145玄武岩「グローバル化する人権――「反日」の日韓同時代史」岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一編著 『戦後日本スタディーズ 3 80・90年代』 紀伊国屋書店 2008年12月  所収) (抄) 08/12/13搭載)

……石田雄はベトナム反戦運動をとおして、被害者としての連帯感が加害意識を生み出し、それがその後の戦争責任論の発展に大きな役割を果たしたとしている。しかし、日本の革新勢力が植民地統治の視点に立つに至ったきっかけも、ベトナム派兵に反対して日本に「密航」した韓国軍兵士であった。米軍の脱走兵の支援活動を展開した「べ平連」(ベトナムに平和を! 市民連合)が本格的に大村収容所解体闘争を展開するようになる一九六九(昭和四四)年三月三一日の初のデモで、鶴見俊輔は「アジア人との連帯といいながら、私たちは、アメリカのベトナム戦争脱走援助はやってきたが、韓国の金東希(キムドンヒ)さんに対しては、なにもしなかった……」と叫んだ。この日の闘争は、出入国管理法の改正案に反対し、韓国人の強制送還を告発する、朝鮮問題を視点においた最初の現地闘争という歴史的意義を持つものであった。
「戦争責任」の議論がほとんど見当たらなくなる一九六〇(昭和三五)年から七〇年代までの空白期に、朝鮮半島やサハリンから日本の好まざるかたちで「来日」した戦後認識の異端者たちは支配の記憶を呼び覚ました。このように、旧植民地から突きつけられることで加害者としての記憶が想起させられる一方、冷戦構造がアジアにおける反日感情を押さえ込む状況で、日韓関係に介在する「反日」がどのように展開してきたのか、その過程を見てみよう。……

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