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40. 吉川勇一 「難死の原点を真剣に生きる――常に運動の現場で―― (識者評論 小田実の遺志)(全文)(共同通信配信 10 『埼玉新聞』などに掲載)
識者評論 「小田実の遺志」◎
難死の原点を真剣に生きる ――常に運動の現場で――
吉 川 勇 一 (元ベ平連事務局長)
間もなく八月一四日がやってくる。一九四五年のこの日、大阪をB29の大編隊が襲い、何万という犠牲者が出た。天皇の敗戦放送の前日のことだった。
それは、畏友、故小田実の活動の原点となる経験だった。もしも「国体の護持」などにこだわらず、敗戦の決定がもう一カ月でも早くされていたならば、この死者も、広島、長崎の膨大な犠牲者も出ずに助かったはずだ。
彼はその死を「難死」と呼び、毎年、この日に大阪で反戦の集まりを開いていた。いや、あらゆる機会を捉えては、このことを何度も何度も繰り返しのべ続けてきた。今年も大阪では、遺された運動仲間たちによって「『八月十四日』と『小田実さん』」という集会が開かれる。
運動が次の世代の人びとに継承されること、彼がそれを望んでいたことはもちろんだったろう。だが、小田実は、人びとに継承それ自体を訴えることはしなかった。彼はひたすら自らの思いを語り、自らの信ずることに基づいて自らの行動を続けることに専念した。
彼は頑ななまでに自分の言葉で大阪大空襲の経験を語ったし、また、民衆が戦争に協力させられるとき、戦場に駆り出されるなど、被害者にされると同時に、他国の民衆を殺すという加害者の立場に立たされ、しかしその中で、さらにより大きな被害を受けるという、あの「被害者→加害者→被害者」という重要な提起を、何度も繰り返し言い続けてきた。
しかし私は、それが継承を可能にしてゆく有効な方法なのだと理解する。経験と運動の継承は、次の世代に媚びたり、理解してもらい易いように小手先の工夫をすることなどによって可能となるのではない。自らの信ずることに従って真剣に生きる、それが人びとの胸を打ち、共感の輪を拡げてゆくのだ。
彼の重い病いが報道されてから、私のもとには、多くの未知の人たちから、小田さんに伝えてほしいと見舞いや激励の便りが届き、死が伝えられてからは、また多数の哀悼の言葉や彼への感謝のメッセージが寄せられてきている。
反戦の言説を唱える知識人は少なくない。しかし、小田実のように、常に運動の最先端の現場に身を置き、有名無名を問わず、人びとと同じ平面で精力的に行動を続けた人は残念ながらいない。
ベ平連での幾多の局面での活動は言うまでもなく、その後、阪神淡路大震災のあとの彼の動きぶりも眼を見張るものがあった。
被害を受けた西宮の自宅から連日のように上京し、議員面会所を駆け回って、自民党から共産党までの議員をつぎつぎと説得し、私有財産の被害を国家は補償しないといい続ける政府に、市民=議員立法を対置して、十分とはいえぬものの、ついに災害被害者に公的支援を行なわせる法律を成立させたのだ。
その後の幾多の災害で、どれほどの被災者がこの立法によって助けられたことか。
ほぼ半世紀近く、私は数々の運動を彼とともにし、意見の対立や議論も何度もあったものの、大局を見て的確な方向を指し示す彼の判断が間違ったことはなかったと信じている。かけがえのない人物を日本は失った。
だが、小田実の主張は、確実に多くの人びとの胸に届き、抱かれ続けていることを、私は実感している。彼の志と思いは、継承されてゆくに違いない。
(よしかわ・ゆういち) 一九三一年東京都出身。ベ平連「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)事務局長、名古屋学院大学などでの講師などを経て現在「市民の意見30の会・東京」で活動中。
【編注】(8月14日午後1時から大阪市・市立弁天町市民学習センター。連絡先−0729-98-1113 北川)