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9. 吉川勇一「戦後思想における『用語』という問題――小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉』を読む」(『季刊 運動〈経験〉』2003冬)(2003/02/18搭載)
……第二は、ベ平連に関する考察についてである。著者は、第16章の「注(1)」の中で、「ベ平連の活動の記述については最低限にとどめた。ベ平連の活動や内情、メンバーの一九七〇年代以降の動向に詳しい運動関係者には、本章の記述はやや概略的かつ公式的と感じられるかもしれない」とあらかじめ弁明し、また、「本章の対象は、鶴見と小田のナショナリズムおよび「公」をめぐる思想展開であり、彼らの思想がベ平連(とくに初期)の活動といかに関連したかであることを付記しておく」と断っている。だから、記述が「概略的かつ公式的」というつもりはない。私の運動の仲間である日蓮宗のある僧侶は、本書を読んで「『ベ平連』でおもしろかったのは、鶴見→アメリカ哲学、小田→ギリシャ哲学が背景にあるというところでした。現代と古代のデモクラシーのベ平連への影響は興味あるテーマです」と書いてきた。ベ平連の思想を論ずるのに、まず鶴見、小田の二人を取り上げることに私も異存はない。だが、それではどうしても落ちてしまう部分が残る。それは、ベ平連運動を構成した要素の一つとしての「共産党除名者」(あるいは離党者)グループの存在である。私がその一人であることは本書の中でも触れられているが、私のことはおいて、武藤一羊、栗原幸夫、花崎皋平、いいだももといった人びとのベ平連に与えた影響は無視できないと思う。ベ平連が広い意味では「新左翼」勢力の一部とされながら、しかし新左翼勢力の中心であった多くの党派や全共闘などと違った傾向を持つのは、鶴見・小田の思想とともに、これらの人びとの影響も大きかった。地方のベ平連グループでも、札幌、静岡、金沢、京都、大阪、福岡などの有力グループの中心にはそういう人びとがいた。……
……以下は、本書の内容と直接関連することではないのだが、著者の言う「言葉」「表現」と「心情」ということに関連して、最近感じていることを最後に記してみたい。
1月18日、アメリカ、イギリスをはじめ全世界25ヵ国(1月15日現在でわかっているもの)で行われるイラク攻撃反対の行動に呼応して、日本でも東京の日比谷ほか多くの都市で集会やデモが行われる。東京では、多くの市民団体が連合して活発な準備を進めている。昨日15日にもその最終事務局会議が開かれ、私も顔を出した。そこでの若い人びとの積極的な活動ぶりには目を見張らせられ、私は、あの5万人の参加者があった1969年6月15日の共同行動の準備会の熱気を想起した。
『〈民主〉と〈愛国〉』のベ平連の記述の中で、著者は、1964年から国際電話が一般に自動回線で利用できることになったなどの「技術の進歩」を、ベ平連が活用したことふれている(775〜6ページ)が、もちろん、今ではインターネットである。この準備会から日々送られてくるメールや、そこが運営するホームページの情報量には圧倒される、と言うよりも、私などは、いささか辟易ぎみである。
そこで気がつくのは、この運動の中で使われている用語の問題である。まず、「デモ」という言葉が使われない。使ったからといって批判されるわけではないが、言われているのは「パレード」なのだ。ホームページで紹介されている18日の東京以外の各地での行動を見ても、「デモ」という用語は、東京・福生公園で行なわれる横田基地デモと名古屋での「ピース・デモ」だけで、ほかはすべて「パレード」「ピース・ウォーク」「街頭ウォーク」等々である。
東京での第一回準備会では、この催しの名称が議論されたが、ある若者から出された「ピース・フェスチバル」はさすがに賛同者が少なく退けられたが、30年前だったら何の抵抗感もなく受け入れられた「共同行動」「反戦行動」(その一つ前の時代なら「統一行動」「一日共闘」)などではなく「ピース・アクション」に決まってしまった。これも全国的傾向である。
私は家に帰ってから、parade を大英和辞典で引いてみた。中期フランス語が語源で、「1
行列,
パレード,
(示威)行進;[集合的に]行進する人たち
2
見せびらかし,
誇示;壮観 3
閲兵,
観兵式;[集合的に](閲兵式で行進する)軍隊……」とあった。「示威行進」という意味があるのだから、「デモ」と同じなのかとも思ったが、『広辞苑』第五版での「パレード」は「@祝賀や祭りの華やかな行列・行進。A閲兵式。」とある。日本語になると、だいぶ違うニュアンスを持つようになっているのだ。いやしくも何万という死者の出ることが予想されるイラク攻撃に反対する行動なのだから、「祝賀や祭りの華やかな行列」などではなく、「デモ」〈示威〉だろう、と私などは思うし、私とほぼ同世代の仲間の中にはもっと反発を示して「行く気がしなくなる」とまで言う人もいる。なぜ、この若い人びとは「パレード」や「アクション」という言葉をあえて選ぶのだろうか。
今年早々、60年安保闘争の中で生れた「声なき声の会」の創立者、画家の小林トミさんが72歳でなくなられた。お通夜や葬儀に参加して、私は自分たちが力を注いだ60年〜80年の反戦闘争がこれで一つの区切りが画されたという思いを抱いたのだった。
そして、今1月18日の対イラク攻撃反対の行動に集まっている若い世代に、私たちが運動に使った言葉の一部をそのままでは引き継げなくなっており、彼らもまた、まだ自分たちの抱く心情を適切に表現する言葉を生み出しえていないのだと思ったのだった。
ベ平連が生れた当初、私たちは、それまでの「国民的平和運動」などという表現(大規模に展開された原水爆禁止運動などはそう呼ばれた)を意識的に退け、「市民による反戦運動」と自称した。これに対し、既存の集団からは「ベトナム人民が解放戦争を戦っているのに『ベトナムに平和を』などという表現は適切でない」「ベトナム人民連帯」「ベトナム人民に勝利を」と言うべきであるというような批判も受けた。しかし、「反戦市民運動」や「ベトナムに平和を」という表現は、それまでになかった新しい運動を作り出すのだという意気込みの私たちにとっては、適切であり、必要な表現だと考えていた。
そう思い返してそれを重ねてみるとき、「フェスチバル」は勘弁してもらうとしても、「パレード」には我慢して、私はこの「パレード」デモを歩くことにしている――この若い人びとが、今の時代にふさわしい新たな運動を力強く創出し、そしてそれを表現する適切な言葉も生み出しててくれることを強く希望しながら。(2003.1.16)
この全文は、吉川勇一の個人ホームページの「最近文献」欄に掲載されています。