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ベ平連が「私の大学」だった!?
なにせ三十年以上も前の古い話である。たしかに、その週刊誌には、その前から小さい無署名記事の仕事をもらっていたが、当の私自身でさえ、そんなものを頼まれて書いたことがあるのをもう半分忘れていた。ところが、親切にも掲載誌を探し出してくれた人がいて、そのコピーがいまここにある。中身にさっぱり覚えがないとはいえ、私が書いたものである。それを自分で引用するというのも妙な気分だが、その時代の団塊ドロップアウト組がどういう気持でいたか。まずは内容の一部をごらんいただきたい。
(ついに大学というものへ行きそびれてしまった。そう自覚してからすでに久しい。本来なら、というのもおかしいが、ともかく高校を卒業したのが六六年の春だったから、その年に入ったとして卒業は七〇年。すると今ごろは、などと考えても、もはやせんないことだが……)
と、こんな調子でぐだぐだと歯切れの悪い前置きをしたあとで、このなりたての団塊ドロップアウトはいう。
〈ゴーリキーは、放浪と徒弟生活と飢えの連続した青春の日々を「私の大学」と呼んだということを、なにかの本で読んだことがある。もちろんぼくは、放浪にも飢えにも(おかげさまで)無縁だったし、ゴーリキーのでんで、べ平連を「私の大学」などと呼ぼうというのではないが、ただいまの現実にしたがって、大学四年間を人生コースのある時代区分だとするなら、ぼくにとってべ平連は大学であったにちがいない)
さりげなくマキシム・ゴーリキーの名前などを持ち出すあたりがい.かにもこざかしいし、それに、このだらだらとしまりのない、もって回った文章はなんなんだ。文章の作り方の本なども出しているいまの私がみれば、いいたいことはいくらもあるが、なによりよくないのは、読者に嘘をつこうとしているところである。
たしかに、当時のべ平連の「指導部」には、哲学者の鶴見俊輔、作家の小田実、開高健(初期だけ)をはじめとして、どこの大学の教授会より優秀な面々が揃っていたから、そこを「私の大学」に見立てるのはいい。しかし、この若い筆者が、自分のことを、あえて独学の道を選びとった者であるかのようにいうのは明らかに嘘だろう。そのてんまつは右にお話しした通りで、独学などとそんなご大層なことを考えたことは、昔もいまも、金輪際ないはずである。
では、右の手記がいう「私の大学」とは、いったいどういうところだったのか。いまとなっては「それなあに?」という人もけっこういるはずだから、少し解説をしておいたほうがいいかもしれない。
べ平連は正式名称を「ベトナムに平和を!市民連合」といって、発足は一九六五年四月二十四日。それまで「南」を中心に展開していたアメリカ軍が、当時の北ベトナム領内への越境爆撃(北爆)を始めて、ベトナム戦争をまた一つエスカレートさせたときだった。「代表」は、ベストセラー『何でも見てやろう』の書き手として当時の有名人だった小田実(一九三二年生まれ。このとき三十二歳だから、得意の絶頂にあったときの「ライブドア」のホリエモンと同い年である)。この何の運動経験もない小田実を引っ張りだしてきて、代表にかついだのは、鶴見俊輔だったといわれる(注C)。
それからまたたくまに、べ平連は一大勢力に成長する。当時は、学生たちが、ヘルメットにゲバ棒で、機動隊を相手に大暴れをしていた時代である。それを横目に見ながら、「私も反戦の意志を示したいが、ああいうのはとても……⊥と思っている「普通の市民」はいくらもいた。そういう人々に参加の場を提供しようというのがべ平連の趣旨で、この自由で開かれた運動スタイルはたちまち全国に波及。最盛期には、北海道から沖縄にいたる各地と各大学・高校に四百近いべ平連が存在するまでになるのだが……。しかし、ここはべ平連運動に深入りする場ではない。本筋にもどって、一人の音大受験生が、どうして団塊ドロップアウトになってしまったかの話をつづけよう。
西口フォークゲリラ
転落のきっかけとなったその日のことは、いまでもよく覚えている。あれは一九六七年か。手にはトランペットのケースを提げていた記憶があるから、あるいはレッスンの帰りかなにかに、ちょっと覗いてみようという気になったのかも知れない。
当時、べ平連の事務所は、御茶ノ水の駅のホームからもよく見える、神田川べりの雑居ビルの二階にあった。狭い階段を上がっておそるおそるドアを開けると、奥のデスクに、「巨人の星」の花形満みたいなスカした感じの若者がいて、しかつめらしい顔で会計帳簿をつけている。これが後にノンフィクション作家となる吉岡忍(一九四八年生まれ)で、このときはまだ早稲田の政経に籍だけはあったはずである。
「あの、なんかお手伝いすることはないかと思って……」
私がそう口を開くと、ジーパンに黒シャツの袖をまくりあげた吉岡忍は、「じゃあ、発送を手伝ってください」と事務的にいって、部屋の中央の作業テーブルを顎で示した。そこで私は、何人かの学校帰りの高校生たちに混じって、いわれた通りに「べ平連ニュース」を封筒に詰める作業にとりかかったのではなかったろうか。そのときはもちろん気づいていないが、こうして私は、ドロップアウトの方向へ向かって最初の一歩を踏み出すのである。
