175 鶴見俊輔「架空の演説」(全文)( 『活字以前」42
号 2010年1月)(10/02/22掲載)
架空の演説
鶴見俊輔
私は小田実と対立したことがある。べ平連をやめる、と小田実(べ平運代表)が同行の吉川勇一(事務局長)に言って、私の家の近くまで来ても車から降りず、吉川ひとりが私の家まで来た。
その原因は、大阪の大阪城公園ではなした私の演説にある。
分裂はくいとめられた。小田は吉川の説得に応じてとにかく私の家まで来た。
そのとき、私はあやまったが、原因となった演説について、どうしたらよかったのか、四十年、考えている。
四十年おくれて二〇一〇年一月一六日に、今、書きかえた演説を書く。これは事実の偽造ではない。架空の演説の創出である。
「今は、この公園の土の上でくらす人たちと、東京から来てホテルにとまっている幹部の対立があって、幹部つきあげの気分がもりあがっています。しかし、この区分は、今日、今晩のものであって、そこから、見る見方は、せまい。私の仲間は、六〇年安保反対以来の声なき声の会で、今日は、この大阪城公園でキャンプして土の上にすわっています。収人と地位の分析からすると、ホテルからかよってきた幹部とちがいはありません。ただこの場からの土民の反乱と、私たちが考えることは、場ちがいです。」
これが、私の今、考える演説の中心である。
この演説をしたとしても、場内の幹部つきあげは、おさまらなかっただろう。しかし、実際に私のおこなった演説で、代表の小田実を映画俳優中村錦之助になぞらえて、その人あつめの力に水をかけるのは、幹部つきあげの空気をつよめるはたらきをもつだけのもので、場のもりあがりに同調して、代表小田にうらぎりとうけとられることを考慮しないあさはかなものだった。
私は器量がない。べ平連の盛大は、小田実の力を得てはじめてなったものである。そのことをしっかり心において、黙っているのがよかった。もし演説するとしたら、前に書いた架空演説で、それは、実現したとしても、この場で効果のない行動でしかなかっただろう。
いずれにしても、四十年後から見て、内ゲバなしの市民運動として、べ平連は保たれ、ベトナム人民勝利をむかえて、終った。
吉川勇一の持続力と小田実の器量に負うものだ。
−この雑誌は読みごたえがあります。入院の予定なので早目に原稿をおくります。鶴見−
(『活字以前」42号 2010年1月)