146 C・ダグラス・ラミス+辻信一『エコとピースの交差点――ラミス先生のわくわく平和学』大月書店 2008年12月 (抄) (09/01/27搭載)
同書76〜80ページより
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辻 ベ平連とのつながりができて、その後はどんな展開に?
ラ ベ平連に関わって、あまり修士論文がすすまなかったんだけど、最終的にはバークレーに論文を提出した。東京にべ平連内閣という冗談半分の名前の組織があって、小田さんの周りにすごい人たちがいた。そのうち「外国人べ平連」をつくろうという話がでて、組織しました。当時、新宿に風月堂という喫茶店があってね。
辻 知っています!
ラ 不思議な喫茶店で、欧米のバックパッカーが、インドやカトゥマンドゥで風月堂のことを聞いて集まってきた。あの当時、ニースから南アジア航路で東京に来るとても安いフランスの客船があったんです。その船が東京に着くたびに、風月堂のメンバーがほとんど全員交代する(笑)。そこでイタリア人のステファノ・ベリエーニという男と出会った。風月堂のメンバーのほとんどは基本的には反戦で、エキゾティック・アジアに興味があって冒険しようとしているような人ばかり。ベリエーニはラジカルで反戦、当時の若い革命思想をもっていた。そこで、彼に外人べ平連をつくらないかと誘ったら、彼はいろんな国の人たちをかなりたくさんオルグ(勧誘)した。それでべ平連内閣が「その話はおもしろい」と言って、山手教会で記者会見をすることにしたんだけれど、そのときになったらみんな逃げて、ベリエーニとぼくだけ。結局ふたりで記者会見をした。
「メンバー何人ですか?」と記者からきかれて、どうしようかと困っていたら、ベリエーニが「30人。でもみんな強制送還が怖くて来ていません」と嘘を言った(笑)。その後は、10人くらいのメンバーが出たり入ったり。
辻 ぼくがアメリカに住んでいたとき、元兵隊で、日本にいたときに風月堂で新しい考え方を学んでマオイスト(毛沢東主義者)になったという黒人や、風月堂で日本人の彼女ができて、子どもができたのでいっしょにアメリカに帰ってきたとか、いろんな人に会った。風月堂って、すごい場所だったんですね。
ラ おもしろかった。今はもうあの雰囲気の喫茶店はないね。新宿に行けば、バックパッカーが集まる旅館はあるかもしれないけれど、そういう喫茶店は知らない。
辻 新宿フォークゲリラは?
ラ あれもべ平連の若者たちが中心だった。あれもあの時代の文化の象徴なんだけれど、べ平連が有名になったのは、むしろ4人の米軍からの脱走兵を助けた話でしょ。ぼくが日本に帰ってくる前の話なんだけど、戦争反対で空母イントレビッドから脱走したいという4人の米兵が新宿に行って、喫茶店に入って、自分と同じ年ごろの髪の長い若者と会って助けを求めた。その若者が、彼らをべ平連へ連れていった。もし今、脱走兵が新宿で若者に助けてくれと言ったら、助けてもらえるだろうか。
辻 それはかなりむずかしいでしょうね。たしかにそう考えるとすごいことだ。
ラ あの時代は、髪の長い若者であれば戦争に反対だと言えたし、脱走兵を助けたいという気持ちを抱いて、じつさいに行動することもできた。
辻 今はどうかなあ。若者たちの感覚が最近また変わってきているという兆しはあるかもしれない。一部にははっきり非戦を言える人も増えてきているという気がする。影響力のあるミュージシャンやアーティストの中に、かなり毅然とした人たちが出てきていますね。
『AMPO』で活動を発信する
辻 75年にベトナム戦争が終わって、反戦運動にも一区切りつくわけですが、ラミスさんの関心はどううつっていったのでしょう?
ラ そのことについて話すには、まず『AMPO』という雑誌のことを言わないと。べ平連は、70年の安保闘争のときに『週刊アンポ』という雑誌をつくりました。べ平連内閣のメンバーのひとり武藤一羊さんが、ぼくに、英語の雑誌をつくろうともちかけて、69年から発行しはじめた。それが『AMPO』。年に4回の季刊誌で、69年から2000年までつづいたんです。……〈以下略)