164 小熊英二『1968【下】』(抄)(新曜社 2009年07月刊) 09/10/16掲載)

 以下は、194ページもある「第15章 ベ平連」の中の最後の部分だけの紹介である。

……べ平連の軌跡をどう評価するかは、簡単ではない。戦争体験者の記憶から始まったこの運動は、若者たちの叛乱の季節にぶつかって、あるい意味で予想外の展開をとげた。それがなかったならば、べ平連は年長者の少数の運動として数年で消えた可能性もあっただろう。
 従来のピラミッド型の党組織とは異なる、自発性にもとづく運動体原理は、当時としては画期的だった。だが結論でも論じるように、これは全共闘とおなじく高度資本主義社会のある意味で必然的なスタイルであるという側面もあった。そして自発性と多様性は、最後には専門化と個別化に至り、べ平連という枠を無効化していった。第14章も述べたように、七〇年代に入ると大セクトから十数人の小グループへ運動の中心が移っていったのは、べ平連にかぎらず「あの時代」の後半期の一般的傾向だった。そしてその後の市民運動団体は、個別課題にとりくむものが多くなり、グランド・デザインにもとづく結集が困難になっていったことは、七〇年代以降もつづく傾向となる。
 しかしべ平連は、七三年に彼らが夢みていたほどではなかったかもしれないが、各地に市民運動の種をまいて解散した。そして六〇年代末の若者たちの叛乱のなかで、この運動は年長者と若者が対立しつつ助けあい、「どこへも入るところのない人」の言葉にならない願望を集めるという、類例のない存在となった。その軌跡には、「一九六八年」と日本の社会運動を考えるうえで、現在でも学びとるべき多くの教訓と智恵がふくまれていたといえる。
 (本書199ページより)

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