィーバー」のような一時的な花火現象として終わってしまうのか、それともこの秋の新しい展開へと引き継がれる要因として存続しうるのかは、重要な問題である。そのためにも、WPNのプラス面を十分に評価したうえで、同時に運動が内包している問題点も検討しておくことが必要だろう。
まず、ここ十数年見られなかったような若い世代の大量参加が実現はしたが、その際、以前の運動の経験が十分に継承されていたとは言いがたい面が目立った。60年安保闘争からその後のベトナム反戦運動へ、あるいはそれ以後のPKO反対運動や湾岸戦争反対運動などへは、世代的にもつながる側面があり、経験の断絶はそれほど目立たなかった。だが、イラク反戦には、ベトナム反戦運動で中心を担った部分は、参加はしてもすでに老齢化して運動の中枢面では貢献できず、それより若いベトナム反戦世代(団塊の世代や全共闘参加層)などからは積極的参加が少なく、その結果、それまでの運動経験(プラス面もマイナス面も含め)は十分継承されているとは言いがたい。冒頭に紹介したベ平連と警察権力との関係に関するたいへんな誤解なども、こうした中で生じた困った現象の一例である。
若い人びとの印象を聞くと、70年代、80年代の反体制運動というと、まず浮かぶイメージは浅間山荘事件、連合赤軍、狼グループなどの爆弾闘争、そして内ゲバ殺人、デモというとヘルメットに覆面、黒眼鏡姿で機動隊に囲まれ、「なんとか粉砕!」と絶叫しているだけの集団、という理解となる。ベ平連など反戦市民運動がやったことはそうではないのだ、と言うと、こんどは「ああ、そうですか、じゃあ、警察と仲良くして、花束を贈ったんですね」となってしまう。
評判になっている『〈民主〉と〈愛国〉』の著者、小熊英二さんとのやりとりの中で聞いたことだが、今の学生にとってベ平連とは歴史上のテーマの一つにすぎず、具体性をまったく欠いた理解になっている。そこへ小熊さんが具体的なベ平連の活動を紹介すると、素直に「日本にこんなすごいものがあったのか」と「感動」してしまうというケースがいくつもあり、当時の「雰囲気」を伝えると、「楽しさ」や「ワクワク感」(これはある女子大学生の感想の言葉とのこと)を感じ取るということだった。たしかに、30年前の戦争といえば、私にとって日清戦争の話を聞くのと同じ歳月の開きがあるのだから、無理もない。
経験の継承・伝達の工夫と努力は、意識的に追求されなければならない。それはもっぱら、私など、年長者の仕事だが。
▼非暴力は警察との協力ではない
さて、話をWPNの問題に戻す。経験の継承の不十分さをもう一つ感じるのは、「非暴力」ということへの理解だ。WPNでは、運動のよって立つ原理の一つに「非暴力」を掲げている。それ自体は結構なことなのだが、そこに「非暴力=無抵抗」あるいは「非暴力=合法主義」という誤解が生じているように感じ取れる。すでに私は他でもこのことを指摘したが(『マスコミ市民』6月号)、非暴力と合法主義、あるいは「警察と協力する」こととは何の関係もない。関係ないどころか、非暴力は、直接行動、あるいは市民的不服従の行動と結びついて権力に対する強力な抵抗の手段となる。
WPNの何度かのデモの中で、隊列の整理に当たる係りが、4列あるいは5列縦隊の幅を守らせようと、警察以上にデモ参加者に注意を与えたり、警備の警察とトラブルが起きそうになると「このデモは非暴力なのですから」と注意するような場面に何度か出会った。確かに、かつてのデモでは、ひたすら隊列の脇にいる機動隊にぶつかったり、プラカードを突っ込んだりするような参加者もいた。中には、そういうことで警察の弾圧を引き出し、それによって「権力の何ものであるかを他の参加者に実感させるのだ」などと、浅薄なことを言うものさえいた。権力の恐ろしさとは、そんなことで理解できるような甘いものでは決してない。私がその恐ろしさを実感できたのは、岩国の海兵隊基地前にベ平連が作った反戦スナック「ほびっと」に対する日米政府、米国軍隊、日本警察、日米マスコミの国際的連携による弾圧の実態を知った時だった。(これは研究社刊の講座・コミュニケーション第5巻『事件と報道』1972年で私は詳しく紹介した。いまでは入手困難なので、前記ベ平連のホームページ上に全文転載してある)。
