170 中川六平『反戦喫茶「ほびっと」の軌跡』(週刊朝日 2010219日号)(10/02/10掲載)

普天間の行方…

Back to the 70's  基地問題の原点を考える

反戦喫茶「ほびっと」の軌跡

普天間基地の行方が長年にわたって定まらない底流には、世の中の無関心が横たわってはいないだろうか。そんな今だからこそ、40年前のあの時代を伝えたい。どこにでもいる若者がベトナム戦争に反対し、基地と向き合う反戦喫茶の店主に据えられた。当時の記憶を、その元若者、編集者の中川六平氏(59)が述懐する――。

 日本の普天間(沖縄)と岩国(山口)、そしてベトナムのダナン。米軍の海兵隊が居座った三つの基地は、かつて一つの戦争でつながっていた。ベトナム戦争。
 海兵隊は敵陣へ最初に投入される殴り込み部隊で、なんでもありの戦争集団だ、と米兵が教えてくれた。40年前に知ったとき、ぼくは20歳だった。いまではダナン基地は過去のものとなり、岩国基地は瀬戸内海に向かって拡張
工事中、普天間基地は移設の行方が日米関係の大きな問題に発展している――。
 1970年春。ベトナム戦争は北爆から5年が過ぎていた。大阪万博が開幕したばかりで、「新しい未来が誕生」というポスターが街にあふれていた。そんなある日、大学のべ平連の仲間から声をかけられた。
「岩国でデモをやらないか」
 べ平連とは「ベトナムに平和を! 市民連合」の略称。戦争に反対する人たちの緩やかな連合体だ。ヘルメットをかぶって殴りあう
こともない。意外に女の子も多かった。ぼくは同志社大学のべ平連のデモに加わっていた。
 岩国には大きな米軍基地があり、基地内ではベトナム戦争に反対する米兵が運動を起こしている。アンダーグラウンドの新聞が発行
され、黒人への人種差別に抗議する集会も開かれていた。面自そうだね。心が動いた。戦争に反対だという兵士たちに、会ってみたく
なったのだ。
 ぼくは岩国のデモに出かけた。有刺鉄線の向こうに広がるアメリカを初めて眺めた。基地は、ベトナム戦争帰りの米兵と、これから 戦場だという米兵であふれていた。定員3500人のところに6千人が押し込められていた。夜、バー街は彼らであふれている。米兵の口癖をすぐに覚えた。
「Fuck the Vietnam War!(ベトナム戦争にはうんざり!)」

 「ほびっと」の外観(右上)と店内(左上)の様子。
 地図は中川氏(円内)が当時を思い起こして描いた

 


船から凧飛ばし戦闘機を止めた

 それから岩国に通い始めた。職業軍人以外は、ぼくとほとんど同じ年ごろだ。戦場ではないのに、戦争の匂いが漂っている。米兵一
人ひとりに反戦ビラを手渡す。そんな自分がうれしかった。基地から飛び立つ戦闘機をみつめるだけの非力さを痛感した。そんな自分
にも出会った。基地での核保有疑惑が浮上すると、ガリ版で刷って駅前でビラをまいた。財布から200円を取り出し、カンパしてくれるおばさんもいた。
 岩国での滞在は次第に長くなった。ワクワクしたのである。高校時代に出会ったベトナム戦争の写真。焼身自殺するお坊さんや、子
どもを抱きかかえ逃げまどうおかあさん、至近距離で頭を銃でぶち抜かれた少年の表情も忘れられない。
 その頃から思った。戦争はよくない。人を殺してはいけない。そんな心のざわめきが、ぼくをべ平連に連れ出し、ついには岩国まで
運んできた。いま、その戦争の近くにいる。
 こどもの日には、基地の前で凧(たこ)をあげた。大勢の警察官に取り押さえられると、仲間が川に浮かんだ釣り船から凧を飛ばした。その日、凧が戦闘機の出撃を止めた。
 営倉内では、人種差別と上官への抗議で反乱が起きた。カタコトの「ファック・ザ・ベトナム・ウオー」で、
ぼくらも同世代の米兵の輪に入っていった。女の子に興味を持ち、酔うとアメリカにいる家族の写真をみせてくる。理路整然と反戦を語るのではなく、ただ戦争にうんざりしていた。それは、ベトナム戦争の写真をみて、心がざわめいたぼくと同じだと思った。シンプルだった。
 青春がぼくにあったとするなら、それはべ平連であり、岩国だ。いまさら、青春と口にする歳ではないが、そう思う。
 2年後の72年2月反戦喫茶「ほびっと」は開店する。もっと人込みにまぎれ、戦争反対の声を広げようという試みだ。米兵と米兵、日本人と米兵、日本人と日本人の出会う場所である。マスコミは、連日のように連合赤軍のリンチ殺人事件を報じていた。そんな時代だった。

公安警察に駅で待ち伏せされた

 反戦喫茶店は米国では「空飛ぶ円盤」と呼ばれる。68年かGIらコーヒーショップ運動として、基地の町に広がった。米兵と普通の
市民が協力して、映画会や読書会、ときにはロック大会を開き、「兵士を個人に立ち返らすこと」を目標にした。日本では「ほびっと」より2年前の70年に三沢空軍基地(青森)で「OWL(ふくろう)」という名前の反戦喫茶店がオープンしている。


