148 「家族」に立脚した新たな運動生む 脱走米兵援助が直面したもの(抄) 毎日新聞 2009年02月04日 (全文) (09/02/04搭載)
この黒川さんの文と、次の鶴見俊輔さんのインタビューは、『毎日新聞』が毎月第一水曜日に文化面に連載中の企画「40年前〈政治の季節〉を考える」のひとつとして取り上げた「ベ平連」という記事の中に掲載されたもの。 この記事のイントロの最後には「……若い世代の立場から戦後の社会運動の意味を追求してきた作家、黒川創氏の寄稿と、ベ平連の中心者の一人だった評論家、鶴見俊輔氏へのインタビューを通し、「40年前」が現在に残したものを考える。」とある。 なお、のち、毎日新聞社『1968年に日本と世界で起こったこと』(2009年6月)の単行本にも、全文が再掲されている。
「家族」に立脚した新たな運動生む (抄)
脱走米兵援助が直面したもの
黒川 創
(前略)……一方、べ平連には、脱走米兵援助という、いわば運動の裏芸もあって、これは「ジャテック(日本技術委員会)」の名によって行われた。在日米軍墓地から、ベトナ米兵たちを、日本の市民の家庭で匿って、海外などに脱出させる手だてを求めたのである。全国で、おそらく何百という数の家庭がひっそりと協力した。いまの私には、むしろ、こちらの動きこそが、当時の新しいタイプの運動の特質を顕著に表していたものとして感じられる。
というのは、脱走兵の安全を確保しながら、彼らの身柄を次つぎに受け渡すというこの種の運動は、特定の活動家などではなく、ごく普通の生活を営む人びとが、家族の総意で協力することなしに、けっして成功しないことだからだ。幕末に多数の志士を民間が匿った時期のあと、そうした気組みは、近代日本の百年に、いったん絶えていたものだったろう。
権力批判の運動が徹底的な弾圧にさらされた戦前を考察して、「家族」への情愛が「転向」をいざなう要因にもなったという見方が
ある。それは、確かにそうなのだが、「家族」から隔絶することで守り通される「非転向」が、運動の教条の不毛な絶対化や、孤立の
果てのテロルに結びつかない、どのような道がありえたかについては、また別の考察が要る。
むしろ、「家族」という各人の本来の居場所のほうにいったん向きなおり、これの合意形成をみないことには、状況が一歩も動かな
い――。そうした脱走米兵援助運動が直画した現実に、高度成長を経てきた世代の思想の一つの成熟を、私は感じる。「核家族」化と
並んで、ソコニハ、ヒッピズム、コミューン(生活共同体)志向、性解放など、血縁を越える「拡張した家族」の理念も混在していた。
私の父が、どうやら家庭内の合意形成に失敗し、脱走米兵援助には参加できなかった事実と合わせて、軽いおかしみとともに、そのことを思いだす。
(くろかわ・そう)
『毎日新聞』 2009年02月04日 なお、のちに毎日新聞社『1968年に日本と世界で起こったこと』(単行本、2009年6月刊)に採録。