だが、ひたすら警察とことを構えず、デモの許可条件を遵守して歩けば、それによって広範な市民の参加が保証されるとする理解もまた浅薄である。WPNの警備担当者の何人かが、行進が出発した後、警備の警官隊に対し「警察の皆さん、ありがとう」と一斉に唱える(3月8日)ということにも違和感を抱いた。
一つには、このイラク反戦の大規模な行動は、まだ展開され始めてから一年も経ておらず、十年近くも継続したベトナム反戦運動に比して、内部で十分な交流や議論の機会をもつだけの時間的余裕もなく、今すぐに思想的深化や熟成を求めるのはあまりにも尚早で無理な注文だという側面も確かにある。3月8日の日比谷野外音楽堂への大結集の際には、会場内の混乱を警戒して、早めに入場を制限し、外部で待たされた参加者がデモに出発するまでに3時間も待たされるということもあって、不満の声もかなり聞かれた。万単位の集会がしばらくなかっただけに、この種の不手際や未熟な面が出てきたのはやむをえなかったとも言える。しかし、だからといって、「チャンス」の中心メンバーによる警察との会食問題のようなこともやむをえないと看過するわけにはいかないだろう。
しかし、ここでもう一つ紹介しておきたいのは、七月七日の渋谷での「七夕デモ」の中で、公園通りを渋谷駅へ向かって行進している時、脇をすぎてゆくデモ指揮者の一人が、「自動車と接触しないよう十分注意はしつつ、なるべく道幅一杯に広がって歩くようにしましょう」と呼びかけていたことだ。何度かのイラク反戦の共同行動の中で、初めて耳にした「デモ指揮」の言葉で、注目された。この種の試みがさまざまに積み重ねられ、試行錯誤も繰り返しつつ、行動の参加者は経験を積み、デモの権利を自らの力で広げてゆくことを身につけてゆくはずである。日本ではなぜ欧米のほとんどの国で可能な道一杯のフランス・デモができないのか、この問題一つでもかなりの論議が必要だろう。
▼共同行動のルール
もう一つ、この種の共同の行動の際に、参加する各グループが選択する行動形態の独自性とその相互関係についてのルールの問題がある。私は『現代思想』6月号でこの問題に触れ、次のように述べた。
ベトナム反戦運動の中であった数万規模の共同行動参加団体の間では、参加グループの自主性の尊重や、批判は自由だが、誹謗中傷はしないというような、重要な共同行動の原則が生み出され、その後の大規模な運動に大きな影響を与えてゆくことになったが、とくに、各グループが、自分の責任で選択する行動形態の自主性は尊重する、しかし同時に、各グループ、個人の意に反して、特定の行動形態を強要したり、他のグループの行動に介入妨害したりしない、という原則は、重要だったと思う。これは、自分たちのとる行動が、運動全体の中でどういう位置を占め、他の参加者にどんな影響を与えるかを十分に配慮して自らの行動を選択してゆくということであり、全体の中で自分を相対化して考えることを求めるものだ。言うことは容易だが、これはある意味で、「参加者が同時に指導者としての義務を感ずる」という、かなりレベルの高い運動倫理だといえる。この点は、次項で触れるたいらひとしさんの文章の問題点とも大いに関係する。こうした共同行動のルールの問題も、今後の議論の中で相互了解が追求されてゆく必要があるだろう。
運動の中では、批判は批判として、正面からきちんと提起され、運動内部の議論として解決の方向が探られる努力がされなければならない。そうした動きはすでに一部で始められている。警察との会食問題が明らかになって以後、「チャンス」はかつての運動の経験者を招いて当時の具体的経験を聞く学習会を始めている。私自身もこの七月に入ってからその一つに呼ばれて、ベ平連と権力との拮抗関係や、国家権力や軍隊と真っ向から対峙した脱走兵援助活動の実態などを若い人びとに話してきた。話の後の意見交換も真剣なものだった。警察との会食問題も、今後さらに突っ込んだ総括が「チャンス」としてもWPNとしても出されることを期待したい。
こういう議論が、運動内部での無用な対立を回避し、挑発を防ぐことにもなる。最近聞いたところによると、WPNの中心メンバーの名を騙って挑発的謀略文書(ある実在の党派への入党勧誘文書とのこと)が撒かれだしているという。運動内部での不信感と疑惑を作り出し、運動に打撃を与えるための悪質な行動であることは明白だ。かつて、原子力資料情報室の故高木仁三郎さんも、その名を使った謀略文書の攻撃に執拗に見舞われたことを想起させる。この面への警戒心を高めることも重要だ。