 店の名前は、米国人活動家のコード・ネームから拝借した。ウッドストック世代で、ベトナム戦争に反対し、米軍基地のあるアジア
地域で反戦運動を支援していた。一時期をぼくらと一緒に暮らし、米兵たちの基地内での運動も支援した。彼もうなずいた。
 実は『ホビットの冒険』という本があるんだ。イギリスのトールキンが書いた。ファンタジーで面白い。その場にいた日本人は誰ひとり知らなかった。初めて聞く作家と小説だ。
 ロジャー・ホビットは続けて話した。本の主人公、小人族のホビットは、次々に現れてくる怪物と戦うんだ。この話は、その場のぼ
くらを刺激した。目の前に、日本、アメリカという怪獣がいる。ベトナムという小さな国に牙をむいている。いいじゃない。そうやって店の名前は決まった。
 町の人たちの応援も支えになった。喫茶店の場所を教えてくれたのは、お医者さんの奥さんだ。
 喫茶店のメンバーは5人で、マスターはぼくになった。引き受け手がいなかったからだ。ふたりは京都から、3人は福岡から。ぼくはボブ・ディランが好きで、ある人はジョン・コルトレーン。趣味も性格も違う。ただ思いはひとつだ。戦争を早く終わらせようぜ!
 店の建設資金は、全国のべ平連のカンパだった。ジェーン・フォンダもやってきた。その岩国体育館での反戦ショーで出た売り上げ
も貢献した。椅子(いす)もテーブルも壁も手づくり。病院の跡をノコギリやカナヅチで改装した。フォーク歌手の岡林信康も、泊まり込んで手伝ってくれた。岡林の「ホビット」という歌は、ここから生まれた。
 米兵にも助けられた。ぼくらの食事の貧しさに同情して、基地からステーキをこっそり運んでくることもあった。内装工事もシロウ
トなら、料理もシロウト。店で出すメニューは、そうはいかない。町の喫茶店でアルバイトをして覚えた。カウンターの中の動作を学
んだ。
 店は力ウンターに4人掛けテーブル五つ。25人も入れば満席だ。コーヒーは100円、コーラは80円でカレーライスにスパゲティーが150円。ベーコン(B)にレタス(L)、トマト(T)をトーストにのせたBLTサンドイッチは米兵のお気に入り。250円と店で一番高かった。
 本棚にはゲバラやブラック・パンサーを並べた。木の壁には、軍隊のヘルメットに一輪の花が咲いているポスターをはった。ボブ・ディランの「BLOWIN' IN THE WIND」やドア−ズの「FIVE TO ONE」を流した。
 ぼくらは午前11時にドアを開け、午後11時にドアを閉めた。それが日々だ。地元の若者がたくさんやってきた。県外からも客がやっ
てくる。そこへ米兵もまじれば満席だ。売り上げの目標は1月1万円。はじめはそれも軽く超えた。2月25日の開店日、売り上げは1万4千円。
 ぼくらはG Iの恋愛から若者の進路まで、様々な悩みを抱え込んだ。なかには水漏れに困ったというおでん屋もいた。いろいろだ。それまではデモをやったら終わり。それが町と向き合ってみると、生活まるごとの運動だ。もちろん、明日はベトナムだ、そういって悩む米兵もあとをたたない。
 開店前から、ばくらには私服警官の尾行がついた。「赤軍派」だとでっち上げられて、新聞に取り上げられたこともあった。深夜の駅を歩いていると、4人の男に囲まれた。横っ腹に握りこぶしを当てられ、「この町に住めないようにしてやるぞ」と眉毛の濃い男に凄 まれた。その顔はのちに、警察署の公安課長だと知って身震いした。
 店は警察の家宅捜索も受けた。日記や手紙ばかり念入りに読まれた。誰も何の面識もない赤軍派の活動家と結び付けられて、何の証拠も押収されずに捜索は終わった。これは大人の支援を受けて、のちに国家賠償訴訟にも発展した。
 米軍海兵隊からは「ほびっと立ち入り禁止令」も出された。米兵の福祉や米国の安全にとって「有害」だという理由で、ぼくらとつ
きあってはいけないという。禁止令違反で逮補された米兵もいた。彼らの裁判も傍聴し支援したが、これじゃあ警察と米軍との挟み撃ちだ。ゾウに闘いを挑むアリみたい。そう思った。
 そのうち客の自宅や職場にも、私服の警察官が現れた。親がいれば、「娘がほびっとに出入りしてる」とか「あそこは赤軍に関係している。麻薬や爆弾にも関係がある」と言って脅かした。親とケンカして、悩みながら、ほびっとにやってくる。そういう若者もいた。
 次第に客足は鈍った。全国からやってくる若者や学生はいた。べ平連を起こした小田実さんや哲学者の鶴見俊輔さんがふらっと来てくれた。反戦のバスツアーや中川五郎のコンサートもあった。でも、赤字は続いた。自動車修理工場でバイ卜するスタッフもいた。
 店の合間に京都に戻って、ぼくは授業を登録し、追試を受けた。それも73年の夏までのこと。ぼくはマスターをやめて、大学に戻った。
 その「ほびっと」がドアを閉めたのは、ベトナム戦争が終わった翌年の76年1月。足かけ5年である。戦争のプロ集団・アメリカ軍
隊に立ち向かった。ぼくらは戦争のシロウトだ。武器もなければお金もない。人を殺す訓練なんかとんでもない。シロウトとプロとの
闘い。ぼくらの小さな記憶を書き残すことにした。
 ――何ができて、何ができなかつたのか。プログをやるように、ひょいと動き続けた足跡を追った。あの頃、ぼくらは人込みの中に
いた。そして、戦争のプロ集団はいまでも消えない。
                                           
中川六平

なかがわ・ろっペい 新潟県生まれ。同志社大学卒業。べ平連の活動に参加したのち、1975年に東京タイムズ入社。85年に退社後はライター・編集者として活躍。岩国でつづった日記 をもとに、当時の記録を『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』(講談社)として昨秋、出版した
(以上、『週刊朝日』
 2010年2月19日号)

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