149 鶴見俊輔氏に聞く『すべてが意外だった』毎日新聞 2009年02月04日 (全文) (09/02/04搭載)
すべてがが意外だった
組織者としての天分があった小田実
60年安保の経験が持続
評論家鶴見俊輔氏に聞く
――べ平運はどんな経緯で結成されたのでしょう?
鶴見 意外性として、記憶に残っていることがいくつかあります。一つは、アメリカがベトナムに負けるとは思っていなかった。おそらくベトナム人以外には、予測できた人は誰もいなかったでしょう。
もう一つは、べ平連ができたこと。あんなものができるとは私自身、全く予期していなかった。当時の私は43歳で、今は86歳です。明らかにべ平連が私の後半生を変えました。
――初めは高畠通敏さん(政治学者)のアイデアでしたね。
鶴見 高畠と知り合ったのは、彼が東大法学部政治学科1年の時です。師匠に当たる丸山真男さんの紹介でした。その時、「彼は秀才だから、つぶさないでくれ」と丸山さんから言われたのを覚えています。それだけ私は危険な人間だと思われていたのでしょう(笑い)。
60年安保闘争の時、高畠が事務局長を務めた「声なき声の会」(代表は小林トミ)は1万人を超すデモをやりました。ところが、運動がだんだん下火になっていき、7人しか集まらないまでに落ち込んだ。そのころアメリカの北爆が始まり(1965年2月)、翌月に高畠が電話をかけてきました。「シングルイッシューで市民運動をやろう」という提案でした。「世界一の軍事大国アメリカが海を越えて
小国の北ベトナムを爆撃するのはひどい。普通の人間の感覚にもとる。この一点でいこう」と。
――そこに小田実さん(作家)が加わったのは?
鶴見 高畠から話を聞いた時、私は「新しい組織には新しい代表を立てよう」と提案しました。その時注目したのが、60年安保の際、若い作家たちが作った「若い日本の会」には参加していなかった小田でした。私は彼がどういう人間か全く知らず、思いつきだったのですが、電話したら「やる」という返事でした。だからべ平連の最初の3人はマルクス主義者でも、学生運動から出てきた人間でもなかったんです。
小田は非常に気前のいい男で、組織者としての天分がありました。週ごとにべ平運の参加者が増えていった唯一の理由は彼の存在ですが、このことはなかなか理解されませんでした。私にとって小田は意外性に満ちた人間で、べ平連が米軍のベトナム撤退まで8年間も続く原動力となった彼の持続力にも驚きました。持続の立役者にはもう一人、結成の半年後に加わった事務局長の吉川勇一氏がいま
す。各地にべ平連が自然発生的にできたのも、脱走兵が現れ、支援することになったのも、私から見るとすべてが意外でした。
――なぜ、そんなに多くの人が参加したのでしょう。
鶴見 第1段階は60年安保にあります。70年ごろまでの人々は、ほとんどが自分の身内や知人を戦争で亡くした経験、「死なれた経験」を持っていました。でも、45年から50年代まではそれが公然と語られることはあまりなく、学生運動や組合運動の中でも表現されませんでした。その間堆積していたものが爆発的に出てきたのが、59年から60年の安保闘争です。学生運動の中で島成郎(ブント書記長、精神科医)らのリーダーが共産党から離れ、大衆と接触するようになったのがきっかけでしょう。5年後にべ平連が立ち上がった時、活動を支持する大衆が存在した背景には、60年の経験の持続があったのかもしれません。 【聞き手・大井浩一】
『毎日新聞』 2009年02月04日 なお、のちに毎日新聞社『1968年に日本と世界で起こったこと』(単行本、2009年6月刊)に採録。