▼前号「たいら文章」への批判
こういうことと関連して、本『市民の意見30の会・東京ニュース』前号に載った「たいらひとし」さんの「『わたし』の戦争反対」という文章への意見をのべておきたい。
対イラク開戦に抗議し、アメリカ大使館への直接的な抗議行動に出たたいらさんの怒りにはまったく共感する。私自身も同じとき、市民の意見30の会・東京事務局の多くの仲間たちとアメリカ大使館前に駆けつけていた。
だが、たいらさんの文の終りに近い部分での、アメリカ大使館付近の集まりの描写と、そこで運営に当たっていた実行委員会(それはWPNとしてだった)の「顔役」に関する表現に、私は賛成できない。「『毅然とした行動』とその場の平静を保つため警察と調整し、路上に溢れていた人びとをわざわざひきあげてその『集会』を準備した実行委員会の『顔役』は……」以降の叙述は、運動をともに構成している仲間に対する批判としては不適切な表現であり、批判というより皮肉を込めた感情的非難になっており、運動内部での対立あるいは亀裂を増幅させるだけで、建設的な姿勢とは受けとれない。それに私の知る限り、「警察と調整」というような事実は確認できていない。運動のメンバーの個人的名誉に関わるような表現は、確証がないかぎり軽々しく公開の場で述べるべきではないだろう。私はこの会の一人として、事前に十分な検討なしにこの文が『ニュース』に掲載されたことは、不用意だったと思う。
▼秋の行動に向けて議論を
さて、もっと重要なイラク反戦運動の今後の問題点に最後にふれておこう。
先に述べた「チャンス」メンバーとの学習会の席での質問に、あれだけの広範なイラク反戦の世論の高揚にもかかわらず、小泉政権への支持が一向に減らない問題、有事法制反対行動や対イラク自衛隊派兵法反対運動への参加者数の減少などの問題が提起された。こうした問題は、ベトナム反戦のときにも見られたことだった。アメリカのベトナム戦争への批判は、マスコミの世論調査によれば常に過半数だったのだが、日本政府は一貫してアメリカの政策を支持し続け、その手を押さえることはついにできなかった。
私は、その質問に対して、一つだけ意見を述べた。都心での大きな行動や、国会への行動などとともに、それぞれの人が居住する地域でどういう行動をするかが大事だろう、私は、ベトナム反戦のときは、都心での行動しかしなかった、その後、自分の住む地域でも仲間と共に街づくりの運動や、市会議員選挙の運動などにもかかわり、その両方を続けることにしている、と。本『ニュース』77号で「波立て! 統一地方選挙」という文を載せている西東京市市会議員の森てるおさんは、そうした仲間の一人で、前回の選挙(昨年12月)の際に私が支持した候補者だったが、選挙公報の中でイラク戦争や有事法制にふれて反対を表明したただ一人の立候補者だった。「自治体の選挙であっても、市民の立場から国政に口出しをするべきです」という森さんの主張には全面的に賛成だ。これが唯一の方法とは言わぬまでも、地域での変革なしに反戦の世論が国政を直接変革できることは困難だと私は思う。6月末の神戸「非核・平和条例を考える全国交流集会」では、自治体のもつ力を発起して有事法を発動させないためのさまざまな提言が出されている。WPNがもっぱら分担してきた大都会や政治の中心部に向けての大衆行動と、この地域や自治体の分野での活動との有機的結合がもっとはかられる必要は大きいだろう。
こうしたことを含めて、秋の行動に向けて、WPN第2期の内外で、大いに議論の場をつくってゆこうではないか。すでに9月27日には、アメリカやイギリスの反戦組織が国際的な大きな共同行動を呼びかけており、また一方、それより前の9月13日にはメキシコでのWTO閣僚会議に抗議し、「NO
WAR!NO WTO! グローバル・ピース・マーチ」の行動が国際的に呼びかけられている(別掲、大野和興さんの文など参照)。8月上旬のヒロシマでの諸行動、そして敗戦記念日8月15日の行動を経て、秋のこれらの共同行動への結集を準備してゆこう。
(よしかわ・ゆういち、市民の意見30の会・東京事務局)
( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.79 2003.8.1 に掲載)