まあ、ありえないことだとは思うが、もしあのとき吉岡忍が、「手伝いはいらないから帰れ」と私にいっていたらどうだったろう。あるいは、あれよりもう少しだけ感じが悪くて、私にまたそこへ来る気を失わせるような態度に出ていたらどうだったろうか。そうすれば、私の団塊人生もまったくちがったものになっていた可能性もないではない。しかし残念ながら、現実はそうならなかった。そして私は、その日以来、連日のようにべ平連の事務所に顔を出すようになる。
ここから先は、もう坂道を転げ落ちるだけだった。
そのうち私が脱走兵援助の活動にたずさわるようになると、転落の速度はさらに上がる。なにしろ、べ平連を頼って脱走してきた米兵を、ひそかにかくまう仕事である。そして決行の日がきたら、かくまっていた彼らを、当時のソ連経由でスウェーデンに送り出すために、警察の目をかいくぐって北海道の根室港まで連れて行く任務である。
指定の時刻ぴったりに突堤の手前にレンタカーを着け、真暗な北の海に向かってヘッドライトを一度フラッシュさせる。すると突堤の先に懐中電灯を持った黒い人影が現われる……。こんな映画もどきの血沸き肉躍る体験をしてしまったら、もう辛気臭いラッパの練習などしていられない。
その結果、私は逮捕されて、ドロップアウト決定となる話はすでに申し上げた。おかげで、それまでに受けたレッスンもなにもかもがパアになったわけである。しかし、その蓄積が思わ
ぬ場面で役にたったことが、その後たった一度だけある。
べ平連の一派の「新宿フォークゲリラ」が、週末ごとに新宿駅の西口地下広場でフォーク集会をしていたときのことである。集会は回を追うごとにどんどん盛り上がり、ついには数千人の観客を集めるまでになっていた。
ところが、このフォークゲリラというのは、もともとが「音楽」よりは「活動」に軸足のある連中なので、数人の中心メンバーをのぞくと、ギターの腕はみんないいかげん。なかには、楽器のチューニングさえまともにできない者もいる。そこで多少は耳のいい私の出番になった。なにをするのかというと、集会が始まる前に、本日の出演者のギターをずらりと並べて、全部のピッチが合うように調絃をするのである。
しかし、そういう裏方はやっても、私はギターが不得手だったから、実際に楽器を抱えて観衆の前に立つということはまずなかった。ところが、たまたまその数少ない「出演」シーンを、テレビ局がフィルムに収めていたのだろう。いまでもそれが資料映像に残っていて、「騒乱のあの時代」をとりあげる番組があるたびに、ギターを掻き鳴らす私の姿がテレビに映る――という笑い話は前にも書いた。笑い話とはいいながら、ドロップアウトになったばかりの三十数年前の私と対面するのは、それはそれでなかなか感慨ぶかい体験というほかない。
注@ フォーク(エレキ)ギターが流行る一つ前に、かっこいいとされた楽器。「真夜中のブルース」(ドイツ映画「朝な夕なに」の主題曲)、「星空のブルース」など、トランペットソロをフィーチャーした曲がつぎつぎにヒットし、やがてニニ・ロッソなどという名手が現われて、さらにその熟を高める。その人気にあやかろうとしたのだろう。「ギターを持った渡り鳥」のはずの小林旭までもが、映画のなかでこの楽器を手にした。
注A JATEC(Japan
Technical Committee to aid
U.S.Anti-War Deserters)=反戦脱走米兵援助日本技術委員会。この組織がひそかに日本から海外に逃がした脱走米兵は全部で十数名。脱走兵たちに家の一部屋を提供してかくまってくれたのは、ごく普通の市民たちだった。活動の日常は、当時いっしょにやっていた阿奈井文彦が回想して書いた『べ平連と脱走米兵』(文春新書、二〇〇〇年)にも詳しい。
注B べ平連運動の意味をいまも思想の問題として問い続けている鶴見俊輔(一九二二年生まれ)さんは、あれ以来三十数年、たびたび私(山口)への「責任と負い目」を口にしている。最近も、『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二著、新曜社、二〇〇四年)のなかで、「鶴見(前略)そして、彼らの運搬をやっていた当時十九歳の山口文憲も、適当な理由をつけられて警察に連れて行かれた。/べ平連の脱走兵援助活動のなかで、警察に逮捕されたのは、彼だけなんだ。
(中略)そういったことで彼は大学へ行くのを諦めてしまった。だから私のミスで、彼の生涯に影響を与えてしまったんだ」とおっしゃってくれているが……。実際のところは本文のようないいかげんな話なので、たいへんに心苦しい。どうぞもうお忘れくださるように。
注C しかし、こうした「文化人」の力だけで、あれだけの運動を動かせるものではない。プロデューサーの隣には、「事務局長」の吉川勇一、参謀格の武藤一羊など、共産党除名組の最良の頭脳(東大細胞時代には、のちの党委員長・不破哲三などをパシリに使っていた人びと)がいて、そういう「良心的マルクス主義者」の市民運動への献身が、べ平連をよく支えていた。実際、そういうプロたちの、ある意味「うしろ暗い」経験とノウハウがなくては、脱走兵援助の非公然組織を作ることも、その出国ルートをめぐってソ連大使館ときわどい交渉をすることもできなかったろう。当時、全共闘の諸君は、べ平連の「花束デモ」なとを小バカにしていたが、これはまったく無知のなせるわざ。たまたまその「中枢部」に出入りしていた私などは、デモの打ち上げの席で「大人たち」がポロリと漏らす、「昔、小河内ダムのあたりの山中で機関銃の稽古をしていたときの話」をどを、ドキドキしながら聞いたものである。
…… (本書111〜119ページ) |