50. 武藤一羊「鶴見良行とベ平連」( 武藤一羊著『 帝国の支配/民衆の連合』社会評論社刊に所載 )(2003/03/06搭載)
かつてべ平連というものがあった。「ベトナムに平和を!市民連合」が正式名称だが、略称の方が通用した。三〇年以上前のことである。一九六五年アメリカは、北ベトナムを爆撃し、南ベトナムに五〇万の地上軍を送り込む大侵略戦争に突入した。佐藤栄作の下、日本政府はアメリカを全面的に支持した。この戟争に反村する大きい運動が日本に生まれた。べ平連は、そのなかで異色な運動であった。それまでの社会運動のしきたりを無視して、すき放題、やりたいことを、やりたいスタイルでやってのけたからである。
鶴見良行に私はこのべ平連のなかで出合った。いや東京のべ平連の中でと言うべきであろう。ベ乎連はやがて大きい全国的な運動になるが、この動きを創始したのは東京に寄り合った雑集団だった。そしてそれは、後に生まれた地域に根ざした各地べ平連とはかなり異質な集団だった。小田実を筆頭に当時三〇代前半の物書き、教師、共産党除名組などに加えて、運動が進むにつれて引き付けられてくる学生や受験浪人などが、べ平連事務所というスペースに寄り集まることで蜂の巣のよぅにウアーンという音響を発散していた。この独特の運動集団は、猛烈な魅力と、いたたまれないほどの臭みを同時に発散していた。魅力は自由閥達さにあった。好きなことを言い合い、議論を楽しんだ。臭みは、知識人メディア社会に市民権をもつ (もちつつある)人々の香り・自己満足・青臭さから発せられるものだった。だがそれを含めてここにはかなりのパワーの集積があった。フランス革命前にできた「サロン」に似たものではなかったか、と後に気付いた。毎週火曜日、「内閣」と称された運営会議が開かれ、七時から一〇時ごろまでの間に人びとは思い思いの時間に到着し、議論に加わった。「内閣」は半分は運動実務を処理する場だったが、後の半分はサロンだった。
この中で鶴見良行はどういう役割を果たしていたか。運動的役割については、はっきりした印象がないので吉川勇一に確かめたら、当時鶴見良行は「外務省」と呼ばれていて、もっぱらアメリカの反戟運動との窓口になっていたという。そう言われればその通りである。彼は、アメリカ通として存在していた。彼の書くものはアメリカ批判、それとの関連での日本国家批判に主軸があった。今では鶴見良行は「アジアの人」として知られているが、最初は「アメリカの人」だったのである。英語でしゃべるとき、上目使いでくるりと目を見張り、彼独特の「いかにも満足」という表情になるので、「良行が先に生まれたか、英語が先に生まれたか」などとからかわれていた。「アメリカの人」から「アジアの人」への転換は七〇年ごろを境に徐々に起こっていくと私は見ているが、それについては別に論じたのでここでは立ち入らない (『オルタ』一九九九年三月号、武藤一羊『(戦後日本国家)という問題』れんが書房新社、所収)。
サロンとしてのべ平連にとって、鶴見良行は魅力的な存在だった。そしてべ平連運動というものにとってそのサロン的性格が、余計なものでなく、むしろ核心だったと考えるなら、鶴見良行はその中心にいた。一方で細部に徹底的にこだわる彼は同時に夢想家(ヴィショナリー)であった。脱走兵援助という当時の運動常識にないことをべ平連が手がけたとき、鶴見は池袋の自宅マンションを初期のアジトとして提供した。ソ連経由で四人の米軍脱走兵をスウェーデンに逃がす計画がきまったとき、東京で記者会見を行って事実を公然化する必要を強調したのは鶴見良行だった。モスクワは、脱走兵を、米国との対決という点では利用できるものとして評価するだろう。だが国家という立場からは兵士の脱走は忌むべき重罪だ。国家としてソ連は兵士の脱走一般を許容したくない。だからどうでるかは分からない。ソ連に着いて行方不明になるかもしれない。その危険を未然に防ぐためには、脱走兵援助の事実を東京で公表して、モスクワの手を縛るべきだと彼は強く主張した。みなが同意しそれが方針となった。
鶴見良行は国家への深い不信を抱き、国家を越えるビジョンに導かれていたのである。「サロン」での議論は空論に響いたが、必ずしもそうではなく、脱走兵援助の場合のように、そこから適切な具体的方針を導出することもできたのである。彼はまた巨大官僚組織に徹底的な不信を抱いていた。深夜「内閣」が終わると一同はスナックなどに移動して、不急不要の議論を重ねた。そんなある夜、米国の黒人労働者の闘いが話題になったとき、鶴見良行は急に、労働者が勝ったとすると、GMのような巨大組織はどうするのかねー、としきりに自問自答を始めた。巨大組織の官僚化は避けられない。だとすれば管理者が労働者になってもどこが違うのか。労働者がGMを乗っ取るなどという可能性が現実に存在していたわけではなかった。しかし彼の頭の中では、ある図式あるいは仮説が出現し渦巻いていたに違いない。それが彼を知的興奮に導くのである。現状を越えたところにどういう世界をイメージできるのか。具体的な細部に触発されてそれをイメージしようとするのはヴィジョナリーの質である。
鶴見良行が真似のできない勤勉さでディテイルを集め、生の現実を観察し、それらをすべてカード化し、細部を新しい図柄に組み立てなおす作業に本格的に没頭し始めたのは、おそらく「アジアの人」になってからであろう。花崎皋平は、鶴見は「玩物喪志」ではなくて、「玩物養志」 の人だったと言う(「追悼・鶴見良行」『みすず』四〇七号)。「珍奇なものを愛玩して大切な志を失うこと」が玩物喪志だとすれば、鶴見は「バナナやエビやヤシや漁具にこだわることをつうじて、歴史と世界のこれまでとはちがった見方への志を養い、新しい学問の道をつけ」た、「物に密着しつつ、志を養った」 のだと言う。それに同意しつつ、鶴見は仮説の人だったということをつけ加えたい。鶴見の中で「物」と「志」をつなげていたのは積んでは崩しまた積むという仮説生産のプロセスだったのではないか。事実鶴見アジア学は、定説を覆す多くの発見的仮説に支えられている。旺盛な好奇心に駆動される仮説生産のプロセスは鶴見の情熱を組織する。新しい仮説によって世界はまるごと鶴見の頭脳の中で再構成され、次に凝りに凝った文体によって文章として展開され、完結する。認識の過程は誰でも多かれ少なかれこのようなものであるかもしれないが、鶴見の場合この完結性が、ときとして対話の成立を困難にするほど見事に仕上がっていたという印象がある。七〇年代初
め、私は鶴見良行、北沢洋子、加地永都子などとアジア太平洋資料センター(PARC) を立ち上げ、鶴見のアジア期の初期、一緒に仕事をすることになった。その頃の忘れられない情景がある。鶴見と北沢が、並んで座り、何かのテーマで、元気よく議論しながら、お互いに、そうそうその通り、と意気投合しているのである。しかしよく聞いてみると、議論はまったくかみ合っていない。それぞれが、正面を向いて、まったく違う自説を述べ合っているのだ。二つの平行したモノローグが展開され、互いに誤解しあって、意気投合しているのである。驚いた。
べ平連「内閣」というサロンは、複数のモノローグをダイアローグ、そして討論に変換していく場であった。そのようなムダな場を備えた社会運動はその後あまりなくなったようである。
(武藤一羊著『
帝国の支配/民衆の連合』社会評論社刊に所載 初出は『鶴見良行著作集2 ベ平連』月報 みすず書房)