167 斎藤貴男『 開高健の諦観』( 全文)(東京新聞 2009年12月9日号) 09/12/30掲載)

 以下は、筆者の斎藤さんの了解を得られた「開高健の諦観」(東京新聞 2009年12月9日号)の全文である。文中の「(ひらがな)は、新聞上ではルビであったが、ここではルビがつけられないので、このように表現してある。
 
 若い頃はあまり好きな作家ではなかった。大マスコミをバックに世界中の名魚怪魚を釣りまくっては、勿体(もったい)ぶった筆致で煙(けむ)に巻いてくる太っちょオジサンのイメージには、むしろ反感さえ抱いていた。
 なのに最近、彼と彼の作品群が、妙に気にかかる。一九八九年十二月九日、五十八歳の若さでこの世を去った男の没後二十年目などという理由では、もちろん、ない。
 開高健(たけし)。国内だけでなく海外でも高く評価され、安部公房らとともに「最も重要な日本人作家」とまで謳(うた)われた。
二十七歳で芥川賞を受賞した作家人生の前半はベトナム戦争のルポや小説、後半はフィッシング紀行文学で特に知られた。私には世代
的に(五八年生まれ)後者の印象が強い。ベトナムと釣りとのギャップには戸惑うしかなかった。
 開高は「ベトナムに平和を! 市民連合」(べ平連)の、小田実(まこと)と並ぶ呼びかけ人代表の一人でもあった。発足早々の『ニューヨーク・タイムズ』(六五年十一月十六日付)への反戦広告掲載運動では大車輪の活躍を見せている。後のべ平連事務局長・吉川勇一(七八)の話だ。
 「原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の大会で挨拶(あいさつ)してカンパを呼びかけたり。後でどこかに、原水キンだか原水キョウ(原水協=原水爆禁止日本協議会)だか、とにかく原爆反対で大勢集まっているところ、なんて書くものだから、原水禁が激怒して、代わりに私が怒られた(笑)。実際、開高さんにしてみれば、どちらでも構わなかったわけですが」
 反戦広告は無事に掲載されたが、開高は次第に運動と距離を置き始める。いわゆるベトコン(南ベトナム解放民族戦線)に肩入れしたがるべ平連に共感できなくなったらしい。
「なぜなら開高さんは米軍も、北ベトナムの援助を受けているベトコンも同じ穴の狢(むじな)と捉(とら)えていた。当時の反戦運
動の内部では受け入れられにくかった発想です」(吉川)
 べ平連誕生の直前、六四年から六五年にかけての約百日間、開高は南ベトナム政府軍に従軍し、生々しい戦場ルポを『週刊朝日』に送り続けていた。臨時特派員なる
特権者としてベトコン少年の公開銃殺刑に立ち会ったことも、ジャングルでベトコンに包囲されたまま、大隊から逸(はぐ)れてしまったこともある。
 〈ジャングルは深く、濃く、広大で、十メートルさきが見えなかった。太陽は白熱していた。私はここで渇死するかもしれないし、餓死するかも知れないと思った。(中略)東京の杉並区にいる妻子のことは考えるまいとした〉(『ベトナム戦記』朝日・新聞社、六五年)
 開高はその後、『輝ける閻』(六八年)と『夏の闇』(七二年)を潮に、ベトナム戦争に材を取る表現活動も手控えていく。反比例して目立っていったフィッシング紀行との間には絶望と諦観(ていかん)が読み取れるのは確かだが、安易な決めつけは慎んでおきたい。
 開高とはべ平連と、アジア・アフリカ作家会議でも長く交友した文芸評論家の栗原幸夫(八一)を訪ねた。なぜ、釣りなのですか?
 「開高はただ単に釣りが大好きだったんだ(笑)。そんな理屈よりも僕はね、彼はヘミングウェーになりたかったのだと思う。開高はベトナム戦争に、ヘミングウェーにとってのスペイン内戦を見ようとした。だが二人の間にはオーウェルが存在し、開高は彼の『カタロニア賛歌』を読んでしまっていた。正義、解放として讃(たた)えられるものの裏に何が潜んでいるのかを、どんな状況にあっても、常に考えずにはいられない作家になっていたんだよ」
 だから、苦しかった。
そういうことなのか。
 
いや、だとしたら私はどうして、彼の作品に後ろめたさ″とか居直り″とでも形容したくなる雰囲気を覚えてしまうのだろう。
 やっぱりわからない。知りたい。開高健がきちんと書き残していない感覚を理解しておくことが、現代の、私たちの世代の日本人には必要であるような気がしてならない。
 (さいとう・たかお
=ジャーナリスト)

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