147 花崎皋平『風の吹きわける道を歩いて――現代社会運動私史』大月書店 2008年12月 (抄) (09/01/27搭載)
同書 19〜23ページより
……札幌べ平連の立ち上げ集会は、
一九六六年にすすきのの東本願寺を借
りて開いたアメリカの反戦家ハワード・ジン(Howard Zinn)と小田実の講演会
でした。ハワード・ジンは歴史家で、の
ちに『民衆のアメリカ史』(富田虎男、平野
孝訳、明石書店、二〇〇五年)という大著を
執筆するなど、一貫してアメリカにお
ける反戦運動を担いつづけている方で、
いまも健在です。
この集会を開催するにあたり、北海
道にいる私にべ平連の同世代の友人か
ら声がかかったのです。「ベトナム反
戦運動を全国にひろめたい、受け皿を
作ってくれないか」と。もうひとり北大
法学部のMさんが、私と同じように頼
まれました。
そこで、私とMさんとふたりで、大
学関係者や市民運動家たち、北海道の
新日本文学会のメンバーを頼りにして、
講演会を開きました。そうしたら、す
ごくたくさんの人が来たんですね。会
場がいっぱいになりました。こうして、
「北海道でもべ平連を作りましょう」と
決まり、設立しました。
札幌べ平連は、ときどき講演会を開
き、定例デモを行ないました。東京で定
例デモが行なわれていたので、私たち
も、「毎月一回第三日曜日にデモをしよう」と決めました。最初はデモに集ま
る人は非常に少なかったです。八人と
か十人とか。そのぐらいの少人数での
スタートでしたが、毎月デモをしまし
た。大通り西六丁目から出発し、その当
時、アメリカ領事館が厚生年金会館の向かいの角にあったので、そこまで行って曲
がって帰ってくる。これがデモ行進のルートでした。
立ち上げのころ、学生の参加者は酪農学園大学学生のふたりぐらいでした。後
に、若い市民が加わりました。特徴的だったのは、札幌生まれの中産階級に属する
若者はほとんどゼロで、父親や母親が炭鉱の関連産業で働いていたとか、親が職を
求めて札幌へ出てきたという若者がほとんどでした。一九六〇年代のはじめから、
炭鉱閉山が北海道で吹き荒れたのです。母親が炭鉱病院の看護師だったとか、事務
員だったとか、札幌に上京して働いている産炭地出身の娘や息子たちが、最初のメ
ンバーとして熱心に活動していました。このことが、札幌べ平連のひとつの特徴
だったと思います。
全国的なぺ平連の様子は、東京で発行していた「べ平連ニュース」でわかりまし
た。ここには、全国の情報が掲載されていました。ただ、各地のべ平連とそれほど密
接な関係があったわけではありません。何回か、アメリカ式のティーチインという、
ほとんど徹夜で、集まった人が自分の意見をいい合う集会に出かけていきました。
まず東京でやり、京都でも開かれました。ティーチインにはさまざまな人を呼んだ
のですが、京都のときは、自民党の要職にいた宮沢喜一に声をかけて、彼が実際に
出席しました。
私たちは北大近くの小さなアパートに事務所を借りて、そこにいつも集まり、
ニュースを作る作業をしながらよく議論しました。十代から二十代の若い人たちの倫理的な感覚、不正義に対する怒り、「これをほ
うっておけない」という気持ちは、現代の若者よりずっと強かったと思いますね。
その感情が激しく現れると、石を投げたりすることになるんですけれど。
新左翼党派は党派に勧誘するための草刈場としてぺ平連を考えていたという
面はありました。吉川勇一さんが、べ平連を通過して新左翼党派に行くと、「べ平連
トンネル諭」について書いています。「ぺ平連なんか革命の理論がないじゃないか。
もっとちゃんとした革命の理論の許に活動しなければだめだ」と党派は説得する
のです。
でも、これは学生レベルの話です。市民としてベ平連に参加していた人は、実生
活の重みを感じながら活動していますから、そういう呼びかけに対しては、ごくわ
ずかな人しか影響されないで、自分のできることをやるということに徹していた
と思います。
武藤一羊さん、吉川さんらは、共労党(共産主義労働者党)という新左翼党派を結成
していたのですが、党派活動とべ平連の運動とをきびしく区別していました。党派
の利害や方針をそのまま持ち込まない、というように。私も一時、その共労党に加
わりましたが、札幌ではとくに活動はしませんでした。
小田実さんなんかは党派嫌いでしたけれど、吉川さんや武藤さんを信頼していたと思います。
ベトナム戦争に異議を唱えた米兵たち
べ平連がなした大きな仕事として、脱走兵問題についてお話ししましょう。ア
メリカ軍の空母イントレビッドから脱走した四人の米兵を守り、スウェーデンに逃がした仕事です。それを実行するために、「ジャテック(JATEC:Japan
Technical Committee to Aid Anti War GIs' 反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」が組織されました。
この脱走兵援助に関しては、共産党の非公然活動でのノウハウが役に立ちまし
た。脱走兵を宿泊させてくれる家を探して彼らを安全にその家に届け、一カ所にあ
まり長く逗留させないよう移動させる。こうした行動でした。
「ジャテック」活動の相談場所としては、東南アジア史にすぐれた業績を残した鶴見良行さんのマンションが利用され、私もその相談の会合に出ました。
国外へ逃がすルートとしていくつか考えられたなかに、稚内からと根室から
のふたつの北方ルートがありました。「そのルートをなんとかして作りたい」とい
うことになり、私と友人のふたりがルート作りを担当しました。私は北海道に来たばかりで北海道内に知人が少なかったので、私が信頼していた詩人の江原光太さんに頼んで、稚内まで行って稚内ルートを作る努力をしてもらいました。でも、なかなかうまくいきませんでした。可能性が高いのは根室のほうなんですね。根室は頻繁にソ連領海へ密漁船が行っていて、密漁船だったら脱走兵を運んでくれる可能性があったのです。私たちはルート作りを模索しながら、脱走兵を泊めてくれる家を進歩的とみなされていた文化人などに頼んだのですが、だれもウンといってくれませんでした。結局、いまだからお話しますけど、脱走のルートを作ったのは総評(日本労働組合総評議会)議長だった岩井章さんからのつながりでした。根室の密漁船に話をつけ、脱走兵を逃がすことに成功したんです。……(以下略)